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祈祷会メッセージとお祈りの課題

きよめ主なる神

祭司は祭壇の上で、全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげ、祭司は彼のために贖いをする。彼はきよい。 (レビ14:20)

今日は、レビ記13-14章です。新改訳聖書第二版では「らい病」、第三版では「ツァラアト」となっているものについての教えです。人間の皮膚や、衣服、家などにできるもののようですが、詳細はよく分かっていません。「きよい」「汚れている」という区別がなされており、特に「汚れている」と診断された場合、あるいはその疑いがある場合には、隔離する、宿営の外に出されるなどの措置があります。そのために過剰な差別を招く要因ともなってしまったので、そういったことを避けるために第三版では「ツァラアト」という訳語が用いられています。

このツァラアトの教えをしっかりと汲み取るためにも、レビ記の目的を再確認したいと思います。レビ記の目的は、「聖である物」と「聖でない物」を分けることにあります。本来神様お一人が「聖」ですが、神様に贖われて聖別されたものも、「聖である物」とされます。そしてこの地上に置いて神様の聖を表していくという役割があるんですね。イスラエルの民は神様の聖を表していくために、特別に召し出されました。そしてその聖を保っていくためにどう生活したらよいか、具体的に聖なるものをとは何か、聖でない物とは何かを解説しています。

ツァラアトについての教えもその一部です。レビ記によると、汚れている物というのは、伝染します。聖である物と汚れている物が混じり合うことはありません。一つの物が、聖であり、かつ聖でないということはありえないのです。それは、神様と神様でないものが混じり合うことが無いのと同じです。ですので、両方が触れ合った場合は、片方の性質が伝染します。たいていの場合は、汚れが移ります。こうして汚れが伝染していくと、しまいには全部汚れてしまいますので、隔離するわけです。

レビ記では、汚れをただ避けるだけではなくて、汚れをきよめる方法も教えています。ツァラアトについてでは14章がの部分がそれにあたります。祭司は、ツァラアトかどうか、聖であるか、汚れているかを宣言するのも仕事ですが、このきよめの儀式をするのも大事な仕事です。一度は汚れていると診断されて隔離されていたものが、もう一度きよいと宣言されて神の民の一部として回復されていくための大事な仕事です。ですから、ツァラアトの教えについても、レビ記の他の規定についてもいえることですが、神様は聖であられますが、私たちにも聖となってほしいという願いが込められているということです。そのための聖別の儀式、きよめの儀式がレビ記の中心ともいえます。

ルカ10章には、良きサマリヤ人のたとえ話があります。ある人が強盗に襲われ大けがを負い道端で倒れています。最終的にはそこに外国人であるサマリヤ人が来て助けてくれるわけですが、その前に祭司とレビ人が通り過ぎて行ったと付け加えられています。イエス様がここで祭司を登場させたのには、とても鋭い皮肉が込められています。祭司は先ほども言いましたが、汚れている物を聖別することも重要な役割でした。しかしこの祭司は、ただけが人に憐れみをもたなかっただけではありません。もしこのけが人が死んでしまったら、自分まで汚れてしまう、そして汚れてしまったら、神殿には入れないし、レビ記に記されている何日もかかる面倒なきよめの儀式を行わなければならない。だから通り過ぎるという決断をしたのです。これはレビ記の教えを自分勝手に解釈して神様の願いを汲み取らず、自分にとって都合のいい部分だけを守っていたという祭司の自己中心さの表れです。レビ記に込めた神様の本当の願いから考えれば、祭司はこのとき、けが人を介抱し、かれをきよいと宣言してあげる事こそが祭司の務めです。ところが祭司は汚れと聖の区別だけが重要と考え、後は自分勝手に行動していました。

私たちもあまりにこの聖と汚れの区別だけにとらわれると、神様の贖い、あわれみの心を見失います。どう汚れを避けるか?という視点だけでなく、どう汚れをきよめるか?という視点も持ちながらレビ記を読みたいと思います。

お祈りの課題

  • 今日はFM祈祷協力日です。教団の各教会のために。
  • 教団の夏の集会のために。
  • 大雨の被害も出ている被災地のために。