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祈祷会メッセージとお祈りの課題

病を負った救い主

これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」
マタイ8:17

新年に入り、聖書通読もマタイの福音書から新たに始まりました。マタイは、イエス様が旧約聖書で預言されていた救い主であることを福音書の中でたくさん証ししています。マタイ8:17もそのような箇所の中の一つです。イエス様は救い主としてお生まれになりましたが、姿かたちは私たち人間と同じでした。また最後は十字架に架けられますので、一般的にはイエス様が救い主であることは分かりづらい事です。マタイは、イエス様が行ったことと、旧約聖書で救い主について預言されていることが同じであるという事を通して、イエス様が救い主であることを証明しようとしています。

マタイ8章には、イエス様がたくさんの方々の病を奇跡的に癒されたことが記されています。このツァラアトに冒された人、中風にかかった百人隊長のしもべ、熱を出して寝込んでいるペテロの姑、たくさんの方々を一瞬にして、治しています。これだけでも神様の行った奇跡だと言えると思います。マタイはその出来事に加えて、8:16-17の言葉を添えています。救い主はそのようにして、たくさんの方々の病を治すことが預言されていたという事です。だからイエス様は旧約聖書で預言されていた救い主であるということをマタイは言いたいのです。

マタイが引用した旧約聖書の言葉は、イザヤ書53:4の言葉です。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った(イザヤ53:4)」少し言葉は変わっていますが、内容は同じです。イザヤ書53章は、「苦難のしもべ」と呼ばれる有名な章で、救い主が地上でどのように扱われ、全ての人の罪を背負って贖いを成し遂げるのかということが記されているのです。旧約聖書の中でも、救い主に関する特に重要な預言と言えます。マタイはイエス様が人々の病をいやされたことと、イザヤ書53章を結びつけることで、イエス様が本当に救い主であることを力強く証明しています。

興味深いことに、マタイが引用したイザヤ53:4には、このような続きがあります。「それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」イザヤ53章には、救い主が病をいやされるという事を述べているというよりは、救い主が病を代わりに背負うという事が述べられています。イエス様はたくさんの人々の病をいやされましたが、なぜマタイは「病をいやす」という預言の箇所ではなく。「病を代わりに背負う」という箇所を選んだのでしょう?それは当時のユダヤ人たちから見たイエス様への反応を表しているのかもしれません。イエス様が癒された方々の多くは、律法によって汚れているとされている人々でした。律法の主な目的は、感染拡大を防ぐという事だったかもしれませんが、ユダヤ人の間では「汚れる」というイメージが先行し、誰も近寄りたがらないような惨めな人たちでした。イエス様はあえてそのような人々の所へ行かれたので、ユダヤ人たちから見ればイエス様も「汚れた人」でした。マタイは苦難のしもべと呼ばれるイザヤ53章を引用することで、イエス様が「汚れている」というイメージの所へ行くのは、救い主だからだということを言いたかったのかもしれません。人々からはイエス様は、わざわざ汚れるような場所へ行って神の罰を受けるような人だと思われたかもしれない。でもそれも旧約聖書で預言されていたことだとマタイは言いたかったのでしょう。また逆に、救い主イエス様はどんなに汚れていると思われているような惨めな人の所にでも、来てくださる愛のお方であるという事を示しています。そのイエス様に今日も感謝したいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • クリスマスシーズンに初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 昨年守られたことへの感謝
  • 新年の導きのために
  • 予算総会、交換講壇礼拝のために
  • 桜ヶ丘教会のために