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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様の赦しと癒しを求める

主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。
詩篇38:9

この詩篇は、全体的に悔い改めをする人の詩篇という印象を受けます。前半で自分の苦しみの状態を歌っていますが、「私の罪(3)」、「私の咎(4)」、「私の愚かしさ(5)」とあるように、それらの苦しみが自分の罪深さの故であることを認めています。自分の罪を認めることを認罪と言います。当然のことながら、悔い改めは認罪が無くては始まりません。認罪とは自分の罪を自覚することであり、少しも責任転嫁しない姿勢です。他の誰か、あるいは環境、あるいは自分の性格のせいにしたりせず、自分の意志の問題であること、責任であることを認める時に悔い改めは始まります。

この詩篇の作者は、自分の罪の重さに耐えきれず、78節にあるように完全に打ち砕かれて、絶望しています。罪とはそのように恐ろしいものです。人を打ち砕いてしまうものです。それは他人を傷つけ、自分をも傷つけてしまうものです。そして罪の力に人間は抗うことができません。だから私たちは罪の現実に向き合うと絶望してしまいます。しかしこの詩篇の作者は、罪には絶望しても、神様には絶望しませんでした。それは神様は罪を許さない裁きの神様であると同時に、罪を赦し、癒す神様でもあるからです。

「ゆるす」という言葉には2種類の漢字があります。「許す」と「赦す」です。現在の日本ではあまり使い分けされていないことが多いですが、キリスト教では別の意味を持つ言葉です。「許す」とは「許可する」ことであり、その行いを良しとして認めることです。積極的に行う事を奨励することです。神様は罪の行いを積極的に認めて行わせることは断じてなさいません。ですから神様は罪を「許さない」お方です。「赦す」とは「恩赦を与える」ことであり、過去の過ちを特別に見逃すことです。本来は罪の報いを受けるはずですが、その刑罰を科さない、全て清算したことにするという意味です。神様は私たちに罪があることをお認めになりましたが、特別に「赦す」お方です。それはキリストが私たちの代わりに刑罰を負って下さったからです。ですから神様は罪を「許さない」お方ですが、罪を「赦す」お方です。詩篇の作者は神様に罪の「許し」を願っているのではなく、はっきりと自分

また神様は罪の癒しを与えて下さるお方でもあります。詩篇の後半で世の人々は、罪ある詩篇の作者に対して冷たく接しています。罪ある者から遠く離れて立ち、自分には関係ないと言わんばかりです。またある者はむしろ罠を仕掛け、さらに破滅に導こうとしています。よく「他人の不幸は蜜の味」と言いますが、本当に人間の醜さが表れています。しかし神様はむしろ罪人を探して救おうとされる方です。イエス様はそのために地上に来られました。ヨハネ8章でイエス様は、罪ある女性を助け、罪の赦しを宣言し、「安心して行きなさい」と女性を立ち上がるための言葉をかけて下さいました。神様は罪ある私たちから遠く離れて立つお方ではなく、むしろ悔い改める私たちに近づいて罪の赦しを与え、もう一度立ち上がれるように癒しと力を与えてくださるお方です。詩篇の作者は自分の罪に絶望し、周りの人の対応に苦しめられながらも、神様に対しては絶望せず、むしろ神様を求めています。私たちも自分の罪を認め、そして赦しと癒しの神様を求めていきましょう。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 3月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • イースターのために
  • 教会総会のために
  • 南大沢チャペルのために