真の主を知る

主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。
ミカ6:8

ミカ書を開きました。ミカ書は預言者ミカが神様から受けた幻を書いた書物です。ミカ書にある預言は主に、北イスラエルに向けられたものです。ミカは南ユダの王様がヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活動しました。この時代は、北イスラエル王国の末期、アッシリアに滅ぼされる時期に相当します。ミカという名前は「誰が主のようであるか?」という意味です。その名前の意味通り、ミカ書に書かれている預言は、北イスラエルの人々を、神様に立ち返らせようとしている内容になっています。

北イスラエル王国の民は、真の神様を忘れ、他の偶像を拝み、自分勝手に生きていました。神様はその背きの罪のゆえに北イスラエルを滅ぼすと仰っています。イスラエル王国が南北に分断された時、北イスラエル王国は、首都エルサレムから追い出される形となりました。首都エルサレムには神様の神殿があります。イスラエル人たちは年に何度か、神様を礼拝するために神殿に行きました。当時の北イスラエルの王ヤロブアムは自分たちの領土に神殿が無いと、いつしか国民はみな、南ユダ王国の人になってしまうのではないかと考えました。そこで北イスラエル王国の領土内に、金の子牛像を造り、これが私たちの神だと宣言したのです。こうして北イスラエルは南ユダとは違う独自の宗教体系を作り上げていきました(I列王12:26-33)。こうして北イスラエルの民は真の神様を見失うことになります。

おそらくヤロブアムは、神様とともに歩むことなど考えもしなかったのではないかと思います。真の神への礼拝を世の中にたくさんある宗教的行事の一つ程度にしか考えていなかったのだと思います。何でもいいから宗教を用いれば民をまとめる事ができると考えました。それは宗教を政治や個人的な道具としてしか見ていない事になります。宗教は神様と人がともに歩むことではなく、人が自由に心の中で営む者となりました。その結果、宗教に神は不要となりました。たとえ神様の意向に反する事であったとしても、その人が信仰的に納得すれば敬虔な宗教ということになっていったのです。神が主体ではなく、人が主体の宗教となったのです。宗教がこのように人主体になったので、倫理や道徳も個人的なものになりました。個人個人が自分の正義を振りかざし、誰を傷つけても自分が納得すれば構わないようになったのです。

神様はミカを通して言われます。「誰が主のようであるか?」「神とは誰のことか?」イスラエルをエジプトから助け、国を与え、富を与えたのは神様です。そしてイスラエルが何度神様を忘れ背いても、あわれんで助けて下さったのも神様です。その神様が何を求めておられるのか。人々は聞いているようで、聞いていません。いくら神様が話しても、自分の心で納得できなければ宗教ではないからです。口では神様を信じていると言っていても、心では自分の感覚を信じています。私たちはどうでしょうか。本当に神様の求めておられることを聞こうとしているでしょうか。神様とともに歩むことを求めているでしょうか。自分の思い描く神様像ではなく、真の神様を求めたいと思います。

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主を知り、変えられていく

神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
IIペテロ1:2

IIペテロを開きました。ペテロの手紙は第一と第二があります。いずれの手紙もいろいろな議論がありますが、伝統的にはその名前の通り使徒ペテロが書いた手紙とされています。このペテロは福音書に記されているイエス様の弟子シモン・ペテロです。ペテロはイエス様がつけたあだ名で「岩」という意味です。ローマの皇帝ネロの時代にキリスト教徒は大きな迫害を受けました。その時にペテロは殉教したと言われています。ペテロの殉教については「クオ・ヴァディス」で有名な伝説が残っています。ペテロはローマの町に宣教に行きますが、迫害の手が強まり、一度はローマから逃れようとします。すると途中の道で、イエス様が反対方向から歩いて来られ、ペテロはイエス様に「主よ。どこに行かれるのですか?(ドミネ、クオ、ヴァディス)」と聞きます。するとイエス様は「あなたが民を見捨てるなら、わたしはローマでもう一度十字架に架かりに行く」とペテロに応えます。それを聞いてペテロは覚悟を決めてローマに戻り、殉教したと言われています。自分のようなものがどうしてイエス様と同じ栄光の十字架に架かる事ができようかと、頭を下にして逆さまの十字架に架けられたと言います。

ペテロは福音書においても重要な人物で、ペテロとイエス様のやりとりで神様の真理が説き明かされていくことがたくさんあります。まさにペテロはイエス様を間近に見て、触れて、恵みを存分に味わった人と言えます。イエス様によって心も体もすべてを変えられた人です。そのペテロは教会の人々をイエス様の愛によって深く愛していました。そして一人でも多くの人が自分と同じようにイエス様に出会い、イエス様の恵みを十分に受け、身も心も替えられて欲しいと願っていたようです。

今日は手紙の冒頭の箇所を開きました。聖書にある多くの手紙の書き出しには「神様からの恵みと栄光がありますように」という言葉が添えられることが多いです。この手紙もそうです。ペテロは「神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」と記しています。そして続けて、神と主イエス様を知れば知るほど、神様は私たちを神様の栄光によって私たちを「神のご性質にあずかる者(1:4)」として下さるという事を書いています。「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛(1:5-7)」を増し加えて下さると書いています。これらが私たちに備われば、「私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません(1:8)」と言っています。私たちは自分で自分には自信が持てないと思います。中高生のキャンプが行われていますが、中高生たちは自分が何者なのか分からなくて悩むとよく言われます。でもそれは大人になってからも同じだと思います。中高生キャンプにスタッフとして参加するたびに、自分はとても足りないものだと痛感します。それは当然と言えば当然かもしれません。私たちは人間だからです。人間は神様の力によって、ようやく立つことができる者です。だから私たちには日々、神様の言葉である御言葉に触れ、神様を知り、主イエス様からいつも「あなたを愛している」と語りかけてもらう必要があります。愛を増し加えて頂き、信仰を強めて頂く必要があります。イエス様から頑固者の「岩」と言われたペテロでさえ、たくさん迷いました。でもイエス様を知って、イエス様の愛を受け続けて変わっていったのです。私たちもイエス様から常に愛を頂き、恵みと平安を頂き続けましょう。

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律法を用いて人を裁かず

律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。
ヤコブ4:12

ヤコブの手紙を開きました。ヤコブの手紙は、伝統的にはイエス様の兄弟であるヤコブが書いた手紙と言われています。使徒15:13-21には、エルサレム会議でのヤコブの発言が記されています。このヤコブの発言によって長い議論に一応の終止符が打たれました。その事から見ても、ヤコブはエルサレムの教会において指導的な立場にあった人物のようです。ヤコブは1:1にあるように「離散している12部族」に対してこの手紙を書いています。外国に住んでいるイスラエル人たちに向けられてこの手紙は書かれました。

使徒15章のエルサレム会議の議論の争点は、救われた異邦人にモーセの律法を守らせるか、特に割礼を受けさせるか否かという問題でした。パウロは律法を守ることで救われるのではなく、信仰によって救われるのだと主張していました。しかしパリサイ派でイエス様を信じた人たちは、律法を守るように外国人たちにも教えるべきだと主張しました。最終的にエルサレム会議は救われた外国人たちには、割礼は強要しない、ただ偶像と不品行を避けるようにと教えようという事になりました。信仰と行いについての議論は、とてもややこしい問題です。一口に割り切れるものではないかもしれません。というのも信仰は行いとなって現れるからです。そして他の人には信仰は見えず、行いのみが見えるからです。ヤコブの手紙の主題はそこにあるように思います。

ヤコブは手紙の中で、行いの無い信仰は死んだも同然であると断言します(2:17)。イエス様を信じている、イエス様に従って生きていると口では言っていても、人をえこひいきしたり、愛の行いをしていないのであれば、その人は本当にイエス様を信じていると言えるでしょうか。イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。…自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか(マタイ5:44-46)」と仰っています。

ヤコブはイエス様を信じるクリスチャンたちの間で、お互いに非難し合ったり、さばきあったりしている姿を見て悲しんでいたようです。お互いにさばきあったりしているクリスチャンたちは、おそらくとても信仰熱心な人たちであったのでしょう。良く祈り、伝道熱心で、知識も豊富で人を良く教えられる教師であったのかもしれません。しかしその教会を指導する立場にあるような人たちが互いにさばきあったりしていたのです。ヤコブはそのような人たちに互いにさばきあうなら、律法を裁いているのと同じだと言います(4:11)。教える人たちは「律法にはこのように書かれているからこのように行え」と、お互いに主張していたのかもしれません。神様からの律法を大事に思っていました。しかしヤコブは言います。律法を定め、さばきを行う方はただひとりです。神様は私たちに隣人をさばくために律法を与えられたのではありません。自分を律し、真の悔い改めに至らせるために律法を与えられたのです。間違った律法の用い方は、律法をないがしろにしているのと同じです。

信仰は行いとなって現れるので、ある人の悪い行いを見て、その人の信仰に疑問を抱いてしまうこともあるかもしれません。しかし私たちにはその人の心の中までは見えません。神様がその人の心をご覧になります。私たちは互いにさばきあうのではなく、「互いに罪を言い表し、互いのために祈り(5:16)」たいと思います。お互いに罪人でイエス様の救いを必要としている者同士として、励まし合い、祈りあうことを神様は求めておられます。

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神様の御言葉の飢饉

見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。
アモス8:11

アモス書を開きました。アモス書は預言者アモスが神様から語られたことを記した書物です。アモスはエルサレムの南にあるテコアという町の出身で、もともとは預言者ではなく牧者でした(7:14)。ユダの王がウジヤの時代、イスラエルの王がヤロブアム2世の時代に神様からの召命を受け、預言者としての活動を始めました(1:1)。神様からの言葉は主にイスラエルに対するものでしたが、いくつかの周辺諸国にも向けられています。ヤロブアム2世の時代、北イスラエルと南ユダは領土を回復しました(II列王14:25)。イスラエルの民の罪によって領土を失い、苦しみの中にありましたが、神様が回復させて下さったのです。しかしアモス書を見ると、イスラエルの民の目は完全には神様に向き直っていなかったようです。

II列王記14:27には、神様がイスラエルを滅ぼしつくすことを願っておられない事が書かれていますが、アモス7:1-6においても、神様がイスラエルを滅ぼしつくしてしまう事を願っておられない事が分かります。神様はイスラエルに向けての災いの幻をアモスに見せました。1-2節では青草を食いつくすいなご、4節では焼き尽くす火をアモスに見せています。それを見たアモスはその災いが下されるとイスラエルは生き残る事ができないので、どうかお赦しくださいと神様に懇願します。神様はアモスの言葉を聞き、災いを思い直されました。しかし7-8節で、下げ振りによる幻をアモスに見せることで、イスラエルの民の罪が見過ごせない程であることを示しています。下げ振りは建物を建てる時に、測量で使うための道具です。神様が下げ振りをイスラエルに下げ、イスラエルの罪を測った結果、到底見過ごすことができないところまで来ているという事です。イスラエルの罪はそれほどまでにひどいものでした。イスラエルの民は「弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。子とその父が同じ女のもとに通って、わたしの聖なる名を汚して(2:7)」いました。神様はイスラエルに対して終わりの日が来ると宣言します(8:2)。

8:11で神様はイスラエルの罪のゆえに、飢饉を送ると言います。それは食べ物が無くなるという飢饉ではなく、神様の御言葉が無くなるという飢饉でした。創世記には神様がその言葉によって世界を形作られたことが記されています。世界は神様の御言葉によって建てられています。ですから神様の御言葉を求めることが私たちが生きるために必要不可欠なことです(5:6-8参照)。しかし神様は神様の御言葉の飢饉を送ると言われました。それは私たちのいのちの危機です。たくましい人も、若い人も、神様の御言葉を見つける事ができなければ、倒れて起き上がる事ができません。神様の御言葉はあっても無くても良い物ではなく、必要不可欠なものです。イスラエルの他の預言者たちは、アモスに対して預言するなと言いました(7:12-13)。それはアモスがイスラエルにとって都合の良い事を言わず、悪い事を預言したからです。しかしアモスだけが真の神様の御言葉を語っていました。アモスが黙れば、神様の御言葉を聞くことはできなくなります。私たちは神様の言葉を求めているでしょうか。それが例え自分にとって都合の悪い事あっても、私たちには神様の御言葉が必要です。神様は私たちを滅ぼしつくすために言葉を投げかけるのではなく、悔い改めに導き、神様に立ち返る事ができるように御言葉をかけて下さいます。神様の言葉に素直に聞き従い、神様の御言葉によっていのちを頂きながら歩みましょう。

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敵を愛する

私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。
ピレモン6

ピレモンへの手紙を開きました。ピレモンへの手紙はパウロからピレモンへ宛てた個人的なお願いの短い手紙です。ピレモンは手紙の内容からすると、パウロと出会い、キリストの救いを受け入れ(19節)、その後、自分の家を開放して教会を建てあげるようになりました(2節)。キリストを述べ伝える者として、パウロから同労者(1節)と呼ばれるほどにまで熱心に働いていたと思われます。ピレモンにはオネシモという奴隷がいました。しかし何らかのトラブルがあり、オネシモは主人であるピレモンに損害を与えた上で、逃亡したのです(18節)。その後オネシモはローマにいたパウロの所にたどり着き、そこで悔い改めてパウロのお世話をするようになりました。当時、主人から逃亡した奴隷は、発見され次第、死刑となることが決められていたようです。パウロはオネシモをピレモンの許に返すべきかどうか迷いましたが、オネシモの主人はピレモンですので、送り返すことに決めたようです。そして主人であるピレモンに、奴隷オネシモに対して寛大な処置をするようにお願いの手紙を書いたのです。コロサイ人への手紙を見ますと、オネシモはティキコと一緒にコロサイを訪れたことが記されています(コロサイ4:8-9)。おそらくオネシモはローマを出発し、コロサイを経由して、ピレモンの所へ帰ったのでしょう。

クリスチャンの愛の行いは、嫌いな人と向き合った時、最大限に試されるのではないかと思います。自分の好きな人、気に入っている人に対して、愛の行いを示すことは比較的容易かもしれません。よく知らない人、初めて会う人に対して愛の行いを示すことは大変なことです。宣教や伝道が大変なのは、相手を良く知らないので、ゼロから信頼関係を築かなければならないからです。しかし最も大変なことは、良く知っていて、それゆえに苦手と思っている人、嫌いだと感じる人に対して、愛の行いを示すことではないでしょうか。ゼロから関係を築くのではなく、マイナスになってしまっている関係をプラスにしていくことは本当に大変であると言えます。しかしイエス様は、「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい(ルカ6:27)」と仰います。そしてイエス様ご自身がイエス様の敵であった私たちのために十字架に架かって救いを与え、愛を示して下さいました。クリスチャンはイエス様の愛を受け取って、同じように敵を愛する者となるように招かれています。

ピレモンとオネシモの関係はどうだったでしょうか。間違いなく破綻していたと思われます。しかしパウロは全てを承知の上で、この手紙を書きました。パウロはよく手紙の冒頭で、4節のような相手のことを感謝している事、いつも祈っている事、また5節のような相手の信仰や愛の行いをほめる言葉などを書きます。私たちも手紙の冒頭では、相手への感謝や褒める言葉を書くかもしれません。しかしそれが単なる定型句では終わらないでほしいことを神様は私たちに願っておられるのではないでしょうか。「キリストのためになされている良い行い(6節)」には数多くありますが、そのすべてを私たちは知っているでしょうか。比較的容易な部分だけではなく、最も大変な部分も知ることで、私たちの信仰は初めて生き生きとしたものとなるのかもしれません。この手紙を受け取ってピレモンはオネシモに対してどう接したのか、それは分かりません。しかし私たちもこの手紙を自分に宛てられた手紙として受け取りたいと思います。自分の敵をどう愛していく事ができるのか、神様を仰ぎながら考えたいと思います。

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