3章-1 祈りをむさぼる

「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。(1節)

教会のリーダー職を熱望する「神のような」人たち

2章全般にわたって、パウロが強調してきたことは「祈ること」であり、その背景には祈りをやめ、神のようにふるまう男女がいたということでした。そういう流れの中で3章の言葉を受け止めなくてはいけません。「人がもし監督の職につきたいと思うなら」と始まるので、急に話題が変わったかのように思われるかもしれませんが、そうではありません。監督の職、すなわち教会におけるリーダーとなる(今で言うと教会役員に相当する。全体を見渡す人という意味。教会全体に気を配る役割を担った人々。)ということは騒ぎを引き起こしていた人々が夢中で求めていたことでした。逆に言えば、祈りをやめ、神のようにふるまう人たちは、そのようにすることで、教会のリーダーになれると信じ込んでいたのです。

監督職不要論ではなく、監督職への正しい道筋

人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」という言葉は、パウロも同意しエペソのすべての人たちに共有されていた格言でありました。「ということばは真実です」という言い回しは1章15節にも出てきて、議論の土台になる真理を意味しています。では、なぜここでパウロがこの言葉を引用するのか。それは、2章の後半で戒めてきたことが、監督の職につこうと躍起になっている人々に水を差す以上に、監督の職そのものを不要とみなしているのではないか、という誤解につながる可能性があったからです。もしそうなると、これは共通の了解事項ですから、パウロの方が異端者となってしまいます。ですから、パウロはここでその疑惑を否定し、むしろ正しい仕方で監督の職を求めるようにと、ここから軌道修正をかけているのです。そこでパウロが訴えかけるのは「すばらしい仕事を求める」という言葉です。

この言葉は「良い行い」とも訳せる言葉です。2章3節で「神の御前において良いこと」と言ったときの「良い」です。ただ「良い」というのは幅のある厄介な言葉で、その中身は人によって好き勝手に理解されてしまいます。人々は自分にとっての「良い・すばらしい」を基準に、それを追求していた。そこでパウロはこの「良い」は神の御前に「良い」のであるという前提を2章3節で定め、これをもって2節から具体的な資質を取り上げていくのです。

つまりパウロは「すべての人のために祈ること」こそ、神の御前に「すばらしい仕事」だという前提で論じています。ですから「祈ること」の中にリーダーの立場を求めることへの資質のすべてが集約されていると考えるべきなのです。2節以降の資質は、すべて祈りの結果、御霊の実として生まれるものです。

一人歩きすると危険な格言

次に、「求める」という言葉に注目しましょう。なんとこの言葉は「むさぼる」という言葉です。「むさぼり」とは十戒の最後に取り上げられる罪。それがここで積極的な言葉として使われているということに驚きます。つまり「激しく求める」こと自体は善悪ではなく、求める対象が問題だということです。自分の欲しいものをむさぼることは罪ですが、神が願う生き方を激しく求めることは罪ではないのです。私たち人間は、何かを激しく求めずにはいられない性分。それで罪から解放されても放っておくとまた、自分の欲望に囚われてしまいます。だから神に向かって、祈りを激しく求めるようにと初代教会で教えられていたのでしょう。ところが、「すばらしい仕事」を都合よく解釈すると「経済的に栄える」という意味でも理解できます。すると「むさぼる」という言葉は本来の意味で、欲望の奴隷となっても良いという意味に響いてしまう。そして、実際そのようにして、金銀を得たいために、教会の監督を志す者たちがいたのです。何しろエペソは宗教ビジネスが盛んな土地なのです。

この節の「…ということばは真実です」に1章15節にあるような「そのまま受け入れるに値するものです」という言葉はついていないということに注意しましょう。これは一人歩きすると危険な格言、但し書きが必要なものなのです。

さて、この節から私たちは「祈ることを激しく求めているか」と問われます。もし、そこから外れているなら、何か別のものをむさぼってしまう危険があるように思うのです。

©Masayuki Hara 2016