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祈祷会メッセージとお祈りの課題

喜びの食事といのちの大切さについて

あなたがたは脂肪も血もいっさい食べてはならない。あなたがたが、どんな場所に住んでも、代々守るべき永遠のおきてはこうである。 (レビ3:17)

レビ記に入りました。だんだん聖書通読が大変になってきますね。レビ記には主に、礼拝の規定、祭司の規定が載っています。様々な捧げ物、いけにえの捧げ方や、祭司の服装、支度、生活について、そしてイスラエルの民が気を付ける事が書かれています。その中心は、聖なる物と聖でない物を分ける事にあります。聖なる物とは究極的に神様お一人だけです。聖という言葉は、もともとは、分けるという意味の言葉で、神様と神様以外の物が完全に分離していることを意味しています。

ところが、出エジプトによって贖いだされたイスラエルの民を通して、神様は、聖なる物と聖でない物の接点を作り出そうとしているのです。神様が聖別したもの、あなたもこちら側の物だよというふうに聖別した物も聖となる。そのようにして、本来は聖でない、私たちも神様と同じ聖となるということです。このための儀式についてが、いけにえや捧げ物であり、そして一度聖とされたものが今後どのように聖という状態を保つことが出来るのか?それが生活の仕方にかかわってくるわけです。それがレビ記です。聖である神様と聖でない私たちの接点を作り出す。それがレビ記の目的です。

現在では、キリストが全ての儀式を、完全な天の幕屋でまっとうされたので、私たちはこのような儀式を行うことはありません。しかしかつてどのような儀式が行われていて、その一つ一つにどんな意味が込められていたのかを知ると、神様の贖いの業の素晴らしさが分かります。新約聖書の読み方もずい分変わってきます。そのためにもがんばってレビ記を読んでみましょう。

レビ記には様々な捧げ物がありますが、中には民も食べても良い物があります。その一つが、3章に書かれている和解のいけにえです。いけにえと捧げものの違いですが、レビ記の中で、捧げ物と書かれていた場合は、たいてい穀物ですね。いけにえと書かれていたものは、たいてい動物です。違いはなにかと言えば、そういうことです。どちらも神様への捧げ物で、穀物か、動物かの違いです。和解のいけにえは、いけにえですので、動物です。牛とやぎと羊が出てきます。この和解のいけにえは、後ほど7章で出てきますが、民も一緒に食べるいけにえです。一部を神様に捧げ、一部を民も食べます。3章では、どの部分を神様に捧げるのか記されています。主に、脂肪と血です。それ以外の、ロースとか、バラ肉とか、カルビとかは民が食べてもいいのです。つまり焼いて食べるなら焼き肉ですね。神学校で勉強していた時、男子寮では、これって焼き肉パーティだよねと言っていました。そうなんです。和解のいけにえというのは、別名幸いのいけにえとも呼ばれていて、神様と焼き肉パーティをするいけにえなんです。聖書に、それもレビ記に、焼き肉パーティが載ってるなんてと思いますよね。実際に和解のいけにえを神様の臨在のもとで飲み食いしている姿が出エジプト24章にあります。(24:5, 6, 11)

そんな喜びのいけにえの時にも神様は、大事なことを教えています。それは血と脂肪は食べてはならないという教えです。血と脂肪は食べてはならないというのは、単に焼き肉パーティで神様の食べる分を残しておくというだけの意味ではありません。血と脂肪を食べてはならないというのは、レビ記に何度も出てきます。例えば、17:10-11を見てください。ここには、その理由も含めて書かれています。血の中にいのちがあるからだと神様は語っています。いのちをコントロールしても良いのは、神様だけであるということを、食事を通してイスラエルの民に教えています。いのちは神様だけが司ることのできるものです。神様はレビ記の様々な規定を通して、イスラエルの民を神様のように聖なる物としようとされますが、神様と全く同じにしようとはされません。神様が司るべきものは神様が司り、人が自由にして良いものは、人に与えるお方です。創世記3章で、一度は人間は、全部思い通りにしたい、神と同じになりたいと思って罪を犯しましたが、神様はもう一度、神様と人間との間を和解し、ちゃんとした関係を築こうとしています。そのことが和解のいけにえの規定、血を食べてはならないという教えから読み取れるのではないでしょうか。

お祈りの課題

  • 昭島教会の会員、特に課題を抱えておられる方々のために
  • 教団の神学生たちのために
  • 会堂工事のために。天候が支えられるように