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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神の愛が反映された律法

あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ23:22)

レビ記23章は、ユダヤの記念行事を集めたカレンダーのような章です。ユダヤの祭りのうち、三大祭と呼ばれるのが、過越し、七週、仮庵の3つです。これに毎週の安息日と、贖罪の日を加えたものが、レビ23章で説明されています。

神様は、祭りの説明に加えて、それぞれの祭りで気を付けることを説明していますが、22節では興味深い事を仰っています。これは貧しい人への配慮の律法です。レビ記に限らず、モーセ五書の中では、神様はことあるごとに、あなたがたはエジプトで奴隷であったことを覚えておきなさいと命じておられます。それは、神様が救い出して下さったことを感謝するという意味もありますが、もう一つ大事なことは、あなたがたも奴隷のような立場の人にあわれみをもって接しなさいということです。これはただ、かわいそうにねと相手を低く見るということではなく、何か具体的に助けてあげる事も考えなさいということです。

その一つが、畑の隅々まで収穫しないことです。収穫物をわざと一部残して置き、貧しい人が来てそれを収穫できるようにしてあげることです。畑に残った収穫物を、つまり落ちている穂を拾うので、落穂拾いと言います。有名なミレーの絵がありますね。あれは、貧しい人が、収穫の終わった畑で、残り物を拾い集めているという姿を描いた絵です。聖書の中で、落穂拾いの様子がよく描かれているのは、ルツ記です。一家の働き手を失って、収入を得る事の出来ないルツが、自分と姑のために落穂を拾いに行きます。それから福音書では、イエス様の弟子たちがひもじくて畑の麦の穂を摘んで食べ始めたという箇所があります(ルカ6:1)。あれも落穂拾いです。人の畑で穂を摘んで食べていますが、あれは合法なんですね。あそこで弟子たちがとがめられているのは、「安息日に仕事をした」ということが問題になっています。しかしイエス様はあそこでも仰っていますが、律法の精神は、貧しい人を助けるということにあります。困っている人を助けることにあります。貧しかろうが、困っていようが、安息日だから仕事をしてはいけないと仰っているわけではありません。

貧しい人を助ける、困っている人を助けるというのは、愛です。愛を律法の精神としている旧約聖書の教えは、当時の世界では画期的だったようです。聖書には、奴隷、やもめ、貧しい人をかえりみなさいという言葉があふれています。そしてその根本にあるのは、あなたがたもエジプトで奴隷であったところを助け出されたではないかということです。神様は別に恩を着せようとしているわけではありません。ただ助けてもらうということはすごくうれしいことです。人がうれしいと思うことをしてあげなさいということです。それが愛だからです。神様は愛のお方なので、愛をもって接することの素晴らしさを律法を通して伝えようとしています。

現在では、律法の文字は私たちを強制しなくなりました。しかしそれは愛を忘れていいというわけではありません。私たちは、決まった文字が無いので、「何が愛だろう?」と考えながら行動します。もしかしたら文字で書かれていた方が、あまり考えなくても愛の行動ができたかもしれません。私たちには聖霊と聖書が与えられていますから、日々教えられつつ愛の生活をしたいと思います。

お祈りの課題

  • 会堂補修工事のために。玄関前舗装はおおよそ出来上がりました。感謝です。
  • 明日の小金井・昭島親睦会のために
  • 熊本の方々のために
  • 八王子教会のために
  • この夏も昭島教会の皆さんが守られるように。