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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様は常に信頼できるお方

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。
IIテモテ2:19

IIテモテはIテモテと同じく、使徒パウロから、自分の弟子である伝道者テモテに宛てて書かれた手紙です。IテモテとIIテモテは共にパウロの晩年に書かれたと見られていますが、IIテモテはパウロがより自分の死が近づいたことを感じているような口調が感じられます。パウロが自分の考えを漏らすことなくテモテに言い残そうとしているように感じます。

パウロは2章後半で「俗悪なむだ話を避けなさい。(16節)」と言っています。パウロはIコリントの手紙の中でも、この世の知恵について語っています。世の中で賢いと言われているような知識の中にも、神様の前で本当に価値のある知識と、そうではない知識があります。パウロは神様の前で価値のない知識を求めることを止めるようにテモテに勧めています。そのような知識は聞いている人を神様に近づけることはできないばかりか、滅ぼしてしまう事になりかねないということをパウロは語っています。キリスト教会は、パウロの時代から常に様々な迫害や問題にさらされてきました。この当時、どのような問題があったか具体的には分かりませんが、パウロはそれらの経験からテモテに教えています。

日曜日の礼拝で創世記を開きました。私たち人間は知りたいという欲求が強い存在です。知識を追い求める存在です。しかし知識それ自体は、正しくもなく、悪くもない存在です。持っている知識を正しく用いるのか、悪いことに用いるのかは、結局のところ、知識を用いる人間の倫理が問われます。たとえ人をだますことができるくらいの知識を持っていたとしても、だまそうと思わないのは、それが人を滅ぼしてしまう間違った行為であるという倫理観を持っているからです。それは神様の前に正しいことではないと分かっているからです。人は知識があるから倫理のある人なのではなく、正しい倫理観を持っているから正しく知識を用いることができるのです。

パウロは「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」と言っています。彼とは神様のことです。私たち人間は真実でなくても、神様は常に真実です。この真実と訳されているギリシャ語の言葉は「信用できる」という意味も持っています。私たち人間は信用できない存在かもしれないが、神様は常に信用できるお方であるとパウロは言っているのです。神様は聖なる方であり、人間とは違います。人間の倫理観は未発達で、未成熟で信用できないことも多いでしょう。しかし神様は人間とは違い、常に信用できる、信頼できるお方です。すべての善いことは神様から出ているからです。時に神様は「なぜ、そうなるのか?」という物事の仕組みを明かしてはくれません。苦しみの理由、悲しみの理由を明かしてはくれません。同様に幸せの理由、楽しみの理由も神様は明かしていないことも多いですが、私たちが気にならないのは、うれしいから、楽しいから気にしていないだけです。神様が大事にしておられるのは知識ではないのです。信用すること、信頼することの方が大事なのです。パウロはテモテに勧めています。人は信頼できる存在ではないかもしれないけれど、神様は常に信頼できるお方です。私たちも神様を信じて一歩一歩を歩んでいきたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 3, 4月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 聖餐礼拝、役員会のために
  • 6/2甲斐師CGNTV撮影のために
  • 南平教会のために