1章-5 福音とその管理

祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。(11節)

今回の箇所(1章9節~11節)で取り上げたいことは「福音」です。「祝福に満ちた神の、栄光の福音」とあります。

福音と律法

第一に、福音と律法の関係について。しばしば、旧約聖書は律法で、新約聖書は福音というように対立的に捉えられることがあります。確かに扱われている分量を比較するとそういう側面はありますが、この言葉が独り歩きすると問題です。そもそも福音と律法は、対立的なものではなく、補い合うものです。

福音というのは、神が主導権をとって行われた、救いのみわざの告知であり、律法というのは、救いを受け取った人が、恵みに応えて歩むための手引きであるからです。

福音の源とその趣旨

第二に、福音の源についてです。これは「祝福に満ちた神」から来るのです。神が源であり、その神は、祝福に満ちた方です。すなわち、人間を愛して、すべての人を祝福で満たしたいという願いを抱いておられる方が、福音の源なのです。

第三に、福音の趣旨についてです。それは「栄光の福音」とあることから、神の栄光が完全に現されることだとわかります。すなわち、福音が正しく告知されるなら、神が崇められることになる、ということです。

福音の管理

第四に、福音の管理についてです。ここでパウロは「私はその福音をゆだねられた」と言っています。これも第一テモテの冒頭から続いている権威的な表現のひとつです。ここで「」は強調されていて、「私こそが、この福音をゆだねられたのだ(「ある人々」ではない!)」というニュアンスがここにはあります。「ゆだねられる」とは「信任される」ということです。福音が、福音であり続けるように管理する務めが、パウロにはゆだねられていました。

なにしろ、新約聖書が完成していない時代のことです。様々な教えが「福音」として出回り始めていた中で、それが祝福に満ちた神の、栄光の福音に一致しているかどうかは素人には判断が難しかったことでしょう。あのペテロでさえ、福音に適わない行動をしてしまうことがあったのです。そこで、管理者が指定された。それが使徒パウロだったわけです。彼がキリスト者になる以前に、蓄積された旧約聖書の知識が、おそらく用いられたのだと思われます。

それはともかくとして、ここでパウロはエペソ教会で幅を利かせている「ある人々」の教えが、健全であるかどうかをテストするものとして、福音を提示しています。すなわち、その教えは、神が主導権をもっていて、あまねく祝福を与えるためのものなのかどうか、そして、その教えが神を崇めることになるのかどうか、ということで判断している、テモテにも判断するように、教会にも判断するようにほのめかしているわけです。

福音をくもらせることへの警戒

このように記されていることからすると、「ある人々」の教えは、神が源ではなくて、その間に人間を立て、特別な教師が事実上の源になっていた可能性があります。また、その結果、この教師に学ばないものには祝福が及ばないというような、排他的な傾向があったでしょう。さらに言えば、そのような教えによって起こるのは、教会が一つになって行う神への礼拝ではなく、教師礼賛というようなこと、神の栄光を奪い、そこに覆いをかけるということだったに違いありません。

現代でも、神以上に、雄弁な説教者やカリスマ牧師が幅をきかせ、異端とはいわないまでも、神の栄光を奪うということ、カルト化することは簡単に起こります。説教や牧会、リーダーシップの賜物は、神の栄光のために与えられた祝福ですが、それが問題を引き起こしてしまうということがあるのです。ですから、私たちはこのことに注意を払い、このことのために祈らなくてはいけません。パウロを経て、このように新約聖書が与えられ、完結した今日において、福音の管理は、教会全体にゆだねられていることを覚えておきたいと思います。