私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。(18~20節)
テモテへの手紙の文学的、論理的構造
今日の箇所(18節~20節)は、2節から6節で述べられたことが、こだましている箇所です。「私の子テモテ」「命令」「信仰と正しい良心」というキイワードが重なります。こういう繰り返しは、当時の文学的手法の代表的なものです。テモテへの手紙は黙読されたのではなく、朗読されました。ですから、読者は目で文字を追ったのではなく、耳で話を追っていったのです。この耳で聞く文学の世界では、繰り返しというのはただ強調するだけではなく、話のまとまりを教えるサインのように用いられました。すなわち、2節から5節の内容を短く反復することで、ここまでで一区切り、ここから新しい区切りということを聞き手に伝えようとしているのです。私たちの場合、「1章」、「2章」という数字がありますから、自然にここで切れると思うのですが、耳だけで聞く場合、そのような数字では役に立ちません。(もっとも、そのような数字は後からつきました。)
そういうわけで、ここからテモテへの手紙第1の本論がスタートします。けれども、これまで学んできたところが、余計な脱線ということでもありません。一般的な手紙の形式では、差出人と宛先に続いて、感謝と賛美が続くのですが、パウロはこの形式を周到に利用して、手紙全体の総論的な内容をまとめながら、感謝と賛美を織り込んでいるからです。ですから、ここから本論ですが、すでに扱ったこと―「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」という健全な教え―を土台にして、様々なケースに当てはめていくことになるのです。
テモテの戦い~武器を間違えないこと~
テモテがエペソ教会でしなくてはいけないことは、違った教えを説くある人々に対決して、その教えを奉じることをやめさせて、健全な教えに戻るように導くことでした。これをパウロは「戦い」と言っています。それは偽教師を屈服させたり、やり込めたりすることが目的ではなく、キリストにある兄弟として取り戻すという「戦い」です。エペソ教会の中にある病をいやすという「戦い」です。
「戦い」であって「争い」ではないということに注意しましょう。もし、かれらに対して論争を仕掛けることになれば、問題はますます広がります。「論争」という偽教師が使っている武器を使ってしまったら「戦い」は「争い」になってしまうのです。テモテがしなくてはいけないのは、かれらが捨ててしまった武器を拾って、それで「戦う」ことでした。その武器とは、「信仰」と「正しい良心」です。言い換えれば、真理を伝えた上で、そこから先は、神様が取り扱ってくださるという信頼であり、どこまでもその偽教師に対して善意をもって臨むということです。これは並大抵のことではありません。テモテの信仰が試されるのです。だからこれは「勇敢に戦い抜く」ようにと励まされる必要があったのです。
教会の戦い~できることを、命じられる神~
テモテは、パウロがどのようにそれを行ったかを近くで見ていました。ヒメナオとアレキサンデルという2人は、エペソ教会のリーダーで、偽教師でした。パウロはかれらに真理を示し、それでもなお態度を変えないことを確認したとき、教会の交わりから切り離す処置をしました。教会への出入り禁止です。「サタンに引き渡す」とはそういう意味です。これが信仰の戦いの切り札でした。けれども、それさえも回復が前提です。「神をけがしてはならない」ことを、教会の外で、祝福を失った状況を体験して、神様のお取り扱いの中で悔い改めることが目的です。とことん、善意で臨む、教会が傷つき、引き裂かれるとしても、そこに悪意を入れないで対応する、これが教会の戦いなのです。
牧師という仕事の何という大変なこと、と思います。けれども、神が召されたということは、それをするための、力がすでに授けられているということが前提です。神様はできないことはさせないのです。その召しに立たせられたのなら、できるようにされている、それを信じて一歩踏み出せ、とパウロはここで奮い立たせています。パウロはテモテだけにこの重荷を負わせて、教会は知らないでよいと思っていない、ということも覚えましょう。教会全体が、神への信頼と人への善意という武器をしっかり握る必要があるのです。
