2章-10 女神ではなく、人間であれ

しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。  (15節)

女神信仰を是正するという文脈の重要性

エペソ教会で騒ぎを引き起こしていた偽教師たち。その中には女性たちもいて、彼女たちは女神のような格好をし、女神のような振る舞いをすることによって、それが信仰的であるかのようにたぶらかされていました。パウロはそのような女性たちに次々と釘を刺します。本当に信仰的でありたいのであれば、女神の格好をやめて、良い行いを飾りにするように、真理を教えることができるために、よく学ぶように。そして男性に対する知恵や権威の授与者であるという誤った理解から離れるようにと言うのです。その最後に今回の箇所(15節)が来る、ということによく注意しなくてはなりません。「子を産むことによって救われます」という表現は、これまた一人歩きすると誤解を生む聖書の言葉のひとつです。

ここでも、ポイントになるのは女神信仰との比較です。イシスという女神も、アフロディテという女神もともに処女であるという信仰がありました。ですから、エペソの女性たちが、この女神にあやかろう、この女神と一体化しようとしていたのであれば、処女であろうとし、それを誇りにし、子を産むことを毛嫌いしていたことが想像できます。そのような文脈で、女性たちに対して「子を産むことによって」と言うのです。つまり、これは女神のような振る舞いを一切やめなさい、という一連の命令の最後の一押しなのです。

女神信仰への誘惑はなぜ起こったのか。

2章の冒頭を学んだときに、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために」という部分で「また」は不要であると述べました。「王と高い地位にある人」は、この当時人間とはみなされておらず、神あるいはその化身であると考えられていたのです。けれどもパウロは福音の光に照らして、その考えを否定し、かれらもまた「人間」なのだと主張したことを学びました。そういう社会的、宗教的文脈の中で、ここでは逆にクリスチャン女性たちが、人間であることをやめて、女神になろうとしていたわけです。

どうしてそのような考えが入り込んだのかを予想するなら、「キリストに似た者になりなさい」という教えが、誤解されたのだと思われます。キリストは神ですから、神のようになること、女性は女神のようになること、そう連想されたのでしょう。けれども、聖書の教えの意図は、品性において、神のようになりなさいということであって、人間であることをやめなさいという意味ではありません。しかし、罪人である私たちは、人間をやめて「神のようになる」誘惑に心惹かれやすいのです。そもそもエデンの園での蛇の誘惑の言葉は「あなたは神のようになる」だったことを思い出してください。けれども、人間であることをやめたなら、救いはありません。「キリスト・イエスは罪『人』を救うためにこの世に来られた」のです。「神はすべての『人』が救われ…るのを望んでおられる」のです。

もし自分が神になったと考えるなら、救いの外側に自らを置くことになります。ですから、「子を産むことによって救われます」とは、パウロの痛烈な皮肉です。「女神になったつもりでいる女性たちは、キリストの救いの外側に行ったことになっていますよ。早く人間に戻らないと救いはありませんよ」とパウロは言うのです。もちろん、本当に女神になったわけではありませんから、本当に救いを失ったわけでもありません。これは「もしも」の話です。

人間であることの本質は、祈ること

人が救われるのは、ただ信仰によるのであって、ここでも信仰、愛、聖さにとどまりなさいと勧められています。これは女性も男性も同じです。そして、人間が人間であることの本質は「祈ること」にあるとパウロは教えるのです。それで、祈りへの命令がテモテへの手紙の本論の最初に述べられ、念入りに確認されるのです。祈りとは、自分が神ではなく人間であることをわきまえた者だけが成す行為です。そしてなんと、ギリシャ語で「人間」を意味するアンスローポスとは、「顔を上に向ける者」という意味で、これは祈りの姿勢を表しています。パウロは、この2章でくどいほどこのアンスローポスという言葉を使いました。それは、「ほら、あなたたちの使う言葉でも、人間とは『祈る者(アンスローポス)』でしょう。神になってはいけません。人間にとどまって祈りなさい。」と言わんばかりのことなのです。

©Masayuki Hara 2016