カテゴリー
祈祷会メッセージとお祈りの課題

不幸は神様の責任?

それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。(士師6:10)

士師記に入りました。イスラエルにはエジプトを脱出後、モーセ、ヨシュアと偉大な指導者がいました。彼らがいる間は、民族としてのまとまりも強く、なによりもしっかりと神様に従い歩むことができました。士師記は彼らがいなくなってから、イスラエルに王が誕生するまでの期間の事が記されています。イスラエルの民はこの間、神様に従う平和な一時、だんだんと神様から離れてしまう時、外国に攻め入られ苦しむ時、神様が士師と呼ばれる軍事的な指導者を送り国が救われる時、というサイクルを繰り返します。このサイクルは本当に人間の弱さを実感します。これらは国単位、あるいは民族単位の弱さを示した、歴史的な教訓でもありますが、同時に私という一人の人間の生活の中での教訓でもあります。個人的にも神様に素直に従える時と、心が離れてしまう時があります。神様はその両方をちゃんと見てくださっていて、忍耐をもって接してくださるお方です。神様はこのような延々としたサイクルを続けるイスラエルの民を見捨てはしませんでした。素直に従っている時にも傍におられ、心が離れている時にも傍におられるお方です。

6章からは、ギデオンという士師が登場します。まず聖書が語るのは、この時代イスラエル人は、再び神様から離れてしまったということです。一つ前の5章は神様がデボラとバラクという士師を遣わして、イスラエルが勝利し、神様を賛美している喜びの章です。5章から続けて読みますと、6:1の「イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。」という出だしを見てショックを覚えます。さっきまで神様に賛美していたのにと思います。イスラエル人は急に神様から離れてしまったわけではないでしょうが、神様を忘れたという事実は確かです。この時、ミデヤン人がイスラエルに攻めてくるようになりました。ミデヤン人はイスラエルから略奪しまくります。イスラエル人はミデヤン人に怯えながら生活していました。

士師のギデオンが登場する前に一人の預言者が登場します。預言者は言います。「神様はエジプトから力強い手でイスラエルを救われました。イスラエルと神様は契約を結びました。イスラエルに神様以外の神々があってはなりません。ところが、あなたがたは神様の声に聞き従わなかった。」だから悔い改めなさいというメッセージです。イスラエル人は自分たちに罪があるということを理解していたでしょうか?いいえ。していません。それはギデオンの言葉から明らかになります。ギデオンは6:13でこう言います。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。」ミデヤン人が攻めてきたことは神様がイスラエルと一緒におられなかったからではないですかとギデオンは言いたいのです。要するに自分たちの罪の故ではなく、神様のせいにしています。でもそれが人間の罪の恐ろしさかもしれません。自分は正しく、相手が悪いと思いたいのが人間です。このギデオンのセリフは現代でもよく言われる「神が存在するならなぜ戦争があるのか」と全く同じことです。この世界の不幸のすべてを自分たちの自己中心的な思いの故ではなく、神のせいにしたいのです。そんなギデオンに神様は言います。「私はいつも一緒にいる。だからあなたがその手で救いに行きなさい。(6:14,16参照)」神様は、人間から向けられた責任追及の言葉に対して反論するのではなく、これを受け止め共に解決に行こうと言います。こう言われると今度は人間の良心が問われます。じゃあ自分はその戦争に対して何か正しいことをなしてきただろうか?正しいことをなせるのだろうか?そして多分私たちの答えはギデオンと同じです。「私は小さい者です。私に何ができるというのでしょうか?(6:15参照)」神様の答えは明白です。「あなたはわたしに従いなさい。」です。こうして預言者が民に語った言葉に戻ります。あなたは神様の声に聞き従うのか従わないのかという事に戻るのです。士師記の中心は、神様に従えば圧倒的な力をもって勝利できるという点ではありません。それは一部分にすぎません。それよりも神様に従い通し平和な時を過ごすことができるのかできないのかは、私たちの信仰にかかっているのだという事を士師記は語っています。

お祈りの課題

  • 新しい年の歩みのために
  • 教会予算総会、交換講壇礼拝のために
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 八王子教会のために