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祈祷会メッセージとお祈りの課題

恐れのないところを、恐れる

見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。あなたは彼らをはずかしめた。それは神が彼らを捨てられたからだ。
詩篇53:5

詩篇53篇は、詩篇14篇ととても良く似ています。もしかしたらこの詩篇53篇は、詩篇14篇の改訂版なのではないかと考える人もいます。詩篇53:5の表現から、詩篇14篇が元々あり、ヒゼキヤ王の時代、アッシリヤ王セナケリブの大軍から奇跡的に救われたこと(II列王記18-19章)を記念して、この詩篇53篇が書かれたのではないかと考えることができるようです。この説は定かではありませんが、いずれにしても詩篇53:5はとても興味深い表現です。

詩篇53:1に「愚か者」という表現が出てきています。この愚か者とは神はいないと考えている人の事をさしています。この詩篇全体がこの神はいないと語っている愚か者について、神様がご覧になって嘆いている様子を描いています。ヒゼキヤの時代の事を考えるならば、エルサレムを取り囲んだ軍隊は、主などという神には頼るなとエルサレムの民に向かって語り掛けています。この愚か者とは神など存在しないと言っている人々、あるいはいたとしても、大した力を持っていないと神様を侮る人々のことです。彼らは神を恐れていないので、自分勝手に好きなことをします。ですから倫理観も持っていないですし、善を行おうとも思いません。そんな様子をこの詩篇の作者は神様の視点で、神様が地上をご覧になって嘆いておられるかのように描いています。

愚か者は神様を恐れませんが、愚か者が恐れるものが5節に書かれています。「見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。」という表現は興味深い表現です。一見よく意味が分かりませんが、その言葉通りのようです。恐れのないところとは、文字どおり恐れのないところ、安全な場所です。愚か者は、本当は安全な場所、恐れる必要のないところで、非常に恐れたのです。キリスト者にとってはこの世には迫害があり、艱難があり恐怖かもしれません。しかしキリスト者はキリストの内に平安を見出しています。キリストも私たちに平安を与えますと約束してくださっています。しかしキリストを信じない人にとっては、キリストが与えるという平安、そもそもキリストが本当に神であるという事自体が恐怖です。神はいないと信じてきたからです。信じる者にとっては平安であるものが、信じない物にとって恐怖であるということがあるのだと思わされます。

しかしこの平安は、私たちも初めから持っていたわけではなく、キリストから頂いたものです。私たちも初めはキリストを知りませんでした。詩篇53:1-3は、詩篇14:1-3とよく似ていますが、ローマ3:10-12で引用されています。詩篇の作者は、この愚か者というのは神を知らないイスラエル以外の人々を想定して書いたかもしれません。しかしローマ書を書いたパウロは、イスラエル人も含めて私たち全員が神様を知らないと言った愚か者として描いています。私たちは誰もが、神様を知らずに自分勝手に生きてきましたが、神様の恵みによって救われました。キリストを信じる者も最初は愚か者だったのです。恵みを頂いた愚か者です。自分の力を誇れるわけではありません。キリストから恵みによって平安を頂いたのです。この平安はだれでも受け取ることができます。平安を頂いていることを感謝して、この平安の内にとどまり続けましょう。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 3, 4月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 宣教礼拝のために
  • FMYC、教会運営会議、代議員総会のために
  • 桜ヶ丘教会のために