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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神を愛する、家族を愛する、教会を愛する

自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう――
Iテモテ3:4-5

Iテモテは使徒パウロが、自分の弟子であるテモテに宛てて書いた手紙です。パウロは第2次宣教旅行中に良い信仰を持ったテモテと出会いました(使徒16:1-2)。パウロは、テモテに一緒に福音宣教のために来てほしいと頼み、テモテもこれを受け入れ、共に行動するようになります。パウロはテモテを弟子として訓練し、テモテは立派な伝道者となっていきました。パウロはこの手紙の中で、愛する弟子であり、同じ伝道者であるテモテに、教会を建てあげていく上での大切なことを教えています。第一義的には牧師テモテを教えるために書かれた手紙ですが、私たちすべてのクリスチャンにとっても教えられる内容の多い手紙です。

Iテモテ3章では、教会の監督や執事を選ぶ時の注意点が書かれています。私たちの教会では役員と置き換えることもできるでしょうか。非難される所のない、慎み深く、品位があり…と、いろいろ書かれています。これらの勧めは、監督になるための条件として読むというよりは、監督に選ばれた時の心得として読むのが良いかもしれません。というのは、この手紙に書かれている内容を完全にクリアしていると言える人は、おそらく教会にはいないからです。誰でも弱さがあります。結婚式を思い返すと、配偶者を愛するかという問いに応答する時、私たちは「はい。聖霊の助けによって、私は妻を(あるいは夫を)愛します。」と応えます。人間の弱さを認めた上で、聖霊の助けによって愛する努力をするのです。教会の監督になる人も、人間的な能力によって選ばれるのではなく、神の召しによって選ばれ、神の力によって務めを果たしていくのです。

パウロは監督になる人について「自分の家庭をよく治め(4節)」と書いています。執事についても「子どもと家庭をよく治める人(12節)」と書いています。それは5節にあるように「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう」という理由からです。教会とは、父なる神様と長兄なるイエス・キリストがおられて、神様の子どもである私たちが集う所です。いわば神の家族です。人数はとても多いですが、教会も家族なのです。ですから私たちは互いに兄弟、姉妹と呼び合います。教会の監督、執事、役員になるという事は、ある意味で家族の世話をするようなものです。ですからパウロが言うように、自分の家族を治めることを知らない、つまり自分の家族を愛せない人が、教会というもっと大きな家族を愛することは難しいのです。使徒ヨハネも次のようなことを言っています。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています(Iヨハネ4:20-21)。」聖書によれば、神を愛すること、家族を愛すること、教会を愛することは、みな繋がっているのです。

世の中の集まりはある意味で、気の合う人、比較的簡単に愛することができる人同士で集まります。愛することが難しい人とは付き合わない方がいいというのが一般的な考えです。ストレスを軽減するという意味では有効だと思います。しかし家族はそういう場所ではありません。本来家族は、愛せないからと言って切り離せる関係ではないのです。教会も同じです。私たちは家族や、教会の人を愛することが難しい時にこそ、神様の愛の深さをより実感できるはずです。神様は、神様を捨てた私たち、神様から見れば愛することがとても難しい存在となってしまった私たちを愛してくださったお方だからです。家庭においても、教会においても、神様の愛、神様の助けなしには、私たちは愛することは難しいかもしれません。神様の愛に感謝し、神様の愛を頂いて、今日も身近にいる家族、そして教会の兄弟姉妹に愛を持って接していきたいと思います。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです(Iヨハネ4:19)。」

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 3, 4月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 聖餐礼拝、役員会のために
  • 教団聖書塾、教団代議員総会のために
  • 青梅教会のために