2章-8 日々、思い起こし、日々、努め励む

これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(十四~十五節)

根深い病巣に対処する

皮膚の病気の中には、表面に出てきた病巣を取り除いても、しばらくするとまた表面に同じ病気が出てくるというものがあります。病巣が、皮膚の奥の方にあるので、なかなか治りません。

私たちの霊的な歪みというのも、似たようなところがあって、昔ながらの馴染みの考え方、世界観、人生観、宗教観というのは、取り除いても、取り除いても、ふとした瞬間に頭をもたげるのです。ですから、みことばから離れてしまうと、あっという間にそちらに持っていかれることになります。これは強烈な力です。何しろこのゆがんだ霊のあり方は、この世に蔓延しているのですから、内からも外からも私たちは危険にさらされているわけです。

エペソの教会が置かれていた状況もそういうわけで、「何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争」がここかしこで沸き起こっていました。それに巻き込まれるキリスト者もいたわけです。

パウロはここで「これらのことを、人々に思い起こさせなさい」と言いました。「これらのこと」というのは、十一節から十三節にある「信頼すべきことば」のことです。「思い起こさせなさい」というのは、詳しく訳すと「繰り返し思い起こさせなさい」という言葉です。何度も何度も、「信頼すべきことば」を用いて、キリスト信仰者を励まし、導くようにということです。一回言ったから、それで十分というわけではありません。何度も何度も、繰り返すのです。

熟練すべきなのは誰か

「人々に」という言葉は、ギリシャ語の原文にはありません。文脈から補っているのですが、しかし思い起こさせる対象を、パウロがあえて書かなかったと考えると、ここでのメッセージのポイントがもう少し深まる思いがします。思い起こすべきなのは、人々だけではなく、テモテその人も、思い起こすべき人に入るのです。

しばしば、この箇所は、牧師のような、みことばを語る責任のある人にだけ当てはまると考えられがちです。けれども、新約聖書の発想は、いろいろな人がみことばを語ることができる、と捉えています。エペソの教会でテモテだけがリーダーシップをとっていたわけではありません。テモテは、リーダーグループの一メンバーで、その中でも一番年若い存在でした。

そう考えてくと、ここでパウロはやはり、テモテに語り掛けているようで、少なくとも教会のリーダーたちに自分自身の奉仕のあり方を問いかけている、ということがわかります。そして、一人ひとりが「熟練した者」となることが求められているとわかります。この言葉は、試練に耐える力を身に着けたというニュアンスがあります。教会の中からも外からも、偽りの教えが吹き込んでくる、そういう中で、偽りを見抜き、真理にとどまる者が「熟練した者」です。

毎週の礼拝、毎週の祈り会などで学ぶことが、みなさんを熟練した者へと成長させるものであることが私の願いです。私がいなくても、教会が新しい求道者に、真理を語ることができるように、みなさんはそのために、自分を神にささげていただきたいと思います。

これは「努め励む」こと「あらゆる努力をすること」です。私も完成しているわけではありません。日々、学びです。そして、知的なこと以上に、あり方として「神にささげられた」生き方が求められます。これは「神の脇に置かれた」という言葉遣いです。私たちは日常生活の中で、どんな時も、神の脇に置かれているという自分を意識することが大切でしょう。それこそ、真理を口ばかりでなく、態度をもって語ることになると思います。そこに向かって、「努め励む」日々を送ろうではありませんか。

© Masayuki Hara 2017