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祈祷会メッセージとお祈りの課題

開かれた心

コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。(IIコリント6:11)

パウロは、IIコリント6~7章で、クリスチャンとクリスチャンでない人の違いについて書いています。同じ人間ではありますが、クリスチャンは、そうでない人から見て何か違和感を感じる存在です。それはその人にとって良くも悪くも映るので、ある人からは尊敬されたり、ある人からは悪評を受けたりします。そのような違いが生じてしまうのは、仕方のないことです。なぜならパウロが述べている通り、キリストを信じる者は、人間的な標準で生きるのではなく、神の標準で生きようとするからです。だからクリスチャンは、人から褒められたり、悪評を受けたりします。逆に言えば、それは人と違うので注目されているということでもあります。

このように何かと人から言われるクリスチャンですが、人からの風評を気にすることはありません。なぜならクリスチャンの土台は、人からの風評にあるのではなくて、神の恵みにあるからです。神の恵みに頼って生きるとは、もはや自分の力ではなく、他の何者の力でもなく、神の力で生かされていることを知る事です。そして神様が本気で自分の事を愛してくださっている、だからもう恐れることは無いと知る事です。クリスチャンは神の恵みを土台として生きるようになった者たちです。だから恐れることはありません。

パウロはこの不思議な生き方について、IIコリント6:3-10で表現しています。イエス様は新約聖書の中でこう仰いました。「真理はあなたがたを自由にします(ヨハネ8:32)。」イエス様こそが真理のお方です。イエス様は私たちを愛し、私たちを罪に縛られない、何にも縛られない自由を与えるために十字架にかかってくださいました。私たちの自由への戦いは終わったのです。私たちは自由を求めて戦う必要はありません。ただ今は、イエス様の恵みに感謝し、イエス様と同じように自発的な愛を持って生きて行くのです。

パウロは、愛について、いろいろと手紙の中で書いています。このようにするのが愛ではないでしょうか?こうした方がいいのではないでしょうか?といろいろな手紙の中で書いていますが、それは法律を制定しているのではありません。それを守らなければ神様の愛を頂けないのではありません。大前提として私たちはありのままで神様に愛されています。私たちは、パウロが書いていることを実行したから神様からの愛を受けた、自由になったのではなくて、すでに自由なのです。パウロがここで書いている「私たちの心は広く開かれています。」という言葉には、二つの意味があると思います。それは神様が私たちの心を自由にしたこと、解放したこと。もう一つは、パウロも神様の愛によってコリントの教会の人たちをありのままで受け入れているということです。パウロはコリントの人たちを縛ろうとは考えていません。自由だからこそ、パウロは自分なりに愛について考えています。私たちも自由に愛について考えることができます。時には、パウロの意見に対して「それはちょっと時代遅れだと思います。」と思う時があるかもしれません。時にはより深い愛について教えられるかもしれません。私たちも神様に心を開いて頂いて、自由に柔軟な発想で愛について考えながら歩みたいと思います。

お祈りの課題

  • 9日の工事(和室→フローリング、看板→掲示板)のために
  • 9月の予定(聖書の学び会、委員長会議、聖書塾、礼拝奏楽者研修会、日本伝道会議)のために
  • 昭島教会のみなさんのために
  • 青梅教会のために