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祈祷会メッセージとお祈りの課題

40年間一歩一歩

「イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。」

(出エジプト16:35)

出エジプト16章を開きました。15章はイスラエルの民の賛美です。神様が大きな御腕をもって、エジプト人と戦って勝利した。そしてイスラエル民を救って下さったという内容です。神様は紅海という海を二つに分けられ、イスラエルの民にはその乾いたところをわたらせました。ところが続いてエジプトの軍隊が迫ってきたときには、海が元に戻り、エジプトの軍隊は、海に沈んでしまいました。イスラエルの民は海を渡りながら、神様の勝利をほめたたえて、この賛美歌を歌いました。

さて、出エジプト15章の区切れ目はとても興味深い部分で、賛美歌があったかと思えばそのすぐ後、イスラエルの民はモーセに向かって文句を言っています。「飲み水が無い。」という文句です。マラという地に来たとき、そこの水は苦くてとても飲めなかったと書いてあります。すると神様が不思議な技でその水を甘くしてくださって、飲み水ができたという話です。ここで15章は終わっています。15章という1つの章の中で、イスラエルの民は一方で神様をほめたたえ、一方で文句を言っています。ころころと人の心が変わっていくさまがこの15章の1つの章の中に描き出されています。

この後、イスラエルの民は、エジプトという奴隷であった場所を離れて旅を続けるわけですが、その旅は荒野という食べ物も、飲み物も無いような場所を通り抜けていく大変なものでした。何も無いという状況は、私たち人間の心を非常によく映し出す状況であると思います。まるで、周りに何も無いので、私たちの心の中にあるものがあふれ出て周りに浸透していくかのように、何もない状況では私たち人間の心がよく映し出されていきます。イスラエルの民の心の中には何があったのでしょうか?それを神様がご覧になり、またイスラエルの民自身も自分で気づくために、神様はこの荒野を通されたのかもしれません。イスラエルの民の心にあったものは、神様への信頼であるのか?それとも他のものであるのか?ということです。出エジプト記では、15章、17章と続けざまに2回も「飲み水が無い」と言って文句を言うイスラエルの民の姿が出てきます。その間に挟まれている16章は「食べ物が無い」です。15、16、17章と続けて、「無い。無い。無い」と文句を言っているイスラエルの民の姿があります。その度にモーセは「あなたがたのその文句なんだ?あなたがたは私に文句を言っているが、それは神様に文句を言っているのだ」と言います。神様の力をエジプトを出るときに目にしたばかりなのに、ずっと神様を信頼するということができないでいるイスラエルの民の姿です。

ですが、そんなイスラエルの民を神様は守り続けてくださいました。40年の間、とても長い期間、神様は、イスラエルにマナという食べ物を与え続けて下さったのです。マナの賞味期限は1日です。明日までとっておこうと思うとマナは腐ります。不思議な食べ物です。40年間、安息日をのぞく毎日、イスラエルの民は、「今日は約束通りマナがあるか?」と思いながら外に出て、「ああ。やっぱりあった。」という体験を続けるのです。こうして少しずつ、イスラエルの民は神様を信頼できるようになりました。

私たち自身も、なかなか神様を信頼するということのできない者ではありますが、毎日の歩みの中で一歩一歩神様に近づかせていただきたいと思います。今、妻と寝る前に一緒にディボーションをしていますが、そのとき読んでいるディボーションブックがあります。その本には、毎回のように、「神様に感謝しなさい。」とあります。感謝することが信仰生活には大事だと何度も出てきます。神様に感謝するということは、日々の生活の中で、神様が働いておられるということを意識し続けるということだと思います。そうすれば、私たちの心はだんだんと神様の方に向いていきます。しかし、意識しなければなかなか神様の方に向かないのが私たちの心です。イスラエルの人々が40年間、毎日神様を意識し続けたように、私たちも毎日神様を意識し続けたいと思います。

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