2章-7 男性も女性も同じように

ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。(8~10節)

「すべての人」への神の関心からの論理的帰結

2章4節で、神がすべての人の救いと、真理を知るという2つのことを望まれていると述べたパウロは、その根拠を挙げていくわけですが、その最後に自分自身を証拠として差出します。もし、神がこれらのことを望まれていないなら、自分の使徒としての奉仕は存在しない、というわけです。ここでもう一度パウロは、暗に自分の使徒としての権威を主張し、信仰と真理を異邦人に教えるために自分が存在するのだから、聞き従うようにと呼びかけています。

その上で「そういうわけで」と続きます。神がすべての人との救いと真理を知ることを望んでおられるのだから、祈りなさい、と続くのです。1節にある、すべての人のために祈りなさいとの最初の勧めに戻ってくるわけです。けれどもここで「男は」、「は」と語られます。このことによってパウロの視野がテモテだけではなく、教会全体に向けられていたこと、この手紙が公開書簡であったことがはっきりすることになるわけです。

それはさておき、ここで、パウロが願うことは、男性にも女性にも本質的に同じ、祈ることなのだということを押さえておかなくてはいけません。「同じように女も」という箇所は、ついついその後に続く服装に関するパウロの教えによって、軽く読みすごされてしまいやすいのです。日本語で読むと、男性は祈り、女性はつつましい身なりをせよ、という印象を受けるかもしれません。男性は祈ることが下手で、女性は祈りには問題ないけれど、服装に問題がおきやすい、そういうことではありません。ギリシャ語の文の組み立て方を、日本語で伝わるように組み立てなおすとこうなります。「私が願うのは、祈ることです。男性も女性も、どこででも、怒りや議論から離れたきよい手をあげて。それから女性はさらに服装にも気をつけて、祈るようにしなさい」と流れているのです。それが「同じように」という言葉の係り方です。

きよい手をあげる」というのは、当時の祈りの姿勢と関係があります。私たちは今、手を組んで祈ることが多いでしょうが、祝祷では手をあげて祈ります。その手が「きよい」ということは、手を洗っているかどうかではなく、怒りや議論から離れる、ということを意味しています。ここでも、手紙の文脈を忘れてはいけません。エペソ教会は偽教師たちに悩まされ、混乱していたのです。やれ、こっちが正しいだの、そっちは間違っているだの、集会でも、家庭でも喧々諤々していた。パウロはそれを一切やめて、祈れと言っているのです。

偽教師に絡めとられた女性たちの霊的問題

女性に関しては、怒りや議論に加えて、身なりの問題もありました。テモテへの手紙を読み進めていくとわかってきますが、どうやら偽教師たちは、女性たちを取り込んで、教会を混乱に陥れていたのです。女性を非常に高い地位へと担ぎ上げて、快い気持ちにし、無軌道な状態に陥っていたことが想像されます。それもただ単に、女性をちやほやしたのではなく、神学的に、教理的にちやほやしたのです。ここで問題になっている服装は、その誤った自己理解から生まれてくるものなのです。

エペソという町は、女神信仰の町です。アルテミスという女神を祭った神殿で有名な場所でした。女神信仰から離れ、キリストに生きるようになったはずの人々の心に、女神信仰がくすぶっていたとしても不思議ではありません。そこに、聖書的にもっともらしい装いで、もう一度女性を担ぎ上げるような教えが語られたとき、くすぶっていた火種が一気に勢いづいてしまったのでしょう。彼女たちの服装は、まるで自分が女神になったかのような格好です。パウロは、これを禁じるのであって、お洒落一般を禁じているわけではありません。「つつましい」、「控えめ」、「慎み深い」といった言葉は、品があって、清楚、場に相応しい、と言い換えてもよい言葉です。

「腐っても鯛」という諺がありますが、「救われても罪人」というのが私たち。このからだでいる限りは、くすぶっている罪の火種があることをわきまえつつ、男性も女性も、共に「きよい手をあげて」、すべての人のために祈ることに専心したいと思います。

©Masayuki Hara 2016