次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(十一~十三節)
十字架がひっくり返した祝福の定義
「見た目が九割」という本がしばらく前にヒットしていたのをご存知でしょうか。私たちは、見た目に影響されやすい性質をもっています。人生において、順風満帆であることが祝福であり、苦しみや災いが来ることは呪いであるという価値観は、私たちに根強くあります。しかしこの価値観は十字架の前にひっくり返ってしまいます。神にのろわれて死ぬという十字架が祝福の源になったのですから、そこから「苦しみ」が持つ意味は、まったく異なるものになってしまいました。苦しみは、永久の栄光への入口になったのです。
パウロが、苦しみを恥とせず、耐えることができたのは「死者のなかからよみがえったキリストをいつも思っていた」からでした。そして、人一倍苦しむことが、選ばれた人たちへの奉仕になることを知っていたからでした。そのようにパウロが言うのは、テモテも、エペソの教会も、そしてここにいる私たちも「キリストの苦しみの欠けた部分」を受け取るように召されたなら、ためらわずにそれを引き受けるようにと勧めたかったからです。そして、それはパウロの個人的な考えではなくて、教会の信仰告白に合致したことでした。
不真実を織り込む神への信頼
十一節から十三節までは、初代の教会で用いられていた信仰告白を引用したものです。詩文のようにリズムが整えられていますから、歌うように記憶されていたかもしれません。
一行目は「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、ともに生きるようになる」です。条件の部分は過去形、帰結節は未来形です。「彼とともに死ぬ」というのは、洗礼を受けたことに関係しています。聖霊のバプテスマによって、私たちはすでにキリストとともに死んでいます。そのことを水によって表したのです。死を通して栄光へ。それがキリスト信仰の基本中の基本でした。
二行目は「もし私たちが、今、耐え忍んでいるなら、彼とともに王になる」です。今度は、条件の部分は現在形、継続する形です。帰結節はやはり未来形です。罪に対して死んで、世のものではなくて神のものとなったので、世からの抵抗を受けることはキリスト信仰者の必然です。それゆえ「耐え忍ぶ」ことも必須のことであり、このいのちに生きる限り続くものです。耐え忍べることもまた、恵みであり、このプロセスによって、私たちの品性は練り上げられ、神の国の王、女王にふさわしい姿に造りかえられていくわけです。
三行目は「もし、私たちが否むことがあれば、彼もまた私たちを否まれるだろう。」です。新改訳は「彼を否む」と目的語を訳し出していますが、原文にはありません。文脈からはキリストを否むこととも、苦しみに耐えるのを否むこととも、どちらとも取れます。三行目はどちらも未来形。あくまで可能性の話です。私たちには自由がありますから、否むことが選択肢としてはあり得ます。しかし、恐れる必要はありません。続く四行目があるからです。
四行目は「もし、私たちが今、不真実であっても、彼は真実を貫いてくださる。なぜなら、ご自分を否むことができないから。」となります。ここで「私たちが不真実である」というのは現在形であるというのがポイントです。条件節に現在形がくるというのは、実際、今そのようである、ということが前提になっています。二行目で、キリスト信仰者は多かれ少なかれ「耐え忍んでいる」事実が確認されています。そして四行目では「不真実である」事実もまた確認されているのです。しかし、驚くべきことに、それに対して私たちの未来がどうこうされるということは言われていません。神様は私たちが不真実であることを織り込み済みで、ご自分の約束を果たしてくださるというのです。それは神様にとって時に不名誉をこうむることになる選択です。しかし、もしそれを嫌がるとしたら、十字架のキリストとよみがえりの主が分離してしまいます。そんなことはなさらないのです。
それゆえ三行目の「否む」「否まれる」というのは、可能性としてはあるけれども、神さまは恵みによって、そういうことにならないように、耐えられるように苦しみを加減し、一時的に否むようなことがあっても、決定的に否むということにならないように、不真実な私たちに関わってくださるということが見えてきます。この御言葉自体が、そのためにあると言っていいでしょう。
ですから、見た目の良い、苦しみのない人生を求めるのではなく、苦しみを耐え忍ぶことによって得られる永遠の未来を求めましょう。
© Masayuki Hara 2017
