聖霊による再生と刷新の洗い

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。
テトス3:5

 

テトスへの手紙を開きました。この手紙はパウロからテトスに宛てて書かれた手紙です。テモテと同じく、テトスもパウロの忠実な弟子でした。1章の内容からパウロはクレテ島で伝道し、教会が形造られましたが、何らかの事情で最後まで働きを続けることができませんでした。そこでテトスをクレテの教会に残し、パウロの奉仕の続きを担ってもらいました。パウロはクレテに残ったテトスに手紙を送り、パウロのやり残した奉仕、教会のリーダーとなる長老、監督を選ぶことと共に、教会の兄姉を立派なクリスチャンとして育てていく事について書いています。

クレテの教会の人々がどのような人々であったのか、この手紙から推測しますが、あまりよく書かれていません。1:12には「クレテ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」と書かれています。どの程度のことを言っているのか分かりませんが、良い評価ではありません。パウロはクレテの教会の人々が、イエス・キリストを信じて救いを受けた後もなお、この評価のままであると見ていたようです。しかし2:14にあるように「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」私たちは悪い者でしたが、神様は私たちを良い者とするために、私たちを救って下さいました。イエス様を信じて救いを受け入れるという事は、神様が私たちを良い者へと変えて下さるそのプロセスを受け入れるという事です。

テトスへの手紙に置いて、パウロは特に長老や監督といった教会のリーダーたちのことを書いています。良い者に変えられる恵みは、長老や監督たちだけに与えられる恵みではありません。すべてのクリスチャンに与えられています。また、クレテの教会の人々だけではなく、私たちにも与えられる恵みです。考えてみれば今の日本も、この手紙に書かれているような状況かもしれません。3:3には「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。」と書かれています。最近の日本はとても個人主義的で、言論の自由を盾に言いたいことは何でも自由に言ってもいいかのような風潮があります。ヘイトスピーチと呼ばれる物が多く存在し、お互いがお互いを嫌いと言い合い、憎しみの連鎖が途切れることがありません。しかしイエス様は「ののしられても、ののしり返さず…十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ(Iペテロ2:23)」ました。嫌われても、その方のために救いを与えて下さるお方です。私たちはその方の救いを受けました。キリストの血は私たちの罪を赦し、心をきよめ、憎しみの連鎖から救う事ができます。ですからパウロがクレテの教会の人々に勧めているように、私たちも「聖霊による再生と刷新の洗い(テトス3:5)」を求めたいと思います。神様にこの心を赦し、きよめて頂き、憎しみあうのではなく、「慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望む(テトス2:12-13)」者とならせて頂きましょう。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 聖餐礼拝、50周年記念感謝会、記念誌のために
  • 聖書塾のために
  • 南平教会のために

あわれまれない者をあわれむ

 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。
ホセア10:12

ホセア書に入りました。ホセアは北イスラエル王国で活動した預言者です。当時の北イスラエル王国の王様の名前はヤロブアムと記されていますが(1:1)、これはヤロブアム2世のことであると考えられます。北イスラエルの王はヤロブアム2世のみ記されていますが、ヤロブアム2世よりも後の時代に南ユダの王となったヒゼキヤ王の治世にも活動したことが記されています。ヒゼキヤの治世(722BC)に北イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされているので、ホセアは北イスラエル王国の最後の時まで活動していたかもしれません。

ホセア書は神様の確かなさばきと、それ以上に深い愛情が示された書物です。ホセアは神様からの指示を受け、ゴメルという女性と結婚します。ゴメルはホセアとの結婚生活の間に3人の子どもを産みます。ホセア書は長男のイズレエルが生まれた時には、「彼に男の子を産んだ(1:3)」と記しますが、その後、長女と次男の誕生の時には、ただ単調に「女の子を産んだ」、「男の子を産んだ」と記し、どこかよそよそしさが感じられます。子どもの名前も「ロ・ルハマ(あわれまれない者)」、「ロ・アンミ(私の民ではない)」など、まるでホセアの子どもではないかのように語られます。ゴメルは3人の子どもを産んだ後、ホセアの許を去ります。そして他の男性を求めて、文字通り「姦淫の女(1:2)」となってしまいます。しかし神様はホセアに「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい(3:1)」と言われます。ホセアは自分の許を去った妻ゴメルを探しだして、もう一度夫婦としての生活を始めます。神様はホセアの結婚生活を通して、神様に愛されながらも、神様から離れ他のものを愛しているイスラエルに対するメッセージを送っています。イスラエルの罪は夫を裏切ったホセアの妻のようにひどいものですが、神様はイスラエルを再び愛そうと招いておられるのです。2:23にはこう書かれています。『わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者(ロ・ルハマ)をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者(ロ・アンミ)に「あなたはわたしの民」と言い、彼は「あなたは私の神」と応える。』神様はご自分を裏切った者の罪を裁きますが、さらに深い愛情をもって愛そうとなさる神様なのです。

イスラエルは真の神様に仕える民となると契約をしましたが、神様を裏切り、他の神々に仕え、諸外国に仕え、自分たちの力と知恵だけに頼ってきました。北イスラエル王国は最終的にアッシリヤによって滅ぼされてしまいます。しかし神様はイスラエルの人々が完全に滅ぼされてしまう事を望んでいない事がホセア書を読むとよく分かります。「イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか(11:8)」と神様は仰り、ホセアが生涯悩み苦しむことをご存知の上で、ゴメルとの結婚生活をさせます。それほどまでに神様は一人ひとりを大事に思っておられ、一人ひとりの罪の深さに悩み、嘆いています。イエス様の十字架は罪の悩みの深さと、神様の大きな愛を表していますが、ホセア書もその両方を表しています。10:12は、このような神様の愛を知った今こそ、イスラエルは神様に立ち返り、神様を求める時だと語ります。再びホセアの許に帰ったゴメルがずっとホセアの許に留まるように、イエス様の十字架によって神様の許に連れ戻された私たちも、神様の許に留まり続けたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 聖餐礼拝、50周年記念感謝会、記念誌の準備のために
  • 教会運営会議、聖書塾のために
  • 青梅教会のために

神様を求め続ける

けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
IIテモテ4:5

IIテモテの最後の章を開きました。テモテへの手紙はパウロが後輩のテモテに宛てて送った手紙です。パウロは2回目の宣教旅行の初めの頃にテモテと出会います(使徒16:1-4)。それ以来、テモテはパウロの働きに加わり、大きな役割を担います。パウロにとってテモテは大事な弟子の一人でした。パウロは自分の死期が近い事を知り、テモテに手紙を書きます。それがテモテへの手紙です。困難な時代にあって、キリストの証人としてこれからも働きをなしてほしいと手紙の中で記しています。まさに師匠から弟子への激励の手紙と言えるのではないでしょうか。

パウロとテモテは共に、神様の御言葉を宣べ伝えるためにたてられてた伝道者でした。ですから手紙の内容は伝道者としての生き方について、教会を牧会することについて多く記されています。しかし伝道者でない方々にとっても、キリストへの信仰を堅く保ち、キリストの香りを放って生きることについて多く教えられると思います。「あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。(IIテモテ4:5)」と記されています。これは伝道者のみならず、すべてのクリスチャンにも同じことが言えるのではないでしょうか。それぞれに神様から与えられている使命があります。それは学校にあって、職場にあって、人々にキリストにある生き方を示すという使命です。世間では、常に自分が正しいと思っている人は少ないと思います。しかし常に間違っているとも思ってはいないでしょう。みんなグレーゾーンの中で生きている、大体正しい生き方なら、それでいいじゃないかと思っている人が多いと思います。ですからあえて正しいことを追及する人は少ないと思います。そのような世間にあってクリスチャンは葛藤すると思います。クリスチャンは正しいことを追求したいと思うからです。自分は正しい人間では無いけれども、正しい事、真理を追究したいと思うからです。もしかしたら世間に流されて、大体の生き方でいいじゃないかと思いたくなるかもしれません。しかしそのような葛藤、苦難に耐え、やっぱり真理を追究していくことを聖書は勧めています。

パウロはこの手紙を記した後、まもなく処刑されます。パウロは自分がもうすぐ死ぬことが何となく分かっていました。クリスチャンは死んだ後どうなるのか、パウロが記しています。「あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」クリスチャンには天の御国での義の栄冠が約束されています。真理を追究した結果、真理にたどり着くことが約束されています。真理は私たちの力でたどり着くものではありません。人間の力では到達できない物です。ですから多くの人は真理を追究することをあきらめてしまいます。真理は神様から与えられるものです。この地上で追求した結果、人間の力では到達できませんが、神様が私たちを真理に到達させて下さいます。ですから私たちの努力は決して無駄ではありません。私たちが真理を追究しようと、神様との関係を求め続ける所に大きな意味があるのです。どうかこの地上にあって、兄姉共に励まし合いながら、神様を追い求めてまいりましょう。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 聖餐礼拝、50周年記念感謝会、記念誌の準備のために
  • 教団の神学生たちのために
  • 教会運営会議、聖書塾のために
  • 八王子教会のために

いつも通り主に祈る

ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。
ダニエル6:10

ダニエル書には預言者ダニエルがバビロニアで活動した時の事が記されています。南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、捕囚の民としてバビロニアに連れていかれました。その時、南ユダの王国の人々は何回かに渡ってバビロニアに連れていかれました。ダニエル書2章にはバビロニアの王ネブカドネツアルの治世第2年とあります。これを文字通りバビロニア帝国におけるネブカドネツアルの治世2年目と捉えるなら、紀元前605年になります。この時、南ユダ王国はまだ完全に滅ぼされてはいませんでしたが、すでにバビロニアの支配下にありました。ダニエルは早い段階からバビロニアに連れてこられたことになります。その後、バビロニアはネブカドネツアルの死後、混乱し、領土はメディア王国と分割され、最終的にはペルシャ帝国に支配されます。ダニエルはバビロニア、メディア、ペルシャの王に仕えることになりました。その期間は50~60年ほどになります。戦争により神の国である故国を失い、連れてこられた異教の国も目まぐるしく移り行きました。安定した平和な国ではなく、混乱を極めた国の中で、ダニエルは真の神様だけに仕える姿勢を貫いたのです。

ダニエル書の前半には、ダニエルとその仲間たちが逆境の中から神様の手によって奇跡的に助け出される話がいくつか記されています。これらの話は、南ユダ王国を圧倒的な武力で支配したバビロニアでしたが、神様がさらに大きな力で働かれていることを示しています。バビロニアの人々は自分たちの知恵と力で諸国を圧倒して世界の頂点に立ったと考えていましたが、すべては真の神様の手の内にあることを知ることになったのです。

端から見れば、ダニエルの生涯は安定した基盤のない生涯でした。生涯、異国の地、異教の地で過ごし、もっと言えば周りからは敗戦国から連れてこられた者と見なされました。どんなに優れた功績を残しても、人々に名前すら記憶されないような者でした。それどころか同時代の人々からは常に疎まれ、妬まれていたであろうと思います。ダニエル書を見ると、ダニエルは多くの王に仕えたようですが、王が代替わりするたびに驚くほどキレイさっぱりと人々から忘れられています。しかしダニエルはそこに登場する誰よりも揺るがない人物として描かれています。最初から最後まで真の神様だけに仕えるという姿勢を貫いています。ですから6章で王様以外に何者に対しても祈願してはならないという禁令が出された時も、その禁令が出されたことを知りながら、ダニエルはいつも通り神様に祈りをささげた事が記されています。ダニエルは一切言い訳をしません。いつも通り、当然のように、誰をもはばかることなく、真の神様に祈りをささげ、隠すこともしませんでした。もしかしたらダニエルにとっては、他の人々が真の神様以外の何かに頼って生きていることの方が不思議だったのかもしれません。ダニエルの生涯は目に見えるものだけで考えれば不安定そのものでしたから、逆に真の神様のご支配がよく見えたのかもしれません。私たちもいつもは目まぐるしい日常に追われていますが、ふと心を落ち着かせて神様に目を向ける時、ダニエルを支えた同じ神様が私たちを支えて下さっていることに気づくでしょう。どのような中にあっても、ダニエルのように神様に信頼し、いつも通り主に祈りながら生活したいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 野尻師感謝会&宣教祈祷会、50周年準備委員会のために
  • 小金井教会のために

主にある日常(苦しみの中にあっても)

ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。
Iテサロニケ5:11

テサロニケ人への手紙に入りました。テサロニケ人への手紙は2通、聖書に収められています。パウロがほぼ同時期にテサロニケの教会に宛てて書いた手紙と考えられます。テサロニケ教会の始まりについては使徒の働き17章に記されています。パウロは2回目の宣教旅行の時にテサロニケの町に行きました。そこで3週にわたって安息日にユダヤ人の会堂でイエス様の救いについて語りました。その時イエス様を信じて救われた人々がテサロニケ教会の始まりです。しかしその時、反対したユダヤ人たちもいました。反対したユダヤ人たちはパウロを迫害しようとしましたが、見つからなかったので、ヤソンという人の家を襲ったことが聖書に書かれています。パウロの身を案じたテサロニケ教会の人たちの案内でパウロは別の町へ行く事を余儀なくされました。パウロはその後、テサロニケ教会の人々を案じ、手紙をテモテに託しました。パウロはその後も、多くの町で迫害を受けます。そしてテサロニケ教会の人々も迫害を受けることになるだろうと予期し、励ましの手紙を書いたのです。

パウロはテサロニケ人への手紙の中で、テサロニケの人々の信仰をほめて喜んでいます。まだ始まって間もない教会でしたが、迫害の始まる中、信仰を堅く守っていました。そのニュースは他の地域にある教会の励ましにもなっていることを書いています。そして苦難は今後も続くであろうことを記し、その中にあっても信仰を堅く保つようにと励ましています。テサロニケ教会の人々が味わっている苦難は、パウロも経験していることであり、おそらくすべてのクリスチャンが何らかの形で経験するものです。もし自分たちだけが迫害を受けていて、他のクリスチャンにはその辛さがさっぱり分からないということであれば、私たちは信仰を守り抜く事ができないであろうと思います。しかし同じように苦しみを受けている兄弟姉妹がいると、共に分かち合い、祈りあう事ができます。1人では信仰を守れなくとも、兄弟姉妹と一緒であれば信仰を守り抜く事ができるのです。

パウロは5章で終末の日についても少し触れています。終末の日には激しい苦しみの時が来ることが聖書に記されています。しかしそれらの苦しみがどのようなものであるか具体的には記されていません。またその日は突然来るということが語られています。いつ、どんなことが起こるか分からないと私たちは不安になります。しかしパウロは、クリスチャンにとっては、その日が盗人のように襲うことはない(5:4)と教えています。それはクリスチャンには具体的に事情が説明されているからではなく、神様が私たちを主イエス・キリストによる救いを得るように定めている(5:9)からだと言います。たとえ苦難の中にあっても、終末の日が来たとしても、神様が私たちを救いに定めて下さっているから大丈夫なのですとパウロは語っているのです。私たちはそれほどまでに神様を信頼しているでしょうか。ルターは「たとえ明日世界が滅びようとも、私はリンゴの木を植える」と言いました。それはたとえ明日世界が終ろうとも、いつも通り神様と共に過ごすということです。パウロも言います。「ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい(5:11)」クリスチャンはこの地上で何をして過ごすでしょうか。神様を愛し、人を愛することです。ではクリスチャンは天国で何をして過ごすでしょうか。神様を愛し、人を愛することです。この地上においても、天国においてもクリスチャンがすることは同じです。それはこのように言い換えることもできるかもしれません。天国で私たちが受ける幸いが、地上生活にある時からすでに始まっているのです。私たちもそのように神様を信じ、感謝して過ごしてまいりたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 代議員総会、野尻師感謝会&宣教祈祷会のために
  • みずほ台教会のために

神の国イスラエルとして

その声は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある場所、わたしの足の踏む場所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む場所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。
エゼキエル43:4-5

 

エゼキエル書の通読も終わりに近づきました。40章から、神様はエゼキエルに新しいエルサレムの町とイスラエルの国の全体像を見せます。その様子はとても長く、詳細に記されていて、エゼキエル書最後の48章まで続きます。自分たちの背きの罪のために捕囚の民としてバビロンに連れていかれたイスラエルの民でしたが、その捕囚の期間が終わり、新しい神様の栄光に満ちた神様の国に再び住めるようになる希望が与えられています。

40-42章まではエルサレムの町の建物の様子が記されています。そして43章の初めに神様の栄光が町に入ってこられ、神殿に満ち溢れる様子が記されています。43-46章にはこの町に住む人々への教えが記されています。これは一見すると、レビ記や民数記に記されている教えと重なっています。レビ記や民数記はエジプトから解放されたイスラエルの民に対する教えで、代々イスラエルの人々が守るべきものでした。神様はエジプトで奴隷であったイスラエル人を解放し、神様の国民としました。神様の国民は、聖なる神様を愛し、人々を愛して生活するように求められていました。それによって誰もが神様の祝福を受け、幸せに生活できるようになるのです。神様は、それまで奴隷だったので、自分たちの文化も持たず、国も法律もない、アイデンティティもない民だったイスラエル人に、神の国イスラエルというアイデンティティを与えられたのです。しかしイスラエル人たちは神様の教えを守らず、他の神々を拝み、人々から略奪し、自分勝手に生きていました。そしてバビロン捕囚に至ったのです。神様はそんなイスラエル人たちを赦し、再び神の国イスラエルとして回復させようとしているのです。神様は改めて、新しい国イスラエルに住む人々への教え、すでにレビ記、民数記で語られていた事を告げられました。

イスラエルの国は神様の国として、神様の教えを守り、神様の祝福溢れる国となるのです。誰もが神様からの祝福を受け、神様を愛し、神様に仕えます。そして同じように互いに仕えあい、貧しい人を助ける国となります。そのように誰もが安心し、平和に暮らせるようになることで、イスラエルの国は神様の栄光を諸国に告げ知らせるのです。この町の名前は「主はそこにおられる」と呼ばれるとエゼキエル書の最後は締めくくっています。イスラエルの国の真ん中には神殿があり、いつも神様の栄光が満ちています。この国に行けば、誰でも神様の栄光を見る事ができ、祝福に与る事ができる国となるのです。私たちの幸せは、神様と共にいることなのです。神様こそが全ての祝福の与え主だからです。イスラエルの民が自分の罪、行いを悔い改め、神様と共にこの町で住むように、私たちも自分の罪と行いを悔い改め、神様と毎日を過ごさせて頂きましょう。そうすれば、私たちは確かにこの国の住民となります。場所は違っても、この国の一員となって、平和に、互いに助け合いながら過ごすことができるのです。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 代議員総会、野尻師感謝会&宣教祈祷会のために
  • 南大沢チャペルのために

心の中からの偶像

こうして、偶像のゆえにみなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心を、わたしがとらえる。
エゼキエル14:5

今日の聖書通読箇所はエゼキエル13-14章です。イスラエルの民に対して神様からの痛烈な批判が続きます。特に13-14章では預言者たち、長老たちが名指しされています。イスラエルの民の中にあって、神様の導きを仰ぎ、民に伝える重要な役割を担っていた人たちです。彼らは神様の本当の心を求めず、偽りの言葉を民に伝えていました。そして、その偽りの言葉を心から信じて、実現する日を待ち望んでいたと書かれています(13:6参照)。自分で偽りを語りながら、その偽りが実現するのを待ち望むというこんなことおかしな事があるのでしょうか?

14章には「これらの者たちは自分たちの偶像を心の中に秘め(14:3)」という言葉が出てきます。偶像とは必ずしも形のあるものではありません。桜ヶ丘教会の星加師は「偶像とはまず人の心の中に生まれ、それが世の教えやいわゆる形ある偶像とマッチして、偶像崇拝に至る」と説明していました。英語で偶像のことをIdolと言います。アイドルという言葉は日本では歌や容姿などを売りにしている芸能人のことを言います。日本でいうアイドルとは人間という存在の中から、理想としているもの、こうだったらいいなとあこがれている部分だけを切り取って売りにしているもののことを言います。この精神が偶像崇拝と似ているので英語で偶像を意味するIdolからアイドルという名前が生まれました。偶像崇拝とは神様というイメージの中から、自分が気に入っている部分、こうだったらいいなと思っている部分だけを切り取って、それを神様ご自身と見なすことを言います。ですから偶像崇拝は必ずしも形ある者とは限りません。むしろ人々の心の中にある願望から形が生まれてくるのです。

12章の後半には神様の言葉は必ず実現するということが書かれていました。神様はご自身で語られたことを必ず実現する、真実なる神様です。しかし、イスラエルの民の中では神様は約束を果たされる真実な方ですという事だけが先行してしまいました。神様ご自身よりも、ビジョンは実現するという部分だけが切り取られて、偶像化されてしまっているのです。そして預言者たちはとにかく良い幻、良いビジョン、良い御言葉だけを探して、それを神様からの言葉として民に語り、自分も信じ切っていました。このような聖書の言葉を聞くと、自分は本当に神様ご自身を求めているだろうか、自分の願望を神様の言葉として受けとめていないだろうかと反省します。

神様はそのような偶像と神様との区別物できなくなっている民の目を覚まさせなければなりませんでした。イスラエル人たちのバビロン捕囚はそのためのものでした。荒療治ではありましたが、真の神様に立ち返らせることが目的でした。それは神様からの愛の行いでした。16章には神様がどれだけイスラエルの民を愛しておられたかが書かれています。神様は血まみれで捨てられていた赤子をイスラエルに例えました。その赤子を引き取って優しくキレイにしてやり、祝福して育てたのです。神様は父親のようにイスラエルに接しましたが、イスラエルは父親の中から自分の好きな部分だけを切り取って、それに心奪われていました。私たちもそのような偶像を心の中に持ちやすい者です。偶像ではなく、本当の神様を求めたいと思います。顔をしっかりと神様に向けて、本当の神様のお姿を悟らせて頂きましょう。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 受難日特別礼拝、イースター礼拝、交換講壇礼拝のために
  • 南平教会のために

鉄の壁を開いて

また、鉄の板一つを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立てよ。あなたが自分の顔をしっかりとこの町に向けると、この町は包囲される。あなたがこれを攻め囲むのだ。これがイスラエルの家に対するしるしだ。
エゼキエル4:3

聖書通読はエゼキエル書になりました。昭島教会では昨年、礼拝でエゼキエル書を順番に学びました。エゼキエル書は預言者エゼキエルが神様から受けた預言を記したものです。エゼキエルは南ユダ王国の民が捕囚でバビロンに連れていかれた時に預言者として召され、活動しました。3~4章は、捕囚の地であるバビロンのテル・アビブ(現在のイスラエルのテル・アビブ・ヤッフォの名前の由来となっていますが、別の場所です)のケバル川のほとりで、エゼキエルが神様の召命を受けて、最初のユダの民へのメッセージを実行するように示されたことが記されています。

神様は4章でエゼキエルにエルサレムの町が包囲された時の様子のジオラマを作るように言われます。粘土の板にエルサレムの町を描き、それに対して塁を築き、包囲壁を作り、陣営を設け、城壁崩しを配備します。そしてそれに対して、エゼキエルは左脇を下にして390日、右脇を下にして40日、じっと身を横たえなければなりませんでした。町の中でこのようなことをしている人がいたら、どう見ても異常です。それを神様からのメッセージであると受け止める人、気が狂っていると受け止める人、様々な人がいたと思います。しかしこの行為はユダの民にとっては、つい最近起こった出来事を呼び覚ますものでした。ユダの民はバビロンとの戦争でエルサレムの町を包囲され、籠城戦になり、多くの人が食糧難で倒れ、生き残った人の半分はバビロン軍に打ち殺され、さらにそこから辛うじて生き延びた人の多くは野山で病と飢えに倒れ、ほんの一部の人がこうしてバビロンの町に強制的に連れてこられました。神様がエゼキエルに行わせたことは、ユダの民にとっては悪夢をフラッシュバックさせるものでした。

神様はエゼキエルにそのジオラマのエルサレムの町に対して、身を横たえるように言いました。左脇を下にして390日、右脇を下にして40日です。神様は1年を1日と計算してこの日数にしたと仰います。ジオラマに向かって横たわるエゼキエルは神様を表しています。つまり神様は約400年の間、イスラエル、ユダの国を離れず、見守り続けたのです。しかし神様はエゼキエルとジオラマのエルサレムの町の間に鉄の壁を立てるように言いました。鉄の壁があると身を横たえたエゼキエルからは町の様子がよく見えません。約400年の間、神様はイスラエルとユダのすぐ隣にいましたが、神様から国の様子が見えないようになっていたという事です。聖書では神様が見えなくなる、神様の御顔が見えなくなるというのは神様の見守りが無くなる、祝福がなくなるだけでなく災いが来るということを表します。これは大変なことです。ではこの鉄の壁は誰が、なんのために建てたのでしょうか。私はイスラエルの民が建てたのだと思います。神様はエゼキエル2-3章でイスラエルの民のことを度々「反逆の家」と呼びます。神様に逆らったのです。神様に見られたくはないことがあったので、鉄の壁を建てた。あるいは神様は必要ないとも考えたかもしれません。あるいは単に神様を忘れたのかもしれません。いずれにしても神様に対する反逆とは、祝福してくださるお方、見守って下さるお方と自分の前に鉄の壁を建てるという行為なのです。神様はこの壁を取り除くように私たちに求められます。黙示録3:20にはこ「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って…」とあります。その扉を設置したのは私たちです。神様との間にあると困る以外の何物でもないはずですが、私たちが建てたものです。何のために建てたのか、それは人それぞれです。それは鉄でできていて、とても頑丈で、神様はそれを壊そうとはなさいません。ただ戸の外に立ってノックしています。私たちがその鉄の壁を取り除いたなら、扉を開いたなら、私たちは神様の御顔を仰ぎ見る事が出来るのです。鉄の扉を開いて、今日も祈りたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 昭島教会創立50周年の感謝
  • 決算総会、受難日特別礼拝、イースター礼拝、交換講壇礼拝、FMYCのために
  • 青梅教会のために

 

神様の言葉の力

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
ルカ21:33

ルカの福音書21章で弟子たちはイエス様に終末の日にはどんなしるしが起こるのか質問しました。イエス様は弟子たちの問いに答えられました。ルカの福音書21章に記されている終末のしるしはどれも恐ろしいものばかりです。偽預言者が現れて、人々を惑わします。イエス様を信じる者たちは捕らえられて迫害を受けます。しかし捕らえられた時が、逆にイエス様を証しする機会ともなることをイエス様は教えておられます。また各地で戦争が起こり、飢饉や疫病、地震が起こります。太陽と月と星にしるしが現れ、海はあれ、宇宙が崩壊するのではないかとみな恐れると書いてあります。

イエス様はこのような出来事がいつ起きるのか、具体的な日付を示されませんでした。ですから私たちはそれが未来のことなのか、すでに起こっている事なのか分かりません。しかしそれがいつなのか分かっても私たちにはどうしようもないことをイエス様は示しておられます。現代では科学も進み、星の寿命がどれくらいであるのか、ある程度把握できるようになってきました。もしかしたらいつの日にか、天気予報のように、地球が崩壊する日を予知できるようになるかもしれません。しかしその時私たちに分かるのは、その日を避ける事が出来ない、だれもどこにも逃げ場所はないという事実です。私たちは今はまだこの世界はいつか無くなるだろうという漠然とした思いしか抱いていません。しかしいつという事が分かっても、解決策を見出すことは出来ないということです。イエス様はルカ21:26でこう言います。「人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。」

イエス様は終末に関して、いつ起こるのかを探るのではなく、いつ起こっても構わないように、神様との関係を保っていなさいと教えます。終りの日の災いを避ける事が出来るのは、神様の力だけだからです。イエス様は言いました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません(ルカ21:33)」言葉というのは何となく、地震や疫病や戦争の前には頼りなく感じます。私たちはどんなに話し合いで解決しようとしても、戦争が避けられなかった歴史を知っていますし、今でもニュースを見るたびに話し合いの無力さを感じながら生きています。言葉で災いを回避できるはずが無いと心のどこかで思っているのかもしれません。しかしイエス様は、たとえ天地が滅びても神様の言葉は消えないと言います。天地よちも神様の言葉の方が力があるのです。聖書は創世記の最初で、天地よりも先に神様の言葉があったことを示しています。天地は神様の言葉によって作られたのです。私たちは天地が滅びたら言葉は無くなるように感じていますが、聖書はそうは語っていません。むしろ神様の言葉によって天地が支えられていることを語っています。ですから私たちが終末に向けて備えるのは、神様の言葉を信頼することです。神様が私たちのいのちを支えると仰っているのであれば、それを信頼することです。ルカ21章の冒頭に登場するやもめはそれを心から信じていました。だから生活費の全部を捧げる事が出来たのです。私たちは天地万物に支えられて生きていますが、その天地万物を支えているのは神様の言葉です。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 50周年記念礼拝(甲斐師)、決算総会、受難日特別礼拝、イースター礼拝、交換講壇&聖餐礼拝のために
  • 八王子教会のために

どなたに祈っているのか

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。
ルカ11:13

 

ルカの福音書11章で弟子たちは、バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りの言葉を教えられたように、お祈りを教えて下さいとイエス様に願いました。イエス様は弟子たちの言葉に答えて、主の祈りを教えられます。そして続けて父なる神様は、あなたがたの祈りに答えて下さるお方であると教えます。弟子たちは祈りの言葉を教えて下さいと願いました。当時、いろいろな宗教指導者がいました。そしてそれぞれが弟子を作り、グループを組んでいました。それぞれのグループには指導者が考えたオリジナルの祈りの言葉があり、弟子たちはその言葉で祈ることでグループに属していることをアピールしていました。イエス様はこれまで特に弟子たちに祈りの言葉を教えなかったようです。そこで弟子たちは自分たちのグループのオリジナルの言葉を下さいとイエス様に願ったのです。しかしお祈りとは本来、神様との会話です。どのような言葉で祈るかということよりも、誰と話しているのかという事の方が重要です。イエス様は主の祈りというとてもシンプルなお祈りの言葉を教えるとともに、誰に祈っているのか、その方はどのようなお方なのかということを教えておられます。

イエス様は魚を求める子に蛇を与えるような父親がいるだろうかと話します。それなら天におられる父なる神様は、なおさらあなた方の祈りを聞いて、良いものを与えて下さらないはずが無いということを暗に仰っています。父なる神様が与える事ができる最高のものは聖霊です。神様の霊が私たちに注がれる事です。それによって私たちは常に神様と共に過ごすことができるからです。イエス様はこの一連のやりとりによって、神様は良いお方であることを示しておられます。しかしこのとてもシンプルな事がなかなか私たちには納得できないのかもしれません。神様が良いお方で、イエス様は私たちを救いに来られたということが私たちにはなかなか受け入れられません。もし私たちが父なる神様が良いお方であると納得しているのであれば、祈ってお委ねするという事が素直にできるからです。小さい子どもは日々の生活の中から、自分の良心が信頼できるということを学びます。すると感情が爆発して制御できなくならない限りは素直に親の言う事を聞きます。親が良い人で信頼できると受け入れているからです。同じようにもし私たちが神様は良いお方で信頼できると受け入れているならば、神様に祈った言葉は必ず聞かれていると信頼することができます。どのような言葉で祈るかと言うことよりも、ちゃんと自分の言葉で祈り、祈りを聞いてくださる方を信頼しようと考えるようになると思います。ルカの福音書11章の後半にはイエス様が悪霊の親玉によって悪霊を追いだしているのではないかと疑う人の話が出てきます。イエス様が良いお方であると受け入れているのであれば、このような発想は出てこないでしょう。またパリサイ人や律法学者たちもイエス様が救い主であると信じていないので、イエス様の言動に不信感を持ってしまいます。私たちは天の父なる神様、イエス様についてどのようなお方であると考えているでしょうか。どのような言葉であれば聞かれるかということよりも、誰に祈っているのかを考えて祈りたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道者のために
  • 教会創立50周年記念礼拝のために
  • みずほ台教会のために