1章-10 永遠のいのちを与える神

どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。(17節)

「永遠のいのち」にまつわる誤解

今回の箇所(16~17節)で、「永遠のいのち」という言葉が出てきます。クリスチャンにとっては、おなじみの表現で、私たちが救われた結果、与えられる祝福を指すことばです。新約聖書の中心メッセージは、「イエス・キリストを信じる者に永遠のいのちが与えられること」です。パウロはここでそのことを明確に示しています。

しかし「永遠のいのち」とは何かということ、その中身を問われると、答えに困ってしまうということがないでしょうか。そして、「永遠のいのち」という言葉が独り歩きして、日本語のことばのイメージで理解されてしまうと、聖書が教えているところから、遠ざかってしまう危険があります。実際、このテモテの手紙が書かれた世界、ギリシャ世界でも、この危険がありました。「永遠」を表すギリシャ語「アイオーニオン」、そして「いのち」を表す「ゾーエー」は神話的な神の名前でもあったからです。

例えば「永遠」を辞書で引くと「いつまでも果てしなく続くこと」という意味が出ます。これを「永遠のいのち」の理解に当てはめると「いつまでも果てしなく続くいのち」という意味になります。この意味だけが独り歩きすると、死後にまで続くいのち(たましいが生き続ける)というような印象を与えることになります。つまり現在のいのちが時間的に無限に延長される、そういうイメージです。

あるいは「超時間性」という意味で永遠を理解すると、時間の枠組みから出て、神になるような印象を与えるかもしれません。この意味の永遠は、神だけがお持ちの属性ですから、私たちが与えられるいのちは、このようなものでもないのです。

「永遠のいのち」の健全な理解とは

ギリシャ語の永遠「アイオーニオン」は、「世」と訳される「アイオーン」というギリシャ語から派生したものです。「アイオーン」は、世界を時間の枠組みから理解した表現で、一定の期間を指しています。そして、聖書の世界観は、いまのアイオーン「世」の次に来るべきアイオーン「世」があるということを伝えます。これは、死後の世界ではなく、この世界のことであるということがポイントです。この歴史の先に、いまの「世」の終わりがあり、次の「世」の始まりがあるのです。そして、「永遠」というのは、この「次の世」を指しています。ですから、永遠のいのちというのは「次の世に人を生かし続けるいのち」という意味になるわけです。そこには当然、からだのよみがえりが伴います。けれども、今わたしたちの肉体を生かしている生命力とは質的に異なるものなのです。

これに加えて「いのち」という言葉が、単数形であるということに注意したいと思います。個々人がそれぞれ一つずついのちを与えられているのではなく、一つのいのちに多くの人が生かされる、これが大切なポイントです。このイメージは、イエス様が語られたぶどうの木のたとえが一番鮮やかでしょう。いのちは1つ、イエス様のいのちです。そこに私たちがつながることで、このいのちは私たちにも駆け巡るようになるのです。現代的なイメージで言えば、自家発電しながら生きるのではなく、供給されている電源につながって生きるということです。ですから、永遠のいのちの本質は、イエス様との交わりにあるということなのです。

さらに大事なことは、この「次の世に人を生かすイエス様のいのち」が、未来にではなくて今この瞬間に私たちに流れ込んでくるということです。それで私たちは、この世のいのちと、永遠のいのちの二重性の中に生きているのです。現在の延長ではなくて、未来の先取りこそ、永遠のいのちの素晴らしいところです。

「永遠のいのち」を与える神への賛美

このような素晴らしい恵みを与えることができるのは、神が世々の王だからです。すなわち、今の世も次の世においても主権者であるということ、朽ち果てていき、目に見ることのできる物質とは異なる霊なる方だからであり、そのような方は、一人しかいないのです。それ以外のものは、神ではありません。この方に、私たちはこの世でも、次の世でも、賛美をささげ続けることができる。この世において、まるで次の世にいるかのような礼拝をささげることができるのです。