神様の愛で愛し合う

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
ヨハネ15:12

ヨハネ13~17章には、最後の晩餐での出来事が記されています。イエス様が十字架に架かられる前の晩、イエス様は弟子たちと過ごされました。弟子たちはこの後、何がおこるのか全く知りませんでしたが、イエス様はご存知でした。「イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された(ヨハネ13:1)」と記されています。イエス様は神様の愛を示すために来られた救い主です。神様が、イエス様がどれほど私たちを愛しておられるか示すために来られました。最たるものが十字架です。その十字架の意味を、イエス様は最後の晩餐の席で語られました。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」とイエス様は仰いました。世の中にいのちのよりも重いものはありません。一人ひとりのいのちは尊いもの、かけがえのないものです。つまりこの地上にある他の何物をもっても、いのちと交換できません。そのいのちを他の誰かのために使う事、それが最も大きな愛です。イエス様は私たちのために十字架に架かっていのちを落としてくださいました。私たちは自分の罪のために滅びに向かっていました。しかしイエス様が私たちの代わりにいのちを落として下さったのです。私たちが頼んだからではありません。イエス様のいのちは私たちの自由に使っていい物でもありません。イエス様が自らすすんで私たちのためにいのちを捨てられたのです。それはイエス様の私たちに対する愛です。いのちを投げ出すほどにイエス様は私たち一人ひとりのことを常に大切に思い、心にかけて下さっているのです。この愛を私たちは受け取っています。それも全く押しつけがましくありません。この愛を受け取るかどうかは、私たちの自由意志に委ねられています。クリスチャンはみな、このイエス様からの最高の愛を感謝して受け取った人たちです。

イエス様は続けて仰いました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネ15:12)」この言葉をイエス様はもう一度繰り返しています。「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます(ヨハネ15:17)」私たちはイエス様の最高の愛を受け取りました。いのちをも投げ出してくださる愛を受け取りました。イエス様が望んでおられるのは、私たち一人ひとりも、同じように互いに愛し合う事です。お互いのことを気にかけ、大切に思うことです。自分の時間を割いて他の人のために用い、時にはいのちを投げだすこともあるかもしれません。それもイエス様のように押しつけがましくなく、相手の自由意思を尊重し、十分に配慮しながら支えていくことです。

このような愛は私たちの内に初めから備わっているものではありません。イエス様が十字架に架かって下さり、私たちを愛して下さり、聖霊を送って下さったので、できることです。ですから私たちはまずイエス様の愛をしっかりと受け取り、聖霊なる神様を自分の内に招いて、神様の愛に満たされて歩みたいと思います。

お祈りの課題

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「父」と「子」の深い信頼関係

わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。
ヨハネ10:29

 

私たちが信じている神様は、三位一体の神様です。ただおひとりの神様です。しかし今日はあえて、三位を区別して考えてみたいと思います。ヨハネの福音書でイエス様は、父なる神様とご自身とが別々の存在であるかのように話されます。もちろん、「わたしと父とは一つです(10:30)」と話され、三位一体のおひとりの神様であられることも強調されています。ヨハネの福音書でイエス様は、父なる神様のことを「父」と呼び、「父」がどう考えておられるか、そしてイエス様ご自身がそれをどう受け止めておられるかというように話されます。父なる神様がイエス様を救い主として世に遣わされたので、イエス様は父なる神様に従って世にやって来たという言い方をされています。イエス様は父なる神様とご自分を区別されているのですが、イエス様はとても深く父なる神様を信頼しておられ、父なる神様が行うことは全て良い事であると固く信じており、忠実に従っているのです。

これを良く表しているのが、「わたしは羊の門です(10:7)」という表現ではないでしょうか。イエス様はご自分が人々の救いのためのゲートに過ぎないかのような言い回しです。イエス様が望んでおられるのは、羊たちがご自分を通って、父なる神様の許へ行く事なのです。父なる神様が本当に深く人々を愛しておられ、人々にご自分の許へ帰ってきて欲しいと望んでおられます。そしてそのために、父なる神様から大事な使命を預かったイエス様は、良い牧者として羊たちのためにいのちを捧げるのです。父なる神様が本当に深く私たちを愛しておられるので、イエス様は「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。(10:29)」と仰います。まさに「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」という御言葉の通りです。この父なる神様の願いを受けて、イエス様は十字架で私たちの罪のために命を落として下さいました。

この父なる神様の人々への愛をイエス様は共有しておられます。深く父なる神様を信頼し、父なる神様の思いの全てを同じように共有しているのです。今日はあえて、父なる神様とイエス様を区別して考えてみましたが、最終的には父なる神様とイエス様は切っても切り離せない深い関係によって結ばれているのだという結論に至ります。父なる神様の思いの全てをイエス様が深い信頼をもって受け取り、一致しているのです。三位一体の神様はこのような深い愛情と信頼によって結ばれています。私たちが神様の愛を受け取る時、私たちもこのような深い関係に結び付けられることを神様は願っています。神様がどれだけ私たちを愛しておられるのかと知りたいと思います。そして私たちもイエス様のように神様に深い信頼を寄せたいと思います。神様がどのように人々をご覧になっておられるのかを知り、神様が私たちに今して欲しいと願っておられることを忠実に行っていきたいと思います。

お祈りの課題

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神様からの信頼

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。
ヨハネ5:22

ヨハネの福音書を開きました。新約聖書の中に、イエス様の地上でのご生涯(公生涯)を記録した福音書は4つあります。それぞれがそれぞれの角度の視点から、イエス様を証ししています。中でもヨハネの福音書は他の3つの福音書には記されていないお話も多く、独特な雰囲気を持っています。

ヨハネの福音書には、イエス様と人々、特に律法学者たちとの議論が詳しく収録されています。私自身はとても忘れっぽい人間ですので、ヨハネはやり取りの詳細をよく覚えていたなと驚きます。このヨハネの福音書のイエス様と人々との議論のおかげで、イエス様の救いの詳細、神様の思いが伝わってきます。

ヨハネ5章は前半にベテスダの池での癒しのお話が記されています。当時ベテスダの池には言い伝えがありました。時々天使が降りて来て水面が動き、その時に最初に池に入った人の病が癒されるというものでした。ベテスダの池にはたくさんの人が癒しを求めて集まっていました。イエス様はそのうちの一人、38年も病気にかかっている人に目を留められました。イエス様はその人に「床を取り上げて歩きなさい。」と仰いました。その人はすっかり癒されて、床を取り上げて歩きました。神様の奇跡です。ところがその日が安息日であったため、イエス様はユダヤ人たちと議論になります。安息日には物を運んではならないという決まりがあったからです。そこで安息日に物を運んでも良いと言うイエス様、また議論の中でイエス様は神様のことを「父」と呼びますが、それもユダヤ人たちは引っ掛かり、イエスは一体、何者かという議論になります。

聖書を読んでいる私たちとしては、何かとても的がズレた議論をしているのではないかと思います。イエス様が行われた癒しの奇跡はどこへ行ってしまったのだろうかと思います。イエス様はこの議論の中で、イエス様ご自身が神様から遣わされた独り子であること、救い主であることを証しします。イエス様を信じれば永遠のいのちを受けるという事を証しします。教会でもイエス様は私たちの救い主ですと聞きます。イエス様を信じれば救われますと聞きます。そう聞いて私たちは、信じる根拠を探そうとします。しかし信じる根拠は必ずしも理屈ではないのではないかと思います。どういう仕組みで私たちがイエス様を信じることと、私たちが永遠のいのちを受けることが繋がるのかという理屈で信じるのではないと思います。私たちがイエス様を信じる根拠は、イエス様が私たちをどのようにご覧になっているかという信頼関係にあるのではないかと思います。

5章のイエス様の議論を読むと、イエス様と父なる神様の温かい信頼関係が見えてきます。父なる神様がどれほどイエス様を信頼し、イエス様がどれほど父なる神様を信頼しているかが見えます。そして同時に私たち一人ひとりに対しても、信頼に基づいた自由を与えて下さっていることに気づきます。ヨハネ5:22には「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。」とあります。これは議論全体を読むと分かる事ですが、イエス様がだれにいのちを与えるか、与えないか決めるという意味ではありません。イエス様を指標として信じる人はいのち与えられ、信じない人はいのち与えられないという意味です。つまり父なる神様も、イエス様も、だれをさばくか選ぶという権利を放棄しておられるのです。救いを受けるか、受けないか、私たちは自由に選ぶことができます。これは父なる神様がイエス様を信頼し、私たちを信頼している結果です。最近、どこかで「信じても裏切られるかもしれない。しかし信じなければ決して信じてもらえない。」という言葉を聞きました。父なる神様は私たちを救いたいと願っています。だから私たちに神様を信じて欲しいと願っています。そのため、神様はまず私たちを信頼して、選ぶ自由を与えて下さいました。私たちも神様を信じたいと思います。

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神様に拠り頼む

また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」
黙示録14:13

ヨハネの黙示録を開きました。ヨハネの黙示録は大きく3つのパートに分ける事ができるかと思います。初めに諸教会への勧告があり、その後、地上でのさばきのこと、そして新しいエルサレムについての記述です。ボリュームとしては地上でのさばきのことが最も多く描かれていますが、この部分もさらに3つに分ける事ができるかと思います。七つの巻物の封印、七つのラッパ、七つの鉢です。それぞれの間にインターバルのような他のエピソードが追加されています。14章は七つのラッパと七つの鉢の間に挿入されているエピソードになります。

このエピソードは12章から14章まで続いています。一人の女が男の子を産み、この女と子孫を巡って、御使いと竜の軍勢の間で争いが起こります(12章)。竜は獣を呼び寄せ、人々を惑わし始めます(13章)。この獣は世界を支配し、人々に刻印を記します。この刻印が具体的には何を指すのかは分かりませんが、この刻印が無ければ「売り買いできない(13:17)」と書かれていますから、それが無ければ生活に困るようなものなのかもしれません。世の中全体が、刻印を受けないなんて考えられないという風潮になるであろうと思われます。そうしなければ生きていけないかもしれないという事です。この刻印によって獣は人々を支配するのです。しかしその期間には終わりがあります。獣が人々を支配できる期間は13:5によると42か月間(3年半)です。その後、14章に入ると、御使いが現れ、獣の刻印を受けた者を罰します。

14:12には「ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。」と記されています。また14:13では「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである」と記されています。黙示録で語られていることは、終末についてです。私たちのいのちのことが記されています。それも永遠に関することです。そこでは私たちの人生の基盤がなんであるかが問われます。神に拠り頼んでいるのか、それ以外のもの、獣の刻印に拠り頼むようになるのかが問われます。聖書は神様に拠り頼む者に苦しみの時があることを否定しません。しかし苦しみには必ず終わりがあること、そして最後には必ず神様が勝利されることを約束しています。またそのための信仰の戦いに直面している人の全ての行いがちゃんと神様に覚えられていることを約束しています。黙示録19章以降にはイエス様と教会の婚礼、そして新しい天と新しい地について記されています。神様は私たちを、この世にある一時の平安にではなく、終末の後に訪れる永遠の平安に招いて下さっています。世にある間、苦難があったとしても、神様はそれ以上の報いを与えて下さいます。私たちは人生の基盤をこのように約束してくださっている神様に置きたいと思います。日々神様に拠り頼み、神様の言葉を頂きながら、いつも神様と共に歩みたいと思います。

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イエス様の権威を信じる

「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」
ユダ20

ユダの手紙を開きました。ユダの手紙は1章だけの短い書です。ユダの手紙の著者についてですが、1:1に「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから」とあります。イエス様の12使徒には、ユダという名前の弟子が2人いますが、そのどちらでもなさそうです。手紙の著者は「ヤコブの兄弟」と言っていますし、ユダ17ではあたかも手紙の著者と12使徒は別人であるかのように書いているからです。イエス様の兄弟にはヤコブ、ユダという名前の人物がいることから、この手紙の著者はイエス様の弟のユダであると考えられます(マタイ13:55参照)。

ユダは最初、救いについて手紙を書こうと考えていましたが、信仰を守る戦いのために励ましの言葉を送る必要が出てきました(3節)。4節では不敬虔な者たちが忍び込んできたと書いています。彼らはイエス・キリストを否定して、自らの欲望のままに生きていると書かれています。ぶつぶつと不満を並べたて、大げさなことを語っていると書かれています。ユダは、手紙の読者が彼らに影響されて、信仰を失ってしまわないようにと書いています。ユダによれば、彼らが不敬虔に生きるのは、イエス・キリストの権威を認めていないからです(8節)。イエス様は私たちを愛して、救い、守ることができるお方です。私たちの救い主であるという事は、私たちを救うために十分な力と権威を持っておられるという事です。それは神様としての権威、力です。不敬虔な者たちはイエス様の権威、神様の権威を侮っているのだとユダは語ります。

ユダの手紙には旧約聖書正典の中にない記述からの引用がいくつか見られます。14-15節のエノクの預言に関する記述はエノク書に記されている言葉と考えられています。エノク書はエチオピア正教会では正典に含まれているようですが、旧約聖書には納められていません。また9節のミカエルと悪魔が言い争っているという出来事は、モーセの昇天(遺訓)という書物からの引用と考えられています。こちらはまだ全編が残っている資料が見つかっていません。伝承によれば、モーセの死後、モーセの犯した罪について、悪魔がモーセの体を引き渡すようにミカエルと言い争ったという事です。その時、ミカエルは汚い言葉を用いず、神様の権威の許、モーセの体の引き渡しを拒んだという事です。ユダの手紙はイエス様の権威、神様の権威について書いていますので、このような記述が引用されたと思われます。

神様は目に見る事ができず、その声を耳で直接聞くこともできません。ですから神様の権威、神様の力がどの程度、私たちに及ぶのか分からなくなる時があります。しかし私たちは神様の権威、力を信じて堅く信仰を守りたいと思います。神様は聖書の中においても、またその後の歴史の中においても、多くの兄弟姉妹を守り、助けて下さいました。24節でユダが言うように神様は、私たちを「つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方」です。自分たちの内側の誘惑や、外側からの誘惑に負けることなく、信仰の生涯を歩ませて頂きましょう。

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