カテゴリー
祈祷会メッセージとお祈りの課題

シンプルな愛、シンプルな信仰

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブ1:21

通読は旧約聖書に戻り、ヨブ記に入りました。ヨブ記は解釈の難しい書物の一つです。苦難の理由という一つのテーマを扱っていますが、ボリュームも多く、詩的であったり、哲学的であったりと難解な文章が多いです。ヨブの悲惨な境遇を考えると、気分も落ち込んでしまいます。しかし苦難の意味について、また信仰の本質について考えるのには本当に素晴らしい書物です。自分が苦難の境遇に陥った時には、ここまで考える余裕はないかもしれません。なるべく元気なうちに、この書物に触れ、じっくりと考えるほうがいいのかもしれません。

1~2章はイントロダクションのような内容です。ヨブ記のほとんどはヨブと3人の友人(途中から4人目が現れますが)の詩的な会話になります。その前に1~2章でヨブの身に起こったすべてが説明されています。ヨブは「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた(1:1)」人物でした。神様からもヨブのような者は「地上には一人もいない(1:8、2:3)」と言われるほどでした。しかしサタンはヨブが神様を恐れる動機に疑問を持ちます。一つ目の理由は、神様がヨブに繁栄を与えると思っているから神様を恐れているのではないかという理由です。神様を恐れたり、敬ったりしていれば祝福がもらえるからという、いわゆるご利益宗教的な考えです。二つ目は、神様を恐れたり敬ったりしていなければ、いのちを取られてしまうのではないか、殺されてしまうのではないかという恐怖から、神様を敬っているのではないかという理由です。サタンはヨブには何かしらの理由があって、今は神様に仕えているだけなのではないか、それらの物が失われたら、ヨブはきっと信仰を捨てるだろうと考えたのです。1:9で「ヨブは理由もなく神を恐れているでしょうか」とサタンが語っている通りです。神様は、ならばということでサタンにヨブの財産を打ち、家族を打ち、さらにはヨブのからだも打ってよいと許可します。こうしてヨブはそれまで持っていた財産をすべて失い、子どもたちもすべて失い、自身の体も悪性のデキモノで打たれ、悲惨な苦難に会う事になります。その姿は、良く知っている友人たちが見ても、それがヨブであると認識できないほど悲惨な状態でした。しかしヨブは神様を呪うことはせず、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(1:21)」と神様を礼拝していたのです。

聖書を読んでいる私たちには、神様とサタンのやり取りがあったことが分かりますが、ヨブはそのことを知る由もありません。また読者である私たちも神様が苦難をお許しになった真意までは測りかねます。ヨブは3人の友人が訪ねてきた後、友人たちと語り始めます。そしてなぜこのような境遇になったのか、苦難の理由について語り合うのです。私たちはそれを読みながら、私たち自身の信仰にも光が当てられていきます。最終的には、神様は苦難の一切の理由を明らかにしません。ヨブや友人たち、サタンは、ご利益宗教的な信仰、いのちの恐れから来る信仰、因果応報的な信仰と、様々な議論を重ねますが、どれも神様の真意をついていないことが明らかにされます。私たちは読み進めていく上で、それらすべてを超えた、ただシンプルに神様はヨブを、また私たちを愛しておられ、それにシンプルに「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と応えるだけの信仰があることに気づきます。長く苦しい書ではありますが、神様の助けを頂きながら読み進めて行きたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 年末年始に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • FMTW、家族セミナー、代議員総会のために
  • 教団の神学生たちのために
  • 川越教会のために