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祈祷会メッセージとお祈りの課題

律法を持っていることを誇るか、神様を誇るか。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:23-24)

ローマ人への手紙を開きました。この手紙は、パウロがローマに住むクリスチャンに宛てて書かれた手紙ですが、内容は、ただ世間話のような内容ではなく、救いについてとてもよく説明されている内容の手紙です。

この手紙は、律法を持つユダヤ人と、律法を持たない外国人、両方を意識して書かれています。どちらも神様の救いを必要としているというのが手紙の趣旨です。律法を持っているのが正しい、律法を持たないのが正しいという事ではありません。律法というのは、神様から与えられた聖なるものです。それはパウロも同じように考えていました。さらにユダヤ人の中にはこう考える人もいました。2:17を見ると、「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、」と書かれています。つまり、律法を持っているから安心と考える人たちです。変な話、律法を行うかどうかは別として、聖なる律法が与えられたということは、神様から特別選ばれた民族だから安心ということです。例えば、日本国憲法は今大変騒がれていますが、9条があります。戦争放棄をうたっている世界でも類を見ない平和憲法だと言われています。この9条があるから日本は安心でしょうか?しかし今国内では9条の解釈もめています。つまり9条があるかどうかが重要なのではなくて、日本人が9条を守る気があるのか無いのかの方が重要だと言えます。もし日本人に9条を守る気が無いのであれば、9条はあっても無くても一緒ですね。パウロはこのことを2章で言っています。神様から与えられた律法があるから安心なのではなくて、本当にその律法を守る気があるのか無いのかの方が重要です。そして、本当に律法を守り行おうとするならば、3:20にあるように、誰一人として義であると認められる人はいません。守り切れないからです。すべてを守り行うことが出来る人は一人もいない。かえって「ああ。今日も罪だらけだった」という罪意識だけが生じるということです。

3:27でパウロは、私たちの誇りはどこにあるのか?と言っています。3章で論じられていることは、この誇りについてですね。ユダヤ人は「私たちには律法がある」と誇っていました。その点で外国人より優れていると。しかしパウロはその誇りは無意味ですと言っています。するとユダヤ人は「じゃあ、そんな律法を与えた神は不真実な方なのか?」と反論します。パウロは「そんなことはありません。神様は真実ですが、人間が律法を守らないので不真実です。」と言います。するとユダヤ人は「じゃあそんな人間の不真実さをあらわにして、自分は真実だなんてする神は不正ではないか」とこういうわけです。しかしパウロは、「そうではありません。神様が何が善であるかを示してくださらなければ、誰にも何が善であるか分からない。それくらい人間は罪深いのだ。」と言っています。パウロは徹底して、神様お一人が善であられ、人間は誇るところなど何もない罪深い存在だとしているのです。ところがユダヤ人たちは、そんな風に言われると生きる望みを失ってしまうので、何かしら自分たちの中に誇れる部分があるのではないかと食い下がっています。この気持ちは私たちも分かる気がします。しかし残念ながら、私たちには誇りとするものが何もありません。

そのような弱い人間に対して神様は、正しい人は幸せになり、悪人は地獄に落ちるというような因果応報的なやり方では誰一人救われないので、神様の一方的な恵みによって救うという方法をとられました。3:23-24にある通りです。(聖書読む)みんな罪人ですが、キリストがその罪を十字架の血によって贖ってくださいました。私たちはその救いをただ受け取るだけです。ですから私たちは神様だけを誇ります。パウロもIコリント1:31で“まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。”と書いています。神様に望みを置いて残りの週も過ごしていきましょう。

お祈りの課題

  • 改修工事のために
  • 6/5の懇談会のために
  • 南大沢チャペルのために

*昨日は、小金井教会の方々が、工事の合間に祈祷会に参加してくださいました。小金井教会の婦人会との交わりも6/30に企画されています。小金井教会のためにもお祈りしました。

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主への捧げ物

感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。(出エジプト35:21)

いよいよ幕屋の建設が始まります。幕屋は先週もみましたように、神様とイスラエルの民が出会う場所です。一般の人は幕屋の建物の中には入れませんでしたが、幕屋はいつもイスラエルの民の中心にあり、捧げものを捧げるときは、この幕屋にやってきました。

そして出エジプト35~36章を見ると、この幕屋の建物自体もイスラエルの民の捧げ物によって作られていることが分かります。この幕屋建設のために、イスラエルの人々は自ら進んで持っているものを捧げました。ある人は、飾り物、ある人は布、ある人は木の板を持ってきました。またベツァルエルとオホリアブという人の名前が出てきますが、この2人を中心に、物を作ることが出来る人は、板を切り出し、機織りをし、刺繍をほどこしました。イスラエルの民から捧げられた材料を幕屋の形に仕上げていったのです。

これらはイスラエルの民の尊い奉仕でした。36:7を見ますと、イスラエルの民は有り余るほど、捧げものを持ってきたと書かれています。モーセがもう十分足りました。捧げ物はもう大丈夫ですと言わなければならないほどでした。昭島教会でも今、たくさん捧げものを頂いて、特に掃除用品や、トイレ用品はたくさんあります。しばらく大丈夫な量がありますね。イスラエルの人々も進んでそれらの捧げものを持ってきたわけです。ここから捧げ物、奉仕について分かることがあります。これらの捧げ物はみな、神様のために持ってきた捧げ物ですが、民のためでもあるということです。先週も見ましたように、神様は人の手によって助けてもらわなければならないようなお方ではありません。イスラエルの民は、そんな神様に「感動して(21節参照)」捧げものをもってきたわけです。そしてそれらの捧げ物は、幕屋というイスラエルの民が礼拝を捧げる場所のために用いられました。ですから、この捧げ物は神様のためであり、民のためでもあります。神様への捧げ物の不思議がここにあります。

幕屋で捧げる神様への捧げ物、いけにえについては、レビ記に詳しく書かれていますが、いくつか種類があり、その中には、イスラエルの民も食べてよいものがあります。神様へ捧げたうえで、それらの一部を民も一緒に食べる捧げ物です。教会の献金や捧げ物もそういった二面性を持っています。捧げ物は全て神様への捧げ物ですが、教会のみなさんのためでもあります。今は代表的な捧げ物の形として、献金というお金を捧げる事になっていますが、昔はお金ではなく、物を持ってきました。特に多かったのが、パンと葡萄酒です。礼拝で必ず使うものだからです。またある人は他の食べ物や衣類、教会の建物を建設するということを通して捧げ物をしました。それらは神様のためですが、教会の皆さんのためでもあります。今でも掃除用品、トイレ用品は教会のため、神様のために進んでささげられたものですが、同時に教会に集ったみんなで使うものです。まあそういう一面を持っているわけですから、教会の物はみんなの物ですから、遠慮せずに使ってほしいですし、同時にみんなの意見を聞きながら使っていく必要がありますね。ともかく献金というのは、礼拝説教を聞くための受講料ではないわけですね。奉献という名前を用いている教会もありますが、一週間守られたことに感動し、感謝して神様のため、教会のために進んでささげる捧げる捧げ物です。今日私たちも神様に感動して、自ら進んで献金と祈りを捧げたいと思います。

お祈りの課題

  • 改修工事のために
  • 体の弱さを覚えておられる方々のために
  • 甲斐先生ご夫妻のために
  • 川越教会のために
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神様と出会う場所

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。(出エジプト25:8)

出エジプト記19章で、イスラエルの民はまことの神様だけを神とし、生涯仕えていくことを誓約しました。結婚の誓約のようなものです。互いに愛し合い、他の人、この場合は神ですね、とは誓約を結ばない。うわきしないという誓約です。この誓約があって後、20章で十戒が与えられました。21~23章はその補足のような戒めが与えられています。

25章からは、聖所と呼ばれる礼拝する場所の造り方が記されています。創世記から読み続けていくと、このあたりから、聖書通読が苦しくなりますね。イメージしづらいので。建築に詳しい人ならまだしも、その他の人にはなかなか苦しいですね。こういう時は、このような想像図があると便利です。イメージしやすいです。

聖所は、イスラエルの民の捧げものによって作られました。25:2には、イスラエルの民の中から心から進んでささげる人から捧げものを受け取って、それらを使って聖所を造るということが書かれています。先の話になりますが、35:29には、イスラエルの人々が進んでそれらの捧げものを持ってきたことが記されています。この捧げ物は、強制されてではありませんでした。自発的に行われたものです。またこの捧げ物は、神様とイスラエルの民の絆でもありました。神様ご自身は、パウロが使徒の働き(17:25)で述べている通り、人に仕えてもらう必要のないお方です。すべてを持っておられ、捧げものに頼る必要はありません。しかし神様が人からの捧げものを受け取るというのは、それが人と神様との絆だからです。出エジプト19章で交わされた誓約、真の神様だけを神様としますという誓約を捧げ物という行為を通して実践しているのです。

聖所も同じように神様と人とをつなぐ絆です。これもやはりパウロが言っていることですが、神様は地上のどこかに住んでいるような小さなお方ではありません。この世界のどこかに神様がおられて、あそこでは会えないけど、あそこなら会えるというような小さなお方ではなく、その全く逆で、私たちとこの世界が神様という大きな方の中に生きているのです。ですから、人の手によって作られたものの中には収まり切りません。しかし今日読んだ聖書箇所で神様は仰っています。神様はとても大きいので、世界には収まりきらないけれども、もし「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」ということです。これは私たちが本当に神様を求めるなら、あなたの望むところに神様は現れて下さるという恵みです。私たちへの配慮です。ここでもまた神様は私たち人間の自発性を尊重しています。聖所は神様と出会う場所なのです。その聖所をもし私たちが必要としていて、神様どうか私に現れてくださいと望むなら、神様はそこに現れて下さるという約束です。聖所は神様と出会うということが第一の目的ですので、その作り方もまず神様がここに現れて下さるという契約の箱の作り方から説明されています。そして順を追って、それを安置しておく聖所の建物の作り方を説明しています。

聖所の目的の中心は、私たちが神様と出会う場所を求めているかどうかということです。イスラエルの民は、60万人以上という大集団で移動していましたが、この聖所を中心にしていつも生活していました。神様がイスラエルの民の中心にいて下さいというイスラエルの民の願いでもあります。私たちはどうでしょうか?神様と出会うということ願っているでしょうか?もし願うのであれば、私たちも神様を中心に据えて生活したいと思います。

今日の祈祷課題

  • 改修工事の導きのために
  • 教団の各教会の次世代伝道、世代間交流の働きのために
  • 代議員総会のために
  • 南大沢チャペルの中高生、青年のために
  • 守谷教会のために

*今日は南大沢チャペルから、ゲストが来てくださいました。南大沢の青年、中高生の様子をうかがいましたので、みんなで南大沢のためにも祈りました。

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40年間一歩一歩

「イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。」

(出エジプト16:35)

出エジプト16章を開きました。15章はイスラエルの民の賛美です。神様が大きな御腕をもって、エジプト人と戦って勝利した。そしてイスラエル民を救って下さったという内容です。神様は紅海という海を二つに分けられ、イスラエルの民にはその乾いたところをわたらせました。ところが続いてエジプトの軍隊が迫ってきたときには、海が元に戻り、エジプトの軍隊は、海に沈んでしまいました。イスラエルの民は海を渡りながら、神様の勝利をほめたたえて、この賛美歌を歌いました。

さて、出エジプト15章の区切れ目はとても興味深い部分で、賛美歌があったかと思えばそのすぐ後、イスラエルの民はモーセに向かって文句を言っています。「飲み水が無い。」という文句です。マラという地に来たとき、そこの水は苦くてとても飲めなかったと書いてあります。すると神様が不思議な技でその水を甘くしてくださって、飲み水ができたという話です。ここで15章は終わっています。15章という1つの章の中で、イスラエルの民は一方で神様をほめたたえ、一方で文句を言っています。ころころと人の心が変わっていくさまがこの15章の1つの章の中に描き出されています。

この後、イスラエルの民は、エジプトという奴隷であった場所を離れて旅を続けるわけですが、その旅は荒野という食べ物も、飲み物も無いような場所を通り抜けていく大変なものでした。何も無いという状況は、私たち人間の心を非常によく映し出す状況であると思います。まるで、周りに何も無いので、私たちの心の中にあるものがあふれ出て周りに浸透していくかのように、何もない状況では私たち人間の心がよく映し出されていきます。イスラエルの民の心の中には何があったのでしょうか?それを神様がご覧になり、またイスラエルの民自身も自分で気づくために、神様はこの荒野を通されたのかもしれません。イスラエルの民の心にあったものは、神様への信頼であるのか?それとも他のものであるのか?ということです。出エジプト記では、15章、17章と続けざまに2回も「飲み水が無い」と言って文句を言うイスラエルの民の姿が出てきます。その間に挟まれている16章は「食べ物が無い」です。15、16、17章と続けて、「無い。無い。無い」と文句を言っているイスラエルの民の姿があります。その度にモーセは「あなたがたのその文句なんだ?あなたがたは私に文句を言っているが、それは神様に文句を言っているのだ」と言います。神様の力をエジプトを出るときに目にしたばかりなのに、ずっと神様を信頼するということができないでいるイスラエルの民の姿です。

ですが、そんなイスラエルの民を神様は守り続けてくださいました。40年の間、とても長い期間、神様は、イスラエルにマナという食べ物を与え続けて下さったのです。マナの賞味期限は1日です。明日までとっておこうと思うとマナは腐ります。不思議な食べ物です。40年間、安息日をのぞく毎日、イスラエルの民は、「今日は約束通りマナがあるか?」と思いながら外に出て、「ああ。やっぱりあった。」という体験を続けるのです。こうして少しずつ、イスラエルの民は神様を信頼できるようになりました。

私たち自身も、なかなか神様を信頼するということのできない者ではありますが、毎日の歩みの中で一歩一歩神様に近づかせていただきたいと思います。今、妻と寝る前に一緒にディボーションをしていますが、そのとき読んでいるディボーションブックがあります。その本には、毎回のように、「神様に感謝しなさい。」とあります。感謝することが信仰生活には大事だと何度も出てきます。神様に感謝するということは、日々の生活の中で、神様が働いておられるということを意識し続けるということだと思います。そうすれば、私たちの心はだんだんと神様の方に向いていきます。しかし、意識しなければなかなか神様の方に向かないのが私たちの心です。イスラエルの人々が40年間、毎日神様を意識し続けたように、私たちも毎日神様を意識し続けたいと思います。