赦しを請う

主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。
哀歌5:21-22

 

哀歌に入りました。哀歌は「エレミヤ哀歌」とも呼ばれます。70人訳聖書には、バビロニアによってエルサレムが陥落し、バビロン捕囚が始まった時に、エレミヤがこの哀歌を歌ったというような説明が書かれているからです。旧約聖書でもエレミヤ書の次に哀歌が並んでいますが、歴史の順番から言っても、この順番が良い位置なのかもしれません。エレミヤは南ユダ王国で活動した預言者です。神様がバビロン捕囚を計画されている事を人々に告げ知らせました。ユダヤ人たちは真の神様に仕えることを止め、他の神々や、諸外国の力を頼るようになりました。その結果、神様はバビロン捕囚を決めたのです。しかし人々は、エレミヤの言うことを信じず、他の預言者たちはエレミヤと逆のことを語りました。最終的にはエレミヤの言葉の方が正しく、エルサレムの町は攻め落とされ、徹底的に破壊されました。崩れ行く町を見て、苦しみ殺されていく人々を見て、エレミヤは嘆いています。自分の方が正しかったからと言って勝ち誇ることは出来ません。苦悩の言葉を語り、迫害を受け、自身の言葉の通りになって、また苦悩しているエレミヤの様子が伝わってきます。

エレミヤはこのような悲惨な結果になったのは、自分たちの罪のゆえであると、ユダヤの人々を代表して嘆きます。1:18にあるように「主は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった」のです。神様はユダヤの人々との契約を守り、祝福を与えていました。しかしユダヤの人々は契約を破り、神様を捨てて罪をおかしたのです。そして今、エレミヤは神様に伺いを立てています。神様の前に自分たちの罪を悔い、赦しを求めています。そして可能であれば、もう一度神様の民として、神様と共に歩む事が出来ませんでしょうかと伺っています。「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ(哀歌5:21-22)」ここには、人の罪と神様の赦しの本質が描かれているように思います。罪をおかしたのは人間です。ですから赦す、赦さないは、人間の自由にはできません。赦されなかったとしても、文句は言えないのです。キリスト教会では、「罪を告白すれば赦されます」と教えますが、それは自動販売機にお金を入れればジュースが買えるというようなものではないのです。赦す、赦さないは、人が罪を告白したかどうかにかかっているのではなく、神様の判断なのです。ですからエレミヤは「あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ」お赦し下さいと語ります。

ユダヤの人々は何十年にも渡って神様を拒み続けました。私たちも自分の罪を振り返ると、決して赦して頂けないのではないかと思います。しかし「主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。主は いつまでも争ってはおられない。とこしえに 怒ってはおられない(詩篇103:8-9)」お方ですから、感謝します。神様の恵みのゆえに、赦されて、新しい日々を歩めていることを感謝します。

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キリストにすべてを知って頂く

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
ピリピ4:6

 

ピリピ人への手紙を開きました。ピリピ人への手紙は、パウロがピリピ教会に宛てて書いた手紙です。パウロは晩年、ローマで軟禁生活状態にありました。その頃、ピリピ教会は、エパフロディトという人に贈り物を託し、パウロに届けたようです(4:18参照)。この手紙はエパフロディトがピリピ教会に戻る際に、パウロが感謝の気持ちと共に書き記したものです。新約聖書にあるパウロの手紙は、厳しい口調の者が多いですが、このピリピ人への手紙は、割と穏やかな口調の、感謝の手紙となっています。

パウロは、当時、投獄され、軟禁生活をしていました。ですから、満ち足りた生活を送っていたのではありません。また自分の死が近いことをなんとなく悟っていました。死を前にしてパウロは、改めてクリスチャンの持つ希望について考えています。パウロにとって「生きることはキリスト、死ぬことは益です(1:21)」と語ります。死は人を絶望に追いやるものです。なすすべなく、後戻りもできず、あっという間にすべてを奪われるもの、それが死に対する人間の印象です。恐怖を覚えます。しかしパウロは、キリストに出会ってすべてが変えられました。すべてが変えられたという事は、生きる意味も、死ぬ意味も変わったという事です。パウロはこの地上生涯を終えたら、絶望なのではなく、キリストと共に永遠のいのちを生きることができると実感していました。早くキリストの許へ行きたいと思う程で、死というのはその通過点にすぎません。しかしこの地上生涯を長く続けられるのであれば、その分、多くの人に同じキリストという希望を教えことができるので、それも良いことだと思っていました。パウロは生きることも、死ぬことも、どちらもキリストに委ねてしまっています。自分では選べないし、選ばない。キリストが良きに計らってくださると信じているから希望なのです。

ですからパウロは言います。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」確かに地上生涯には困難もあり、辛いこともあります。何がおこるか予測できません。しかしキリストは全てご存知で、全てを導いて下さいます。だから私たちは自分の気持ちを素直に、キリストに祈り伝え、後はお委ねして任せましょうとパウロは言います。良いことも、悪いことも、願いも、愚痴も、何でも話し、後は神様の導きに期待しましょうと言います。「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(4:7)」パウロへ贈り物を届けたエパフロディトは、パウロの所に到着後、どうやら大きな病気にかかったようです。もしかしたらそのまま死んでしまうかもしれない程でした(2:25-30参照)。その知らせを聞いて、ピリピ教会の人々は心配しました。パウロも文字通り思い煩ったのだと思います。しかし、神様は悲しみに悲しみを増させまいと、エパフロディトを回復させてくださいました。神様の導きは私たちの幸せをねがってのものです。死も生も、私たちのためのものです。パウロはこの経験から実感をもってこの御言葉を語っていると思います。私たちも、何事もまず神様にすべてを祈り伝え、委ねて、思い煩わないようにしたいと思います。

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平安を語る預言者

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29:11

 

エレミヤ書には、エレミヤ以外の預言者の言葉が多く登場します。多くの場合、それらの預言者は神様の言葉をまっすぐに語らない偽預言者として登場します。神様はそのような預言者たちは自分が遣わしたのではないとまで仰っています。エレミヤ書は偽預言者の言葉と、真の神様の言葉が錯綜するので、読んでいる私たちは混乱します。おそらく当時のユダヤの人々も混乱したことでしょう。誰の言葉を信じればいいのか分からなくなってしまいます。

神様は23:16でこう仰っています。

万軍の主はこう言われる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは主の御口からではなく、自分の心の幻を語っている。彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言い、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」

偽預言者たちは神様の言葉ではない平安を語っていました。実際は平和ではないし、神様の計画ではバビロン捕囚が確定していたのですが、「神様はあなたに平安を与えられる」と言っていました。誰でも戦争よりは平和の方が安心します。偽預言者たちは真の神様の言葉に聞くのではなく、人間の欲求に従って語っていました。しかし神様の本当の計画は別にあったのです。

エレミヤはそのような預言者たちに対して28:9のように述べます。「平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」預言者の言葉の通りになれば、その預言者は確かに神様から遣わされた預言者であると述べています。実際にはバビロン捕囚が行われ、多くのユダヤ人たちは平安ではなく、戦争で苦しむことになります。平安を語っていた預言者たちは偽預言者だったということになります。エレミヤの言うことは確かに辻褄が合っています。しかし私たちは事が起こってから判断するのでは、遅すぎるのではないかと感じます。

エレミヤは29章でバビロン捕囚に連れていかれた民に手紙を送りました。29:11はその手紙の中の一節です。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」神様は、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている」と仰います。しかし神様の計画は、偽預言者も多く、正確には私たちに伝わらないかもしれません。私たちがすべきことは計画の全容を知る事ではありません。計画を立てておられる主に信頼することです。例え計画の全容が分からなくとも、分からないなりに神様に祈り、後のことを委ねることです。極端な話ですが、もし私たちが神様の計画の全てを把握できたら、信仰は要らないことになります。信じても信じなくても、そうなるからです。私たちが信じる対象は、神様の計画ではなく、神様ご自身です。今日も神様を信じて、お祈りしましょう。

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厳粛な神様の言葉

そこであなたは、同行の人たちの目の前でその瓶を砕いて、彼らに言え。『万軍の主はこう言われる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。
エレミヤ19:10-11

 

預言者エレミヤが活動した時代は南ユダ王国の末期です。神様は南ユダ王国をバビロニアの手に渡すことを固く決めておられ、それが起こるのが目前に迫っていました。エレミヤは「ユダの人々をバビロニアの手に渡す」という神様の言葉をストレートに語らなければならなかったので、多くの同胞のユダヤ人から嫌われ、迫害を受けました。20:2には祭司パシュフルに捕らえられ、打たれたことが記されています。エレミヤは神様の言葉を正確に伝えるという正しいことを行っているにも関わらず、悪者のように刑罰を受けていました。20章にはそのエレミヤの悲痛な叫びが記されています。20:14以降には「私の生まれた日は、呪われよ」という自分は生まれなければ良かったのではないかという言葉が記されています。尋常でい困難を受けたヨブも3章で同じようなことを語っています。もしかしたらエレミヤはヨブに自分を重ねていたのかもしれません。

南ユダの王はヨシヤ王の後、目まぐるしく入れ替わります。エホアハズ(シャルム22:11)が3ヶ月、エホヤキム(22:18)が11年、エホヤキン(エコンヤ22:24)が3ヶ月と10日、ゼデキヤが11年で南ユダ王国は陥落します。神様はこのようにして南ユダ王国を破壊することを決めていました。神様はそれを示すためにエレミヤに町の門のところで、焼き物の瓶を砕いて示すように言います。焼き物の瓶は一度壊れると、元には戻りません。パズルのピースのように元の形に復元できても、穴はふさげないので前のようには使えません。この砕けた瓶を通して、神様は南ユダ王国に対する裁きの確実性と恐ろしさを示しています。

しかし神様は神様が選んだイスラエルの民を完全に滅ぼしてしまおうとはされませんでした。一つ前の章の18章では、神様はエレミヤを陶器師が粘土を使って器を制作しているところを連れて行かれます。陶器師は一度器の形を仕上げますが、気に入らなかったのか、もう一度粘土を練り直して器を作り直しました。神様はエレミヤに言います。「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか(18:6)」神様は南ユダ王国を破壊することを決めていましたが、それはもう一度、イスラエルの人々を練り直すためでした。バビロニアがユダの人々を捕囚の民として連れて行くことも、神様の計画のうちに含まれているのです。22章には、シャルム、エホヤキム、エコンヤの王たちに災いが預言されています。どれも悲しい預言です。しかしエコンヤに対する預言には、バビロンの王ネブカドネツァルがエコンヤをバビロンに連れて行くことが書かれています。エコンヤはエルサレムに帰ることは出来ませんが、その地で生き延び、彼らの子孫は再びエルサレムに帰ることになります。そしてもはやイスラエル王国としての王座につくことはありませんが、ダビデの血筋は絶たれず、その子孫としてイエス・キリストが生まれることになります。この時すでに神様はそこまで計画をなさっているのです。神様の言葉はどのような言葉であっても、必ず語られた通りになります。人間はその計画の全てを見通すことは出来ません。しかし神様が私たちに対する愛をもって計画を立てておられることを信じたいと思います。

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他に類のない神

主よ、あなたに並ぶものはありません。 あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。
エレミヤ10:6

 

旧約聖書エレミヤ書に入りました。エレミヤ書は南ユダ王国の晩年、バビロン捕囚に向かう時期に、預言者エレミヤが神様から言葉を受けて語ったものです。エレミヤは書記官バルクと行動していたことが書かれていますから、エレミヤが語り、バルクが記したと考えられます。エレミヤ書は必ずしも年代順に並んでいませんので、少し読みづらい点もあるかもしれません。エレミヤ書で語られている内容は、真の神様に立ち返ることです。ユダの人々が偶像崇拝から離れ、弱い者を虐げず、公正を行う事です。この点についてエレミヤは多くの人を非難し、特に王や祭司、他の預言者たちと真っ向から対立したので、多くの迫害を受けることになりました。このためエレミヤは苦悩の預言者というイメージが強い人です。

10章には、真の神様と偶像の対比が書かれています。ユダの人々は、当時、パレスチナで熱心に信仰されていた神々を拝んでいました。聖書の語る真の神様だけを信じると言いながら、他の神々も取り入れて熱心に信仰していました。神様はユダの人々にそれは裏切り行為であるということを語っています。またそれらの偶像がいかに力のない神々であるかを語っています。それらは「木工が、なたで作った物(10:3)」にすぎず、「銀と金で飾られ(10:4)」美しいのですが、「釘や槌で、ぐらつかないよう打ち付けられ(10:4)」なければ自分を支えることもできません。また「ものも言えず、歩かないので、運んでやらなければならない(10:5)」ものです。偶像とは神々であると人々は言っていますが、そこらの木片と同じであるという鋭い批判を投げかけています。ですから「そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ(10:5)」と言っています。

それに対して真の神様は、他に並ぶもののないお方です。聖なる神様とよく言います。「聖なる」とは、この世のどんなものとも違うという意味です。聖なる神様は世界の始まる前からおられました。そしてこの世界の全てを造られました。私たちも生活に必要な物をいろいろと作りますが、私たちが作った物が、私たちと全く同じになることはあり得ません。陶芸家は自分の個性を写した魂のこもった作品を作りますが、作品は陶芸家ではありません。作った方(創造者)と、作品(被造物)は根本的に違います。聖なるとは、世界を創られた神様(創造者)と、この世界のすべてもの(被造物)とは根本的に違うという事を意味しています。ですから真の神様と偶像は根本的に違うのです。

真の神様はこの世界を創られたのですから、すべての事をご存知です。そして私たちにとって良いもの、良いことを備えて下さるお方です。「地に恵みと公正と正義を行う(9:24)」方です。ですから私たちは偶像を恐れることなく、真の神様だけを信頼して歩むことができます。神様は神様を信頼する人を大いなる力によって守り、導き、助けを与えて下さいます。主に信頼して、私たちの抱えていることを神様に打ち明け、神様の導きを待ち望みたいと思います。

Michelangelo [Public domain or Public domain]
ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂天井画のエレミア

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すべてのものを集める神

時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
エペソ1:10

 

新約聖書のエペソ人への手紙に入りました。エペソ人への手紙はパウロが書いた手紙です。手紙の内容から、この時、パウロはローマで囚人となっていたと考えられます。宛先は、タイトルを見るとエペソ人への手紙となっていますが、パウロはこの手紙をエペソの教会以外の他の教会にも回して読んでらえるようにと考えていたようです。ですので手紙の内容も、一つの教会の個人的な内容というよりは、キリスト教の根幹にかかわるような一般的な、重要な事を記し、注意と励ましを与えています。今日の私たちにとっても、教えられることの多い手紙です。

パウロは手紙の書き出しで、パウロは自分の事を「キリスト・イエスの使徒パウロ」と紹介し、エペソ人々については「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たち」と呼んでいます(1:1)。どちらもキリスト・イエスのものであることを語っています。そしてこのキリストが自分たちに何をして下さったのか、改めて語っています。パウロは自分の事をキリスト者と呼んでいましたし、エペソ教会の人たちも自分たちはクリスチャンと思っていたでしょう。そのキリスト者、クリスチャンとはさて一体、何者であったのか、改めて語っています。キリスト者、クリスチャンは、神様がキリストにあって選び出して下さった者たちです。神様はキリストの十字架によって、私たちを罪から救い出し、永遠の滅びから、永遠のいのちへと移してくださいました。それは私たちがそうされるに相応しかったからではなく、ただ神様の恵みによるのです。

神様の恵みは、私だけに与えられたものではありません。私たちに与えられたものです。神様は罪の中にいた一人ひとりを救い出して、キリストの体である教会に集めて下さいました。ですから教会には本当にいろいろな方々がいます。神様の恵みは年齢、性別に左右されません。いろいろな方々がいますが、共通しているのはみんな、神様の恵みによって、キリスト・イエスにあって召しだされた人たちであるということです。教会はいろいろな方々がいらっしゃるので、時に課題も生じますが、恵みもたくさん与えられています。自分だけでは知りえないこと、できないことも、教会では分かち合う事ができます。一人ひとりが持っている個性、賜物がたがいに生かされて、分かち合われていくことが神様の目的です。一人ひとりが個性、賜物を分かち合うことで神様の栄光が表されていくのです。

また今でもすでに教会にはいろいろな方々がいらっしゃいますが、神様はさらに多くの人がまだ神様の救いを受け取っていないこともご存知です。神様はもっと多くの方々を召しておられます。こうしてこのちのすべてのものがキリストにあって集められる時、私たちには想像もつかないようなとてつもない出来事ですが、その時にやっと神様の栄光の一部分が表される事になります。それほどに神様の懐は広く、深いのです。「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです(1:23)」そのような恵み豊かな神様が私たちを罪から救い出し、常に見守り、豊かな交わりのある教会に入れて下さっていることに感謝したいと思います。そして一人ずつでもこのキリストの交わりに加われる方が起こされるように、また今、教会にいらっしゃる方々が守られるように、祈りたいと思います。

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神様に集中して祈る

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。──主の御口がそう語られる。
イザヤ58:13-14

 

イザヤ書後半は、神様からの慰めと癒しのメッセージが語られています。イスラエルの民は長年、うわべでは神様に仕えると公言してきましたが、心のうちでは神様を敬っていませんでした。他の偶像を拝み、外国を頼りにしてきました。神様はイスラエルの民からそのように裏切られ続けましたが、57:18にあるように「彼の道を見たが、それでもわたしは彼らを癒やす」と仰っています。主は怒ってイスラエルの民を戒めましたが、いつまでも怒ってはいないお方です。自分の罪を認め、悔い改める者には赦しと癒し、そしてきよめを与えて下さるお方です。

神様が私たちを赦し、癒し、きよめて下さるので、私たちは自分の罪に向き合い、それらを神様の前に差し出すことができます。もし神様が決して私たちの罪を赦さないお方であったら、私たちは裁きを恐れて、自分の罪を認めることはできないかもしれません。しかし神様が赦して、罪から救い出してくださるお方なので、私たちは自分の罪を認めることができます。

神様はイザヤ58章で、断食についてイスラエルの民に語っています。断食とは何のためにするのかという事を語っています。イスラエルの民は神様に対し58:3のように言っています。「なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。」断食は食事を全部、あるいは一部抜いて、神様に祈ることです。食事を抜くという事は大変なことですから、日常的なことではないでしょう。特別、祈りを聞いてもらいたいことがあるから断食するのです。しかし私たちは特別聞いてもらいたいことがあると、そのことにばかり目が向いてしまって神様が見えなくなることがあります。叶えて頂きたいことがあると、それが叶うまで神様は祈りを聞いてないと思い込むのです。あるいは58:3の後半のようにこうあります。「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。」これは、断食の手順さえ正しく踏めば、神様は祈りを聞いてくださる。その他の時間に何をしても構わないということです。断食の祈りの期間はお腹がすくので、イライラがつのって家族や職場の人に八つ当たりするかもしれません。そんなひどいことはしないにしても、断食するのは健康にも良いことだから、一石二鳥かもとか考えるかもしれません。それでは目的がずれてしまっていないでしょうか。神様は目に見えず、私たちのペースで生きておらず、こうすればああしてくれるという取引先のようなお方ではないので、私たちは「ただ神様の前に断食する」「ただ神様に祈る」ということがとても難しいのです。神様は、イスラエル人たちにそれは断食か?それは祈りか?と問われます。あなたの心の中にはわたしは住んでいるのだろうかと問われます。

「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。」と神様は言われます。安息日は神様を礼拝する日です。出歩くことについては時代の変化もありますが、礼拝することに変わりはありません。神様を礼拝するのであれば、神様を礼拝しましょう。神様にしっかり集中しましょう。他の思いに引かれて「自分の道を行かず、自分の好むことを求めず」礼拝したいと思います。またお祈りをする時も、「自分の道を行かず、自分の好むことを求めず」すべてを信頼できる神様に委ねて祈りたいと思います。そうすれば、それは私たちは神様だけを自分の喜びにしてると言えます。そして神様はすでに私たちの祈りを聞いて下さったと実感できるはずです。

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わたしが神だ。ほかにはいない。

あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろうに。
イザヤ48:18

 

イザヤ書は40章から少し毛色が変わります。神様の救いや癒しが強調されるようになります。そして53章には有名は「苦難のしもべ」と呼ばれ、キリストの十字架の預言とも言える言葉があります。今日は48章を開きましたが、この前後では神様が「わたしが神である。ほかにはいない。」というような言葉をたくさん語っています。これだけ言われれば、誰でも理解できそうではありますが、何回言われても心の底から納得するのは難しいテーマでもあります。

47章にはカルデア人という言葉が出てきました。カルデア人とはバビロニア人のことです。イスラエルの民はイザヤの活動の後、バビロニアに捕囚の民として連れて行かれます。バビロニアの歴史はとても古く、多くの知恵や技術がありました。それらは他の国々に誇れるほどであったことでしょう。彼らはそれらの知恵や技術や、占星術、聖書によれば「呪文」や「呪術」を用いて、自分たちの国を治めていました。今の時代からすればそれらがどれだけの科学的根拠があったか分かりません。しかし彼らにとっては、国の方針を左右するに十分な根拠のあるものでした。

しかし神様はそれらを俯瞰されてこう言われます。「このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。このわたしが手で天を延べ広げ、その万象に命じたのだ。(イザヤ45:12)」神様はこの天地の全てを造られた神様です。神様は天地を創造された時に、他の神々をお造りになったでしょうか?神様が天地をお造りになった時に、神様の知らない宇宙を支配する法則、呪術ができてしまったでしょうか?神様は言われます。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。(イザヤ45:22)」「わたしはあなたの神、主である。わたしはあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろうに。(イザヤ18:17-18)」

神様の理屈は単純明快です。しかしこの単純なことを信じることが私たちにはとても難しいことのように思えます。私自身のことで言えば、私は何か買い物をする時、損をしたくないと強く思います。少しでも良い物かつ、安く手に入れたいと思います。だから高い物であればあるほど、本当にありとあらゆる手段を使ってリサーチします。インターネットで検索する回数、数知れず。ニュース、テレビ、雑誌、何でもキーワードが目に着いたら調べます。同じような商品が無いか確認し、とにかく比較します。そういうことをすれば、納得のいく買い物ができると思っているからです。そして何か月も、時には何年もかけて一つの商品を買います。そして納得できたかと言えば、どうでしょう。確かなのは疲れ果てるということです。「助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。(イザヤ47:13)」の言葉どおりです。

世の中は知恵の多さ、技術の確かさが私たちを納得させる、平安にすると考えます。技術の発展は私たちを豊かにします。しかし平安は別の所から与えられます。いのちある者に平安を与えることができるのは、いのちとは何かを知っている者だけだからです。知恵、法則、技術、呪術にいのちはありません。私たちの平安は神様だけが与えてくれます。「わたしが神だ。ほかにはいない。」のです。私たちの心の奥底に神様を置きましょう。私たちの平安は神様の内にあるのです。

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主に拠り頼む

それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。イザヤ28:16

 

聖書通読はイザヤ書に入っています。祈祷会ではイザヤ書から離れていましたが、戻ってきました。

イザヤ書は名前の通り、預言者イザヤが神様からの言葉を記した書物です。イザヤ書に限らず旧約聖書は、言語の高等批評研究によって、バラバラだったものが組み合わされたのではないかと言われています。イザヤ書も、イザヤ以外の後年の人が書いたものも混じっているとの見方もあります。しかしここでは全てイザヤが書いたと見ていきます。

イザヤは北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされる前後で活動した預言者です。ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセと多くの王たちの治世にまたがっています。イザヤ書で語られるメッセージは、イスラエルの堕落に対する神様の勧告、さばきと回復の預言、そして救世主メシヤの預言が含まれます。聖書の中でも特にボリュームが多い書物です。イザヤ書はまずイザヤの召命(6章)のこととイスラエルへの叱責から始まり、13章以降はイスラエル周辺の国々を巻き込んで、神様の裁きのメッセージが語られています。24章辺りから再びイスラエルの国の状態に目が向けられ、36~39章辺りには列王記や歴代誌との記述と並行した歴史的な記述、とくにヒゼキヤが王だった頃の歴史が書かれています。

28:1には「エフライムの酔いどれが誇りとする冠」と書かれ、酔っ払いの王様、あるいは貴族のような国の指導者たちの姿を連想させる記述があります。神様は彼らの姿を「彼らは酒に酔っていて、真の神様の言葉を軽く見てあなどっている。」と見ています。実際にいつも酒に酔っていたかどうかは分かりません。しかし民衆の事を考えず、贅沢三昧していたのは確かかもしれません。神様の言葉をあなどっていたかどうかは、彼らに言わせれば断じてそんな事は無いと言ったかもしれません。というのも、イスラエルは真の神様の国であり、真の神様の言葉によって国の方針を定めていることを誇りとしていたからです。王の周りには祭司や預言者がたくさんいました。そして王はいつも祭司や預言者の言葉によって国の方針を決めました。しかし神様から言わせれば、王様も祭司も預言者もみな、神様の言葉を軽んじている「酔いどれ」であり、本当の神様の言葉を一切聞かず、自分たちの好き勝手に聖書を解釈していたのです。

彼らは自分たちの知恵や知識により、「死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる(28:15)」、「だから大丈夫。」と豪語していました。例え洪水が来ても押し流されない。死もよみも私たちを連れて行かないと考えていました。それに対して神様は別の一つの石を指して「わたしはシオンに一つの石を礎として据える。…これに信頼する者は慌てふためくことがない。」と言います。神様は他の方針を示して語っているのに、イスラエルの指導者たちはそれに聞こうとしませんでした。彼らの目にはそれがあまりに頼りなく見えたからです。しかし神様の「みわざは不可思議。働きをされるが、その働きは意外(28:21)」です。何を信じて、何に頼って生きているのか、それを神様は問いただしています。イザヤ36~37章にはアッシリアが攻めてきた時の事、まさに神様の不可思議な救いが記されています。圧倒的な武力を誇る軍隊から、常識では考えられない方法で神様は救い出されます。また新約聖書ではキリストがこの一つの石として紹介されています。キリストの十字架も一般常識からすれば死刑にされた罪人にすぎないかもしれません。しかしキリストの十字架は神様の救いの力なのです。目に見えるものによらず、神様だけを信じて歩みたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 8-9月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 大掃除、聖餐礼拝、宣教礼拝のために
  • 川越教会のために

御霊によって歩む

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。ガラテヤ5:6

祈祷会のお休みの週が続き、雅歌とガラテヤを開く機会が無くなってしまったので、少し予定を変えて、今日はガラテヤを開いています。

ガラテヤ人への手紙はパウロがガラテヤの教会にいるクリスチャンに宛てて書いた手紙です。ただガラテヤという地名がどこを指すのか、聖書学者の間で議論が分かれています。大きく北部ガラテヤ説と、南部ガラテヤ説があります。パウロが北部ガラテヤと南部ガラテヤを訪れた時期がずれているので、この手紙がどちらの地域に宛てられた手紙かによって、書かれた年代も変わってきます。しかし大筋としては、パウロの宣教旅行中、紀元50~55年の間に書かれたと見られています。

使徒の働きには、救われた異邦人に対して、割礼を受けさせるかどうかエルサレムで会議をしている箇所があります。これはキリストを信じて歩むことについて、何が一番大事なのかを考える会議となりました。結果的には、救われるためには割礼を受ける必要はない、救いはただ神様の恵みによるとなりました。ガラテヤ人への手紙は、教会の中で異邦人に割礼を受けさせるべきかどうか問題になっていた時に、パウロが書いた手紙です。ここには、私たちがキリストを信じて歩むことについて、パウロがどう考えていたのか、詳しく記されています。

パウロはまず律法の行いによってはだれも義と認められないと言っています(3:11参照)。律法は神様から示された神の民として歩むべき姿が記されています。しかしその律法を完全に行うことができる人はいません。それほどに人は罪深く、弱い存在です。律法を行うことによって自分を正しいとすることは不可能なのです。私たちが義と認められるのは、ただ神様からの一方的な恵みによります。私たちが良い行いを下からではなく、キリストの十字架の贖いのゆえに、神様は私たちの罪を処罰してくださったのです。ですから私たちはキリストは私たちの罪のために死んでくださったと信じる時、私たちは義と認められるのです(2:16参照)。私たちは自分の行いや力ではなく、神様の力、働きによって救われるのです。

ですから今後私たちがどう生きればいいのかについて、パウロは5:16でこう言っています。「御霊によって歩みなさい。」御霊とは神様の霊です。神様は救われた私たち一人ひとりに、神様の霊である御霊を与えてくださいます。御霊は神様の霊ですから、神様が私たちにどんな生き方を望んでおられるかよくご存じで、一歩一歩教えて下さいます。その御霊の仰る通りに歩みなさいとパウロは教えているのです。律法をユダヤ人に与えられたのも神様です。律法には神様が人間はどのように生きればよいか書かれています。しかし今は、その律法を書かれた当事者が、私たちの内側に住んでくださるという恵みが与えられています。ですから私たちが御霊に従って歩むなら、私たちは自ずと律法を全うすることにもなります。むしろ律法には書ききれなかったことも、私たちに教えて下さるかもしれません。

パウロにとって律法は聖なる養育者です。私たちに良いこと、悪いことを教えて下さいます。だから聖書を学ぶことはとても良いことです。しかし私たちは律法の行いを頼りに生きているのではありません。律法を与え、実生活を導いて下さるキリスト、神様を信じて歩んでいくのです。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 8-9月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 南平合同交流会、大掃除のために
  • 女性リトリートのために
  • 守谷教会のために