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祈祷会メッセージとお祈りの課題

恵みに驚き、祝福を祈る

幸いなことよ このようになる民は。幸いなことよ 主を自らの神とする民は。
詩篇144:15

詩篇144篇は、表題にダビデによると書いてあります。ダビデが神様の恵みに深く感動して賛美し、神様からの祝福を祈っているような詩篇になっています。詩篇144:3は、詩篇8:4の言葉「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」と、とても良く似ています。これらの詩篇の言葉は、神様からの恵みを受けた人の素直な反応ではないかと思います。恵みとは、人の行いや思いとは全く因果関係なく、神様から思いがけずに頂くものです。ですから恵みを頂いた人はただ驚きの声をあげるのです。

IIサムエル7章には、同じように神様からの恵みにダビデが驚いて感謝しているお話があります。この時ダビデはイスラエルの王として立てられ、エルサレムの王宮に住み始めたばかりの頃でした。自分の家から外を眺めると、王宮はとても立派なのですが、神様を礼拝するための幕屋は昔からのままで、移動式のテントでした。まだエルサレム神殿ができる前だからです。ダビデはそれを見て、自分がこんな立派な家に住んでいるのに、神様をテント生活のままにするわけにはいかない。神様のために王宮よりも立派な神殿を建てようと言います。すると、神様は預言者ナタンを遣わしてダビデに言います。あなたは私のために家を建てる必要はない。「主があなたのために一つの家を造る(IIサムエル7:11)」神様はダビデに自分の神殿を建ててもらう必要はない。それどころか、神様がダビデのために家を建てよう。と仰います。神様がダビデのために建てる家とはイスラエル王国のことです。ダビデの後の王様の代になっても、神様が共にイスラエル王国と共におられ、しっかりと導いて下さると約束されたのです。ダビデは、自分が神様のために働こうと思ったのに、逆に神様がダビデのために大きな恵みを施すと言われたので、驚きました。そして「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは(IIサムエル7:18)」と言います。詩篇144:15や、詩篇8:4の言葉とも似ています。神様からの恵みを受け取った時、私たちは驚くと思います。それは私たちの思いや行動とは関係なく、神様のご意志によって与えられるものだからです。そしてただ神様に感謝を捧げます。

ダビデは神様からの思いがけない恵みを受けた後、神様がこのように仰って下さったので、ある祈りと祈る勇気を得たと言っています(IIサムエル7:27-29)。それは自分の家神様の前に差し出して、あなたの導きの通りにして下さい。「あなたの祝福によって、あなたのしもべの家がとこしえに祝福されますように(IIサムエル7:29)」と祈っています。「あなたの祝福によって」という言葉がダビデの信仰を表しています。ダビデの思いに沿ってではなく、ダビデの行いに応じてでもなく、ただ神様の思いによって、導き、祝してくださいと祈っているのです。神様の恵みはこちらから求めたから必ず頂けるというものではなく、すべては神様のご意志によります。その神様のご意志がとてもあわれみ深く、愛に溢れたものであると分かったので、後はすべて神様にお委ねしますとダビデは祈っているのです。すべてを神様の良いと思われる方向へ導いて下さいという祈りです。私たちも私たち、そして周りの方々のために、主のご意志による主の祝福を祈るものとさせて頂きたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • キャンドルサービス、クリスマス礼拝・愛餐会・祝会のために
  • 宣教地のために
  • 桜ヶ丘教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

祝福の源である神様

さあ 主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち 夜ごとに主の家で仕える者たちよ。聖所に向かってあなたがたの手を上げ 主をほめたたえよ。天地を造られた主が シオンからあなたを祝福されるように。
詩篇129:2-4

詩篇120~134篇には、「都上りの歌」という表題がつけられています。イスラエルでは主要な祭りの時、みんな神殿があるエルサレムの都に集まりました。そこで神様を礼拝し、きよめの集会を持つようにと聖書で教えられているからです。過越し、七週、仮庵の祭りの時、人々はイスラエル各地から集まります。その時に口ずさんだ歌が「都上りの歌」と言われています。祭りの時は、喜びの時、お祝いの時ですから、うきうきしながらこの歌を歌い、エルサレムに集まったのではないかと思います。今のキリスト教会でいえば、夏のキャンプや修養会や、新年の聖会などに、みんなで賛美歌を歌いながら集まってくるというようなイメージでしょうか。

その楽しさ、うれしさが前面に出ているかのような詩篇が、詩篇133篇ではないかと思います。「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。(詩篇133:1)」主にある兄弟姉妹の交わりは本当に楽しいです。神様は人間を一人で生きるようには造られませんでした。友との交わりの中に喜びを見出すように、人を造られました。それは神様が愛なるお方だからです。キャンプや修養会でみんなで集まると楽しいのは、人がそのように造られているからです。神様がその集まりを祝福して下さっているからです。祭りの時に都に上っていくイスラエルの民も、ワクワクしながら、この歌を歌い、エルサレムに向かったのだと思います。

詩篇134篇は「都上りの歌」シリーズの最後の歌になっています。とても短いですが、神様への賛美に溢れる歌です。「さあ 主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち(詩篇134:1)」「都上りの歌」のなかで様々な神様からの祝福が歌われました。最後はその祝福を与えて下さる方に目を向け、精一杯の賛美を捧げる歌になっています。神様からの祝福はどれも素晴らしいものばかりです。主にある兄弟姉妹の交わりも神様からの祝福の一つです。しかし交わりが楽しいから、都に上って集まるのではありません。交わりが素晴らしいから、神様が素晴らしいのでもありません。神様が素晴らしいので、主にある兄弟姉妹の交わりが楽しいのです。あくまでも神様が主体なのです。教会のキャンプや修養会、いつもの礼拝は、他の人が集まるイベントと比べると地味で質素かもしれません。しかし他のイベントにはない喜びがあります。何が違うのかといえば、なんでしょうか。集まる人がみんな良い人だからでしょうか。いいえ。教会は罪人の集まりです。自分の罪の重さに耐えきれず、神様に救いを求めてきた人たちばかりです。それでは、だれかとても満たされている人がいて、人を楽ませるのが上手な人がいるからでしょうか。いいえ。私たちはみな、心に空洞を抱え、虚しさを覚え、教会に集まりました。世の何物でもその空虚さを埋める事ができなかったからです。教会の集まりが喜びに溢れているのは、神様が中心におられるからです。その集まりの中で、私たちは神様を深く感じ、喜んでいるのです。神様が私たちの罪を解決し、心の穴を埋めて下さるからです。だから私たちはもっと神様を賛美し、感謝をささげたいと思います。「天地を造られた主が シオンからあなたを祝福されるように。(134:3)」

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 八王子教会との青年親睦会、新年度の計画案、予算案のために
  • クリスマスに向かう歩みのために
  • みずほ台教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様が敵を断ち切られた

彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし 彼らは私に勝てなかった。耕す者たちは私の背に鋤をあて 長いあぜを作ったが。」主は正しくあられ 悪しき者の綱を断ち切られた。
詩篇129:2-4

詩篇129篇は、神様がイスラエルを敵から救って下さったことを感謝している歌です。この詩篇は個人的な歌、私と言う個人と、私を苦しめるいじめグループと捉えることもできますし、もっと大きな規模で、イスラエルという国全体と、イスラエルを苦しめる周辺諸国と捉えることもできます。大きな規模で捉えるのであれば、敵がイスラエルを苦しめていた、それもイスラエルが小さかった頃から、敵がイスラエルを苦しめていたということが語られています。イスラエルは元々、エジプトで奴隷であった民であり、決して力も強くありません。イスラエルの周辺諸国はイスラエルを弱い格好の標的と見なしました。そしてイスラエルに攻め込んだのです。しかし神様はその度に不思議なようにイスラエルを守られました。詩篇129篇はその感謝を神様に歌っています。

11月初めに終了したラグビーワールドカップは南アフリカが優勝しました。トライを決めて得点した時や、試合後優勝が確定した時、南アフリカの選手たちが神様に感謝して天を仰いでいる姿はとても印象的でした。南アフリカの選手たちは、自分たちの勝利が神様の助けによるものであると信じているのだと思いました。何か良い結果を得た時、それをどう受け止めているのかによって、私たちが何を基盤として生きているのかが分かります。もちろん、彼らがこれまで相当の訓練を積んできたことも事実です。たくさんの練習と、関係者たちの支えがあって優勝しました。しかしそれらも含めてすべては神様のおかげだと言えるようであれば、それは素晴らしい信仰だと思います。彼らは、自分の人生が神様によって支えられているのだということを証ししているのです。

私たちはどうでしょうか。自分たちの日々の生活が守られている時、それをどのように受け止めているでしょうか。あるいは誰かとても良い結果を得た時、その成功の秘訣は何であると受け止めるでしょうか。健康の秘訣は早寝早起きの習慣にあるのでしょうか。試合での勝利は地道なハードワークにあるのでしょうか。難関校に入学できたのはどれだけの時間、勉強したかで決まるでしょうか。人間的な努力は関係ないとは言いません。しかしその根底には神様の導きがあると確信している人は幸いです。

これは神様の恵みを恵みと捉えているかどうかとも関係があります。人間的な努力によって神様の祝福は獲得できません。もしそうなってしまえば、恵みが恵みでなくなります。十分祈ったから、強く信じているから、毎日聖書を読んでいるから、私たちは守られているのではありません。ただ神様のご意志一つで、私たちは守られています。神様の恵みによって守られているので私たちは信仰をもって感謝するのです。ですから信仰は常に神様の恵みの後にやってきます。信仰とは恵みを引き出すためのものではなく、恵みのゆえに信仰が引き出されるのです。信仰とは感謝だと言ってもいいのかもしれません。私たちが信じているから守られているのではなく、神様が守って下さるので私たちは信じて今日を歩むことができます。神様が常に変わらず、正しく、私たちを愛してくださるので、私たちはどんなときにも安心し、日々の生活に従事できるのです。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
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  • 南平教会と永井師ご夫妻(交換祈祷会)のために
  • 南大沢チャペルのために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

もしも主が私たちの味方でなかったなら

「もしも 主が私たちの味方でなかったなら。」さあ イスラエルは言え。
詩篇124:1

歴史に「もしも」は無いと言います。起こってしまったことに対して、ああすれば良かったのか?こうすれば良かったのか?と考えても、過去を変える事はできないからと言います。ある意味でその通りかもしれません。過去に対していつまでも未練を感じていると、今を生きることが難しくなります。今後どうするかを考えるためには、未練を断ち切ることも必要かもしれません。しかし過去を全く振り返らない事も、同じくらい今後を生きるのが難しくなります。経験から何も学ばなくなってしまうからです。

詩篇124篇は、過去に対して「もしも」を問いかける詩になっています。『「もしも 主が私たちの味方でなかったなら。」さあ イスラエルは言え。(124:1)』と言って、「もしも」を問いかけることをイスラエルに推奨しています。「もしも 主が私たちの味方でなかったなら 人々が敵対してきたとき そのとき 彼らは私たちを生きたまま 丸呑みにしていたであろう(124:2-3)」と言います。過去を振り返り、私たちが今生きているのは、神様が守って下さったからだという事を再認識させようとしているのです。過去を振り返ることで、私たちが普段、当たり前のように感じていることが、実は当たり前ではないと発見する事ができます。私は今、当たり前のように服を着ていますが、考えてみると、最後に自分で洗濯をしたのはいつでしょうか?「もしも」妻が洗濯をしてくれなかったら、私は今、裸で過ごしていたかもしれません。妻に感謝すべきです。過去を振り返ると当たり前があたりまえでなかったことに気づきます。神様のお働きは時に、とてもジェントリーで、私たちが全く気づかない事があります。いやむしろ、神様のお働きのほぼ全てに、私たちは気づいていないのかもしれません。「もしも 主が私たちの味方でなかったなら」詩篇124篇は問います。すでに私たちは生きていないかもしれないのです。

詩篇124篇は過去に対して「もしも」を問うことで、私たちが気づいていなかった神様のお働きに気づき、神様への感謝を捧げようと歌っています。「ほむべきかな 主(124:6)」私たちが過去の神様のお働きに気づいていなかったのであれば、私たちは何と多くの神様のお働きに対して、感謝の言葉を述べてこなかったのでしょうか。何と多くの祝福を当たり前として受け取ってきたのでしょう。改めて神様に感謝したいと思います。

その上で詩篇124篇はこの神様に信頼して歩むことができる幸いをも語っています。「私たちの助けは 天地を造られた主の御名にある(124:8)」神様は今までも、私たちを助けて下さり、多くの祝福を与えて下さいました。そしてこれからも与え続けて下さいます。ですから私たちは今後、前向きに生きる事ができます。

過去に対して「もしも」を考えることは、いつまでも未練を残すことになる可能性もあります。しかし今まで気づいていなかった主のお働きを発見する機会にもなります。主のお働きを発見できたならば、私たちは主に感謝したいと思います。そして、主に信頼し、今後を前向きに生きていきましょう。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様の愛で愛し合う

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
ヨハネ15:12

ヨハネ13~17章には、最後の晩餐での出来事が記されています。イエス様が十字架に架かられる前の晩、イエス様は弟子たちと過ごされました。弟子たちはこの後、何がおこるのか全く知りませんでしたが、イエス様はご存知でした。「イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された(ヨハネ13:1)」と記されています。イエス様は神様の愛を示すために来られた救い主です。神様が、イエス様がどれほど私たちを愛しておられるか示すために来られました。最たるものが十字架です。その十字架の意味を、イエス様は最後の晩餐の席で語られました。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」とイエス様は仰いました。世の中にいのちのよりも重いものはありません。一人ひとりのいのちは尊いもの、かけがえのないものです。つまりこの地上にある他の何物をもっても、いのちと交換できません。そのいのちを他の誰かのために使う事、それが最も大きな愛です。イエス様は私たちのために十字架に架かっていのちを落としてくださいました。私たちは自分の罪のために滅びに向かっていました。しかしイエス様が私たちの代わりにいのちを落として下さったのです。私たちが頼んだからではありません。イエス様のいのちは私たちの自由に使っていい物でもありません。イエス様が自らすすんで私たちのためにいのちを捨てられたのです。それはイエス様の私たちに対する愛です。いのちを投げ出すほどにイエス様は私たち一人ひとりのことを常に大切に思い、心にかけて下さっているのです。この愛を私たちは受け取っています。それも全く押しつけがましくありません。この愛を受け取るかどうかは、私たちの自由意志に委ねられています。クリスチャンはみな、このイエス様からの最高の愛を感謝して受け取った人たちです。

イエス様は続けて仰いました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネ15:12)」この言葉をイエス様はもう一度繰り返しています。「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます(ヨハネ15:17)」私たちはイエス様の最高の愛を受け取りました。いのちをも投げ出してくださる愛を受け取りました。イエス様が望んでおられるのは、私たち一人ひとりも、同じように互いに愛し合う事です。お互いのことを気にかけ、大切に思うことです。自分の時間を割いて他の人のために用い、時にはいのちを投げだすこともあるかもしれません。それもイエス様のように押しつけがましくなく、相手の自由意思を尊重し、十分に配慮しながら支えていくことです。

このような愛は私たちの内に初めから備わっているものではありません。イエス様が十字架に架かって下さり、私たちを愛して下さり、聖霊を送って下さったので、できることです。ですから私たちはまずイエス様の愛をしっかりと受け取り、聖霊なる神様を自分の内に招いて、神様の愛に満たされて歩みたいと思います。

お祈りの課題

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