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祈祷会メッセージとお祈りの課題

何もできなくても神様にあって恵み

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。(ピリピ2:17)

ピリピ2:6-11は、一般に「キリストの謙卑」と呼ばれています。イエス様は神様ですが、神様としての姿を捨てて、人間として生まれて下さり、他の人に仕える者となって下さいました。それだけではなく、すべての人を救うために、いのちを捧げて、歴史上最も残酷と言われる十字架刑にかかって下さったのです。イエス様は何の罪もありませんでしたが、イエス様が十字架にかかって死んでくださったことにより、私たちの罪は赦されました。天の父なる神様は、イエス様を高く上げられ、イエス様の御名によってすべてのものは贖われます。

ピリピ人への手紙を書いたのはパウロですが、パウロはこの時、牢にとらわれていました(ピリピ1:12-14参照)。牢と言っても監視付きの部屋に閉じ込められる軟禁状態であったようです。ある程度の自由は許されていたようですが、外出はできませんでした。ですのでパウロの福音宣教の働きはかなり制限されて留められていました。そんなパウロにピリピ教会の人々は贈り物を送ったようです。その贈り物に対する返礼としてパウロはこの手紙を書きました。この先パウロはどうなるのかと心配したピリピ教会の方々が、必要な物を送ったのだと思います。パウロ自身もこの先どうなるのかという不安が無かったわけではないと思います。しかしパウロはこの機会に、自分の境遇と合わせて、信仰の大事な教えを解き明かしています。それはパウロの今の困難な状況は、キリストの苦しみの一端を担わせて頂いている恵みなのだということでした。

パウロは1章の中で、自分にとっては「生きることはキリスト、死ぬことも益です。(1:21)」と述べています。私たちは神様の御許にいることが一番の幸せです。地上にいるにしても、天国にいるとしてもそれが一番です。そしてパウロは、どちらかと言うと天国の方がより幸せかもしれないということも語っています。しかしパウロは地上での今の事についても神様に感謝していました。それはパウロのあらゆる境遇も神様が用いられて、宣教の働きが進められているとパウロが確信したからです。パウロにとっては神様の喜びこそが喜びでした。パウロは今まさに、キリストが十字架で苦しめられたのと同じように苦しめられています。もちろん十字架の苦しみの方がはるかに大きいものですが、その一端をパウロが担っています。神様がキリストの苦しみをそのままにしておかず、すべての人々の救いと贖いのために用いられたように、パウロの苦しみもまた用いて下さっています。事実、パウロが獄中にいることにより、ピリピ教会の人々の熱心さが増し加えられ、その愛の働きにより、キリストを信じる人々がピリピ教会の周りでも、パウロの周りでも起こされるようになりました。

パウロは「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。」と語っています。パウロのこの信仰は素晴らしいものです。私たちはパウロのように「苦しみもまた恵みです」とは、なかなか言えないかもしれません。しかし苦しみの中にある時にこそ、私たちは周りの人々の愛をより感じることができるのではないでしょうか。この時のパウロも、苦しみの中にあっても自分が頑張ったからということで恵みと感じているのではありません。恵みというのは勝ち取るものというよりは、無償で受け取るものです。パウロは自分は苦しむだけで何もできないと感じた時に、ピリピの教会の人々が送ってくれた贈り物、そして福音が広がっているという知らせを聞いて恵みだと感じました。自分の何もできない苦しみが無駄ではなく、神様に用いられていると感謝したのです。神様にあっては全てが無駄ではないことを感謝したいと思います。

お祈りの課題

  • 今年の恵みを思い返して感謝しましょう
  • 新しい年に向けて導きを祈りましょう
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 桜ヶ丘教会のために