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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神に従う

しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。」
使徒5:29

聖書通読は使徒の働きに入りました。イエス様が十字架に架かり、復活され、天に昇って行かれるところから、使徒の働きは始まります。イエス様は弟子たちに聖霊を与えることを約束されました。その約束を信じて弟子たちは祈り待ち望んでいました。聖霊はペンテコステの日に弟子たちの上に望みました。その時弟子たちは、力強く救い主イエス・キリストを証しし、多くの人が救われ、キリスト教会が誕生しました。使徒の働きは、キリスト教会の誕生と広がりを伝えています。

イエス様の弟子たち、つまり使徒たちはどのような動機で、何を宣べ伝えていたのか、最初のいくつかの章で明らかにされています。使徒たちは、旧約で預言されたメシヤであり、罪の贖い主であるイエス・キリストを宣べ伝えていました。当時のイスラエルの人々からすれば、イエス様は十字架に架けられた罪人でした。しかし使徒たちは、イエス様には何の罪も無く、またメシヤとしての特別な使命を帯びて、人となられた神であったと説いています。イスラエルの指導者たちからすれば悩みの種でありましたが、全くコントロールできずに手を焼いている姿が記されています。使徒たちは聖霊の力を受け、その導きに従って、イエス様のことを証ししました。その中でたくさんの奇跡が行われたことも記されています。

使徒たちが行った奇跡は、聖霊の力、イエス様の力、神様の力によります。3:6でペテロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言っている通りです。使徒たちの行った奇跡も、兄弟たちの教会での奉仕と捧げ物も、みな動機は神様にあります。すべては神様の御名のためであり、神様への感謝、神様からの愛を受けての行動でした。奇跡や大きな捧げ物は人の目を惹きつけます。多くの人から注目を浴びますが、それが目的ではありません。しかし5章の最初には人からの注目を浴びたいがために、たくさんの捧げ物をしようとしていのちを失ったアナニアとサッピラが出てきます。聖書はイスラエルの指導者の口を通して私たちに語ります。「もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう(5:38-39)」だから私たちは、ペテロと使徒たちの言う通り「人に従うより、神に従うべきです。」

「従う」という言葉を用いていますが、無機的に何も考えずに神様のなすがままにするという事ではありません。また神様は、何か自分のエゴのために事を進めようとされる方でもありません。使徒たちはイエス様から本当にたくさんの愛を受け、感謝したいことがたくさんありました。神様からたくさんの喜びを受け、そしてその喜びをもっと多くの人と分かち合いたいと思っていたことも事実です。そして神様もすべての人にその喜びを知ってもらいたいと思っています。神様はエゴで事を進めるようなことはなさいませんが、人間はエゴのために宗教心や教会の奉仕さえも道具にしようとするものです。罪の心がそうさせるのです。一見、自由な意志をもって自分の人生を決めているように見えますが、罪の心の奴隷となっている状態です。しかしイエス様はその罪の心から解放してくださいました。従うと言う言葉を用いていますが、イエス様に従って生きると言うことは、罪の心から自由になっていることでもあります。感謝と喜びと安心にあふれた自由な、従う生き方なのです。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために。
  • 2-3月に初めて来られた方々、久治ぶりに来られた方々のために。
  • 受難日特別礼拝、イースター礼拝のために。
  • 桜ヶ丘教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

与え、取られる主の愛

こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。
ヨブ42:17

ヨブ記も今日で終わりです。38章になって神様はヨブに語りかけ始めました。神様はヨブに、神様がお造りになった宇宙と、地上の動物たちの姿を思い起こさせます。しかしその中にはヨブが見たことのある動物たちの姿ばかりではありませんでした。むしろヨブの知らない動物たちの営みを神様は語り始めたのです。私たちは動物たちの営みについて知っていることもたくさんありますが、知らないことも多いです。また宇宙の神秘についても知っていることもありますが、知らないこともまだまだたくさんあります。いわば、私たちはどうしてこの世界が存在し、調和がとれているのか、全く分かっていないのです。しかし神様はその全てをデザインし、見守っておられます。だから神様は言います。「何も知らないのに、あなたは因果応報の論理を宇宙に対して、また私に対して突きつけるのか?」「だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ(ヨブ41:11)」

これだけを聞くと、神様はとても恐ろしいだけの存在のように聞こえますが、神様はこう続けています。神様はレビヤタンという生き物に目を向けさせます。レビヤタンがどの動物の事を指すのか、よく分かっていませんが、ワニのような、ウミヘビのような生き物と考えられています。それはとても人間が太刀打ちできるような生き物ではありません。力と凶暴さだけで言えば、どんな生き物よりも強い生き物です。しかし神様は、ただレビヤタンの強さだけを語るのではなく、レビヤタンにはレビヤタンの役割があり、営みがあり、そのために必要なだけの備えをされたこと語ります。同じように神様はヨブにも、ヨブだけの営みがあり、そのために必要な力と知恵を与えておられることを神様は語るのです。そして他のすべての動物たちを神様が見守っているように、神様はヨブを気にかけ、大切に思い、一言で言えば、愛を持って接しておられます。ヨブだけでなく、私たち全ての人に対して、それぞれの営みを知り、そのために必要な力と知恵と助けを与えています。それらはすべて神様からの祝福、恵みです。1章でヨブは言いました。「主は与え、主は取られる(1:21)」確かに神様は私たちに与えるお方であり、また取られるお方です。しかしその一つ一つに神様の愛がこもっている事を忘れてはなりません。神様はただいたずらに与え、取られているのではないという事です。その理由は全て明らかにされませんが、そこに愛があることは確かなのです。すべての事の背後にある神様の愛に気づくと、私たちの人生は本当に自由になります。神様のご計画の内では、「すべてのことがともに働いて益となること(ローマ8:28)」を心から納得して、信じることができるからです。

ヨブはその後、祝福された人生を歩みました。ヨブ42:17はそのように語ります。しかしその言葉の意味は「ヨブが聞き従ったので神様は祝された」という意味ではないことに気が付くと思います。ヨブの傷跡は残ったままです。失った息子たち、娘たちは帰ってきません。そして理由は明らかになりません。しかし神様の愛の豊かさを知ったヨブは、すべて御手の内にあるという確信を持ち続けたので、その後の人生における揺れ動きを、神様の愛によるものと確信して受け止めることができました。それはとても神様の愛に満ち足りて余りある生涯でした。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 1-2月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 受難日特別礼拝、イースター礼拝のために
  • 新年度の導きのために
  • 小金井教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

視点を移す

全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。
ヨブ21:15

ヨブ記の半分まで来ました。友人たちのとの議論は2巡目になり、議論は白熱していきます。友人たちはこれまで因果応報説によって、ヨブが災いを受けているのは、ヨブが(あるいは家族が)罪をおかしたからではないか?と主張してきました。それに対してヨブは自分の身の潔白を主張してきました。ヨブが神様の前に正しい人であったことは、1~2章を見ても明らかです。ヨブの言い分は一見、おこがましくも見えますが、私たち以上にヨブは正しい人であったことを忘れてはいけません。

21章に入ると、ヨブは因果応報説そのものに疑問を持ち始めます。聖書は「神様に従えば祝福を受け、神様に従わなければ災いを受ける。」と教えます。申命記はだからこそあなたがたは心を尽くして、神を愛しなさいと教えます。しかしよくよく世の中を見まわしてみると、ヨブが言うように、「悪しき者が生きながらえて 年をとってもなお力を増し加え(21:7)」ています。神様が機械的に因果応報によって人をさばいているのであれば、彼らは衰えていき、滅びるはずではないかと言います。しかし悪人がみな滅びないわけではありません。確かに滅びていく悪人も多いのです。災いを受ける悪人と、災いを受けない悪人の差はなんでしょうか?その差というのは友人たちがヨブが受けた災いの理由と関係があるのでしょうか?逆に差が無いとするのであれば、「全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで(21:15)」ということになります。ヨブはこれらの事を考えると、「おびえ、戦慄でからだが震える(21:6)」と言います。

ヨブや友人たちが陥っている因果応報という考え方は、とても自己中心的な考え方でした。ヨブの行いの故に、神様はヨブの状況を変えるはずだと言う考えです。これは神様の上に自分を立たせる高慢です。神様は因果応報によって裁きを行わなければならず、だからこそ私という人間はその因果応報に従って行動するという考え方です。そうでなければ、神様に従わなければいけない理由が無くなってしまうのです。全能者とは何者なのか?わたしが「正しいからいって、それが全能者の喜びとなるだろうか(22:3)」ということです。

私たちは日頃、このように私中心で物事を見て生きています。他の人の心は見えないからです。想像するしかありません。だからと言って想像するのを止めてしまうと、とても自己中心的な生き方、自分ファーストな生き方になってしまいます。他の人との接し方を、自分の利害に合うか合わないかで決めてしまいます。この自己中心性が罪です。私たちはその物の見方を改めなければなりません。

私たちは神様との関係を見る時にも、私中心の見方ではなく、別の角度、神様からの角度で見る必要があります。神様は聖書の中で、神様に従うように教えています。そうすれば祝福を受け、従わなければ滅びてしまうとはっきりと仰っています。しかし神様には別の理由があって、滅びをとどめているのです。神様が機械的な冷徹なお方ではなく、人格的で人に同情できるお方であることがここに現れているのです。ひとことで言うならば、愛です。私たちは自分中心の見方をしている限り、この神様の愛を見出すことは難しいです。一たび、なぜ神様は因果応報をとどめるのか、視点を移して考えた時に真理が見えてきます。

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  • 聖餐礼拝、役員会のために
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苦難の理由ではなく

私は、自分の友の笑いものとなっている。神を呼び求め、神が答えてくださった者なのに。正しく誠実な者が笑いものだ。安らかだと思っている者はわざわいを侮る。わざわいは足がよろめく者に用意されている。
ヨブ12:4-5

ヨブ記12章に入りました。3章でヨブが語り始め、3人の友人たちと交互に議論を交わしていきます。エリファズが語り、またヨブが語り、ビルダデが語り、ヨブが語り、ツォファルが語り、またヨブが語り、と議論が一巡しました。ヨブ記の解釈はとても難しいのですが、3章でヨブがサタンの思惑通り、神様を呪い始めたと見ると、ヨブ記は勧善懲悪的なとてもシンプルな構造にはなりますが、ヨブの苦しみを理解できないことになり、ヨブ記の持つ深みのあるメッセージが見えなくなります。ヨブ記に登場する人物はそれぞれ、篤い信仰を持っている面々で、人生経験も豊かで、神様に背くことはしないどころか、かえって信仰の弱っている人たちをたくさん励ましてきた人たちです。

ここまでの議論で友人たちが主張してきたことは、神様は正しいものを祝福し、悪い者を罰するお方なので、今ヨブの身に(あるいは、ヨブの家族に)起こった災いは、何らかの罪が原因なのではないかということです。これは正論と言えば、正論になります。もしかしたら私たちも日ごろ、このように考えるかもしれません。自分の身に何か辛いことが起きたら、それは神様からの罰であると思うかもしれません。友人たちもこの点を疑いました。神様は正しい方なので、正しい方を罰するはずは無いから、では逆にヨブか、ヨブの家族に悪者がいたに違いないと考えたのです。しかしヨブは終始自分の正しさを主張しています。そして1~2章に書かれていた神様とサタンのやり取りを見ている私たちにも、ヨブが正しい人であったことは明らかです。神様はヨブを絶賛していました。ヨブがこのような試練にあったのは、ヨブが正しいから、悪いからということとは別な理由があったということです。そして最終的には、神様はその理由を決して明らかにはなさいません。これは私たちにとっては辛いことかもしれません。苦難の理由は絶対明かされないのです。

ですからヨブの友人たちのように苦難の理由にばかり目を向けると、答えが得られないばかりか、苦しむヨブに対して、さらに苦しみを与えてしまう事になります。ヨブは12:4-5で語ります。「私は、自分の友の笑いものとなっている。…正しい誠実な者が笑いものだ。」確かに友人たちの語る通り、私たち全ての人は、神様の前に潔白であることはできません。だれでも罪を持っています。ヨブ自身もそれは良く知っていました。だからこそヨブは、いけにえを捧げ続けて(1:5参照)、神様に悔い改め続けてきたのです。慰めにやってきたはずの友人たちは、ヨブを慰めるどころか、返って傷口に塩を塗るようなことをしてしまいました。苦しむ人を慰めるという事の難しさを感じます。伝道者の書7:16に「あなたは正しすぎてはならない。」とあります。正しいことが必ずしも人を助けることにはなりません。その前の伝道者の書7:15には「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある」と書いています。「神様は勧善懲悪なお方」ですが、「神様が勧善懲悪だから滅びた人はみな悪人」とはならないという事です。神様は、私たちに苦難の理由ではなく、別の事に目を向けてほしいと願っているのかもしれません。続くヨブ記を読む中で、そんなことを考えながら読みたいと思います。

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シンプルな愛、シンプルな信仰

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブ1:21

通読は旧約聖書に戻り、ヨブ記に入りました。ヨブ記は解釈の難しい書物の一つです。苦難の理由という一つのテーマを扱っていますが、ボリュームも多く、詩的であったり、哲学的であったりと難解な文章が多いです。ヨブの悲惨な境遇を考えると、気分も落ち込んでしまいます。しかし苦難の意味について、また信仰の本質について考えるのには本当に素晴らしい書物です。自分が苦難の境遇に陥った時には、ここまで考える余裕はないかもしれません。なるべく元気なうちに、この書物に触れ、じっくりと考えるほうがいいのかもしれません。

1~2章はイントロダクションのような内容です。ヨブ記のほとんどはヨブと3人の友人(途中から4人目が現れますが)の詩的な会話になります。その前に1~2章でヨブの身に起こったすべてが説明されています。ヨブは「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた(1:1)」人物でした。神様からもヨブのような者は「地上には一人もいない(1:8、2:3)」と言われるほどでした。しかしサタンはヨブが神様を恐れる動機に疑問を持ちます。一つ目の理由は、神様がヨブに繁栄を与えると思っているから神様を恐れているのではないかという理由です。神様を恐れたり、敬ったりしていれば祝福がもらえるからという、いわゆるご利益宗教的な考えです。二つ目は、神様を恐れたり敬ったりしていなければ、いのちを取られてしまうのではないか、殺されてしまうのではないかという恐怖から、神様を敬っているのではないかという理由です。サタンはヨブには何かしらの理由があって、今は神様に仕えているだけなのではないか、それらの物が失われたら、ヨブはきっと信仰を捨てるだろうと考えたのです。1:9で「ヨブは理由もなく神を恐れているでしょうか」とサタンが語っている通りです。神様は、ならばということでサタンにヨブの財産を打ち、家族を打ち、さらにはヨブのからだも打ってよいと許可します。こうしてヨブはそれまで持っていた財産をすべて失い、子どもたちもすべて失い、自身の体も悪性のデキモノで打たれ、悲惨な苦難に会う事になります。その姿は、良く知っている友人たちが見ても、それがヨブであると認識できないほど悲惨な状態でした。しかしヨブは神様を呪うことはせず、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(1:21)」と神様を礼拝していたのです。

聖書を読んでいる私たちには、神様とサタンのやり取りがあったことが分かりますが、ヨブはそのことを知る由もありません。また読者である私たちも神様が苦難をお許しになった真意までは測りかねます。ヨブは3人の友人が訪ねてきた後、友人たちと語り始めます。そしてなぜこのような境遇になったのか、苦難の理由について語り合うのです。私たちはそれを読みながら、私たち自身の信仰にも光が当てられていきます。最終的には、神様は苦難の一切の理由を明らかにしません。ヨブや友人たち、サタンは、ご利益宗教的な信仰、いのちの恐れから来る信仰、因果応報的な信仰と、様々な議論を重ねますが、どれも神様の真意をついていないことが明らかにされます。私たちは読み進めていく上で、それらすべてを超えた、ただシンプルに神様はヨブを、また私たちを愛しておられ、それにシンプルに「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と応えるだけの信仰があることに気づきます。長く苦しい書ではありますが、神様の助けを頂きながら読み進めて行きたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 年末年始に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • FMTW、家族セミナー、代議員総会のために
  • 教団の神学生たちのために
  • 川越教会のために