1章-4 愛と律法

しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。(7~10節)

今回(1章6節~11節)取り上げるのは「律法について」です。テモテが仕えていたエペソの教会には、律法の教師を自称する人たちが何人かいました。

律法理解の多様性

律法という言葉は、今で言う「旧約聖書」を指すほどに広い意味から、「十戒」に代表されるような法律を指す狭い意味、またモーセの書いた五つの書(創世記から申命記まで)を指すという使われ方があります。けれども本質的には一つのことです。すなわち、「神が人間に望まれる生き方の手引き」という意味です。それは戒めという形もとりますし、モーセ五書には、戒めだけでなく、様々な人間模様が描かれています。そして旧約聖書全体が、そのような役割をもっているわけです。

問題は、キリストの教会は旧約聖書や、そこに記された戒めをどのように扱うべきか、ということです。これはパウロがローマ人への手紙七章や、ガラテヤ人への手紙3章でも論じているように、教会にとって大きなテーマでした。ローマもガラテヤもそしてエペソも異邦人中心の教会であるということが一つのポイントです。旧約聖書はそもそもイスラエルに宛てて書かれた書物ですから、それを異邦人たちはどのように読んだらよいのか、ここに理解の分かれ目があったのです。

議論は極端に分かれました。片方は旧約聖書などもはやいらない、律法は不要であるという論です。そしてもう一方は、いや、旧約聖書は一文字も捨てられない、異邦人もイスラエルのように生きるべきだという論です。そしてパウロはこれらの真ん中に立って、旧約聖書を不要とも言わないし、異邦人がイスラエルになることも必要ではないという第三の道を提示していく、これがなかなか理解されないので、パウロは生涯苦心していくのです。

律法の「使用上の注意」

エペソの場合、自称「律法の教師」は律法に対して「不良品」というような理解をもっていたようです。それで、律法にある系図から空想を広げ、違った教理を導き出していた、と考えられます。

それでパウロは「律法は…良いものです」と言うのです。けれどもすぐに付け加えて、使用上の注意を守る限り、と条件をつけます。どんなに良い薬でも、使用上の注意を守らなければ毒になります。律法もこれに似ているのです。

日本語訳は、「次のことを知っていて、正しく用いるならば」と訳されていますが、ギリシャ語は「正しく―適切に―用いるなら、そして次のことを知っているなら」と言う語順です。

正しく用いるなら、というのは「愛」を目的にして用いるということでしょう。律法は、神によって救われた人が、いかにして神を愛し、人々を愛することができるか、ということを具体的に導くためのものです。イエス様が律法の中心としてまとめられたことです。(マタイの福音書22章34節~40節)

そして、誰のために用いるのかといえば、正しい人のためではなく罪人のためです。しかも裁くためではなく、立ち直るため、悔い改めるために導くためにあるのです。

ここには強烈な皮肉があると言わなくてはなりません。律法の教師たちは、自分たちこそ「正しい」と主張していたでしょう。そのような人たちのために、律法は与えられていないのだ、とパウロはかれらから律法を取り上げます。そして、律法、とりわけ十戒を意識して、律法が禁じていることは、きわめて有益、良いものであることを述べ、最後に「健全な教えにそむくこと」と、偽教師のことを、これと同列に並べてチクリと刺すのです。すなわち、律法を不良品だと言って、律法が言おうとしている愛の精神から離れている「律法の教師」たちこそ、律法を必要としているのであって、彼らこそこれに聞かなくてはいけないのだ、とほのめかしているのです。

現代でも、旧約聖書をほとんど不要とし、新約だけに傾くこと、その一方で旧約聖書の世界にこだわり過ぎる人たち、両者があるでしょう。真ん中でバランスを取ることは難しいのですが、「愛」を中心目的にして用いれば、間違うことはないのです。