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祈祷会メッセージとお祈りの課題

心の中の真実を語る

主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。(詩篇15:1-2)

注解書によると、この詩篇は、ユダヤの人々にとって理想の人とはどんな人かということを表す詩篇として、23篇についで愛されている詩篇だそうです。特にタルムードでは、モーセ五書にある律法がこの詩篇の中に要約されているとまで言われているそうです。確かにこの詩篇は、人の生き方について簡潔に奥深く表されています。

1節ではまず、主よ。と呼びかけて、だれがあなたの幕屋に宿るでしょうか?と投げかけています。あなたの幕屋に宿るという言葉は、あまり日本では使われない表現かもしれません。これは神様との交わりのことを指しています。幕屋というのは、ユダヤの人々にとって神様と出会う神殿のことです。その幕屋に宿るということは神様との交わりを持つということです。ダビデも他の詩篇で、「私は一つのことを主に願った。…私のいのちの日の限り、主の家に住むことを(27:4)。」と言っています。これもダビデは神様との永遠の交わりを求めているのです。神様の家というなんだかとても豪華そうな建物を求めているのではなくて、神様ご自身を求めているのです。

15:2で、神様の幕屋に宿るのは、このような人だということを述べています。それは正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人であると述べています。正しく歩むという言葉は、聖書の元々の言語ヘブル語は「全き」とも訳せる言葉を使っています。創世記17:1で神様はアブラハムに「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と言われました。同じ言葉が詩篇15:2で「正しく歩み」と使われています。詩篇には「神様の前に」という言葉はありませんが、神様の前に正しく歩むということを意味しています。

正しく歩む、全き歩みとは、完全無欠であるという事ではありません。神様の前に完全無欠な人間は一人もいないからです。私たちは十字架の神様の赦しのゆえに義とされている者です。正しく行おうと努めるのはもちろん良い事です。しかし間違った時にはしっかりと間違いを認めへりくだる事も大事です。神様の前に正しく歩むとは、神様の前に誠実に歩むという事だと思います。このことは心の中の真実を語る人ともつながると思います。神様に対して、包み隠さず自分の心を打ち明ける事ができるということです。罪は、神様の前から隠れよう、逃げようとする性質があります。しかし誰との関係においてもそうですが、自分の心を隠せば隠すほど、関係はぎくしゃくします。良い関係、良い交わりを保つことはできません。罪が神様との関係を壊す、滅びに至るという原因は、たいていの場合、神様のさばきの故というよりも、神様から隠れようという罪の性質に大きな原因があります。神様はむしろ私たちを救おうと、手を伸べて近づこうとしておられるからです。罪を隠そうという誘惑に負けず、神様の前に告白し、赦しを頂きましょう。そのようにして神様との関係、交わりを保っていきたいと思います。

お祈りの課題

  • 11/13クリスマス飾りつけのために
  • 11/16交換祈祷会のために
  • 11/20の聖餐礼拝、役員会のために
  • クリスマスの諸集会のために
  • 昭島教会のみなさんのために
  • 青梅教会のために