女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。(11~12節)
「よく学ぶ」ことは「教える」こと
今日はまず、ヘブル語の雑学をひとつ紹介しましょう。ヘブル語の動詞には標準の形と、強調の形があります。日本語で言うと、「飛ばす」というのは標準の形、「ぶっ飛ばす」とか「かっ飛ばす」というと強調された感じになりますね。それと似ています。そして、ヘブル語で「学ぶ」という動詞はラーマードというのですが、これを強調形にすると「教える」という意味になるのです。つまり、「教える」というのは、「よく学ぶ」ということだというわけです。
人に何かを教えるということをしたことがある人なら、このことは経験としてよくわかるでしょう。相手に何かを教えようと思ったら、その人以上に、よく学んでいないといけません。使徒パウロも、ヘブル語を使いこなす教師でした。ですから、この教えと学びの関係を概念としても、経験としてもよく理解していたはずです。
「女性差別」ではなく「権利擁護」
さて、このことを心において、今日の箇所(11節~12節)を学びたいと思います。この箇所は、しばしば女性差別に拍車をかけてきた箇所として有名です。「女は、静かにしていなさい」と言われると21世紀の女性たちは心外に思うかもしれません。逆に、聖書にこうあるのに、女性に発言を促す牧師に不信を抱くということもあるかもしれません。どちらの態度も、聖書信仰ではなく、「聖句信仰」であって、パウロの教えを読み誤っています。
前回学んだように、この文脈は8節の「祈るようにしなさい」という中心主題から始まっています。そして男性も女性も、怒りと議論をやめることが求められていました。そういう文脈で「静かに」と言われているのです。ただ「おしとやかに、黙って俺について来い」という意味ではありません。議論をやめ、口をつぐみなさい。そういうことです。
注目すべきは「教えを受けなさい」という命令です。直訳すれば「学び続けよ!」。この命令は、1世紀の世界では非常に画期的な命令でした。今でこそ、女性の学習権が男性と平等に保障されていますが、当時はそんなことはありません。ユダヤ教の文献では「女性に聖書を教えてはいけない。それはみだらなことだ。」とまで言われていたのです。そういう世界で、女性たちに「学び続けよ!」と命じるのですから、これは女性蔑視ではなくむしろ女性の権利擁護発言です。そして、思い出していただきたい。学ぶということは、やがて教えるということに通じるのです。よく学ぶなら、教えることもできるようになるのです。
一時的な禁止命令~学びへの招き
それならなぜ、12節のみことばがあるのでしょう。ここでパウロが「私は、許しません」と言っていることにヒントがあります。ここを厳密に訳すと「私は、目下のところ許しません」という意味なのです。すなわち、エペソの今の状況では、許すことができない、ということです。もし「女は、教えること…を許されていません」と書いてあったら、神様の普遍的な定めであると受け取らなくてはなりませんが、そうではないのです。
エペソの町が女神信仰と神話にあふれた町であったことを前回も学びました。そういう中では、宗教的に女性が活躍する場面があったことは間違いありません。けれども、彼女たちの学習権はなかったのですから、後ろで手を引く男性たちの言いなりだったことでしょう。そして、同じパターンが、教会の中でも起こっていたのです。偽教師の傀儡として、「女神のような」格好をした女性たちが教会を取り仕切る、そういう事態。これを前にして、テモテは手をこまねいていたのでしょう。パウロはそういう状況下で、女性たちをユダヤ教のように除外することをしませんでした。男性と同じように、祈ることへと招き、聖書の学びへと招いたのです。ただし「よく従う心をもって」と釘をさします。すなわち、疑いを差し挟んで、混乱を起こす意図を捨てて、学べということです。
私たちは、今、自由に学ぶことが許されています。学びが学びで終わることなく、善い行いとして結実しますように。そして別の人にも教えることができるまでに成長することを願って、学び続けていただきたいと思います。
©Masayuki Hara 2016
