どなたに祈っているのか

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。
ルカ11:13

 

ルカの福音書11章で弟子たちは、バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りの言葉を教えられたように、お祈りを教えて下さいとイエス様に願いました。イエス様は弟子たちの言葉に答えて、主の祈りを教えられます。そして続けて父なる神様は、あなたがたの祈りに答えて下さるお方であると教えます。弟子たちは祈りの言葉を教えて下さいと願いました。当時、いろいろな宗教指導者がいました。そしてそれぞれが弟子を作り、グループを組んでいました。それぞれのグループには指導者が考えたオリジナルの祈りの言葉があり、弟子たちはその言葉で祈ることでグループに属していることをアピールしていました。イエス様はこれまで特に弟子たちに祈りの言葉を教えなかったようです。そこで弟子たちは自分たちのグループのオリジナルの言葉を下さいとイエス様に願ったのです。しかしお祈りとは本来、神様との会話です。どのような言葉で祈るかということよりも、誰と話しているのかという事の方が重要です。イエス様は主の祈りというとてもシンプルなお祈りの言葉を教えるとともに、誰に祈っているのか、その方はどのようなお方なのかということを教えておられます。

イエス様は魚を求める子に蛇を与えるような父親がいるだろうかと話します。それなら天におられる父なる神様は、なおさらあなた方の祈りを聞いて、良いものを与えて下さらないはずが無いということを暗に仰っています。父なる神様が与える事ができる最高のものは聖霊です。神様の霊が私たちに注がれる事です。それによって私たちは常に神様と共に過ごすことができるからです。イエス様はこの一連のやりとりによって、神様は良いお方であることを示しておられます。しかしこのとてもシンプルな事がなかなか私たちには納得できないのかもしれません。神様が良いお方で、イエス様は私たちを救いに来られたということが私たちにはなかなか受け入れられません。もし私たちが父なる神様が良いお方であると納得しているのであれば、祈ってお委ねするという事が素直にできるからです。小さい子どもは日々の生活の中から、自分の良心が信頼できるということを学びます。すると感情が爆発して制御できなくならない限りは素直に親の言う事を聞きます。親が良い人で信頼できると受け入れているからです。同じようにもし私たちが神様は良いお方で信頼できると受け入れているならば、神様に祈った言葉は必ず聞かれていると信頼することができます。どのような言葉で祈るかと言うことよりも、ちゃんと自分の言葉で祈り、祈りを聞いてくださる方を信頼しようと考えるようになると思います。ルカの福音書11章の後半にはイエス様が悪霊の親玉によって悪霊を追いだしているのではないかと疑う人の話が出てきます。イエス様が良いお方であると受け入れているのであれば、このような発想は出てこないでしょう。またパリサイ人や律法学者たちもイエス様が救い主であると信じていないので、イエス様の言動に不信感を持ってしまいます。私たちは天の父なる神様、イエス様についてどのようなお方であると考えているでしょうか。どのような言葉であれば聞かれるかということよりも、誰に祈っているのかを考えて祈りたいと思います。

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敵を愛しなさい

しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。
ルカ6:35

 

ルカの福音書6章は、マタイの福音書の山上の垂訓と似たイエス様の教えが書かれています。マタイでは山の上でイエス様が教えられた(マタイ5:1)ように見えますが、ルカでは山を下りてきた平らな所で教えられた(ルカ6:17)とあります。マタイの方がボリュームが多く、ルカの方がコンパクトです。私は読み比べて見て、マタイの方が慰め、励ますような口調に聞こえ、ルカの方がもう少し厳しく自分を吟味するように教えられているような印象を受けました。マタイでは八福と呼ばれる「~な者は幸いです」という教えも、今、辛い逆境にある人々に希望を与えるような内容になっています。しかし、ルカではそれが短くなっており、その後、「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです(ルカ6:24)」というような逆の事が語られています。これを聞いた人々は、混乱を覚えたのではないでしょうか。自分は貧しい者なのか、富んでいる者なのかと考えたと思います。自分は神様から祝福を受ける者だろうかどうだろうかと、自分を見つめなおすことになります。

貧しい者は幸い、富んでいる者は哀れ、と語り少し混乱を覚えた人々に、イエス様は、そもそも神様は何を望んでおられるかという話をされます。「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。(ルカ6:27)」こう言ってイエス様は、なかなか実行するのが難しいいくつかのことを述べます。呪う者を祝福し、欲しがる者には惜しまず与え、見返りを求めるなとイエス様は仰います。自分を愛してくれる人を愛したからと言って何になるのか、そんなことは罪人たちでも行っていると言います。プレイズジャムの時、マイケル・ジャクソンの歌を紹介しました。その歌詞にはSelfish loveという言葉が登場します。このSelfish loveという言葉は、日本語に訳すのが難しいという話をしました。Love愛にはいくつか種類があって、Selfish(自分勝手な)愛もあるということです。おそらく反対語はSelf-giving love(自分を捧げる愛)です。Selfishとは利己的とも訳されます。自分の利益をまず第一に求めることです。よく進化論の話の中では、自分を守るため、自分の利益を第一に求めたとしても、必ずしも他の者と敵対関係になるわけではないという事が言われます。出会う者すべてと争うのではなく、時には協力することも自分の利益につながるからです。そのような時には愛しているかのようなふるまいを見せるのです。つまりSelfish(自分勝手)でも、他者を愛せるのです。イエス様はこのSelfish loveを指摘しています。愛だ。愛だ。と言っても、結局は自分に見返りを与えてくれるものだけを愛しているのではないか?ということです。それは神様の前に罪人と同じです。

神様はSelf-giving love(自分を捧げる愛)をお持ちの方です。いと高き方は見返りを求めず、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いお方です。その子どもとなりたいのであれば、あなたがたも敵を愛しなさい。とイエス様は教えられます。返してもらおうとは思わずに与えなさいと仰います。そうすれば、だれもがあなたを神様の子どもと認めるようになります。神様も心からあなたを歓迎してくれます。問題はSelf-giving loveを私たちは持ち合わせていないということです。それは十字架の神様しか持っていない愛です。その事にまず気づきを与え、神様から愛を頂かなければなりません。「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。(ルカ6:40)」とイエス様は仰います。イエス様に入門し、そしてイエス様から十分に訓練を受けて、イエス様の愛で満たされ、実行して行く者となりましょう。

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赦しを求める姿勢

主よ あなたが御民を受け入れてくださるときに私を心に留め あなたの御救いのときに私を顧みてください。
詩篇106:4

聖書通読は詩篇に戻りました。詩篇106篇はI歴代16:34-36や、ネヘミヤ9章や、ダニエル9章などにも同じような表現が見られ、ダビデの時代の作とも、捕囚期以降の作とも考えられます。ダビデが作り、それ以降たくさんの時代に好まれて用いられたとも考えられます。この詩篇はイスラエルの歴史を振り返り、神様の前に数々の罪をおかしてきたことを告白しています。そして神様の前に悔い改めをしています。神様はそのような民に対し、深いあわれみを持って接して下さっている事が分かります。詩篇106篇には出エジプトから士師記くらいまでの歴史が記されているように思います。一つ前の詩篇105篇には創世記のアブラハムと神様との契約の事が書かれていますので、詩篇105篇、106篇と合わせて読むと、ダビデがそれまでのイスラエルの歴史を振り返っているような構造になります。

出エジプト記から士師記までのイスラエルの民の歴史は、聖書に赤裸々に綴られています。イスラエルの民は何度も神様に逆らいました。しかしその度に何度も神様はイスラエルの民を救われました。この詩篇で注目されるのは、イスラエルの民が神様に逆らい、神様がイスラエルの民を滅ぼそうと仰った時に、とりなし手が現れた事です。106:23にはモーセが破れてしまった神様とイスラエルの民の関係の間に立っている様子が描かれています。また106:30にはピネハスが仲立ちをしたと書かれています。もしモーセやピネハスのような、自分たちの罪を認め、神様に悔い改めて、民全体のためにとりなすような人物が現れなかったら、大変な事になっていたであろうと詩篇の記者は考えます。そう考えて106:4-6を読みますと、この詩篇の記者も自分たちの罪を認め、悔い改めて、民全体のためにとりなしているように見えるのです。

詩篇106:4を読んだ時、イエス様と共に十字架に架けられた強盗の言葉を思い出しました。ルカ23:42でイエス様と一緒に十字架刑に処せられている強盗は「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。数日前にディボーションでデニス・キンロー師の本を読んでいたからかもしれません。キンロー師はシャン・カルヴァンの言葉を引用しながら、この強盗セリフは普通でてこない言葉であると語っています。イエス様も強盗も罪人として磔にされています。数人いた弟子たち以外の全員がそう思ってこの光景を眺めています。しかしこの強盗は、周りの全員が見ていなかったものを見ていました。イエス様の栄光を見ていたのです。弟子たちも悲しみのあまり、イエス様の栄光を見ていませんでした。強盗はイエス様の栄光を見て、自分の罪を顧みた時に、あまりにも罪深く、小さな自分を自覚しました。御怒りを受けても仕方のない者だと自覚しました。しかし同時にイエス様のあわれみも見たのです。強盗は自分はイエス様のあわれみにすがる資格もない者だと思いましたが、その片隅にでも覚えて頂けるならとこの言葉を言ったのです。強盗はイエス様を信じる民全体が救われて喜ぶさまを、その片隅で見る事さえできれば十分であると考えました。強盗の姿勢は、本当に自分の罪深さを自覚した時に生まれるものだと思います。そしてイスラエルの歴史を振り返った時に、本当に自分たちは罪深い存在だと自覚したこの詩篇の作者の思いともつながると思います。そのような者をもあわれみ、救いを与えて下さる神様を見る時、詩篇106:48に心から賛同して「アーメン」と言えるのではないでしょうか。

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全き心を求める

私は全き道に心を留めます。いつあなたは私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で行き来します。
詩篇101:2

 

聖書通読は詩篇に戻りました。詩篇101篇は表題に「ダビデによる」と書かれています。ダビデが王となった時、自分の信仰を堅く保ち、正義を行い、自分の家、つまり国の中枢となる王宮も信仰と正義を保つっていくと覚悟をしているような歌です。この詩篇の前にある詩篇95~100篇は、それよりもずっと後の時代の者と考えられており、バビロン捕囚が終わって、エルサレムに再び神殿が築き上げられた時、歌われたものと言われています。そう考えますと、詩篇101篇はバビロン捕囚の後、新しい神殿で神様に仕えていく祭司たちが、ダビデの歌を歌って同じように信仰と正義を守り抜くことを誓い合っているように思えます。

詩篇101篇の前半は自分の生活を清く保つことについて語り、後半は自分とかかわりを持っている人について語っています。前半部分を読んだ時の私の正直な感想は「私はこんな生活とはほど遠いな」というものです。「私は家の中を全き心で行き来します」「私は曲がったわざを憎みそれが私にまといつくことはありません」と告白していますが、ダビデはよくこんな事が言えるなと思います。私は自分の生活を振り返る時、これとは真逆なのではなかろうかと思います。そしてイエス様の十字架による赦しを乞います。聖書は確かにイエス様は私たちを罪から救い、きよめて下さると語っています。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる(イザヤ1:18)」と神様は仰って下さいます。しかしだからと言って、私たちは正義を追い求めなくてよいのではありません。信仰を保つ努力をしなくてよいのではありません。自分の力では、自分の生活を清く保てるか自信がないかもしれません。しかし、神様は私たちに自由に選択するように委ねていますので、私たちは清くありたいのであれば、清くありたいとと決心する必要があります。時にはこの詩篇のように一大決心をして神様の前に自分の決意を表明する必要があります。そのように決心する私たちの信仰を神様はご覧になって、神様が私たちのところに来てくださり、生活を清く保つ力を与えて下さいます。私たちは自分の力ではなく、神様の力と御言葉によって、自分の生活をきよく保つ事ができます。しかしそのような生活を望むかどうか、神様は強制されません。私たちが自分で決める必要があります。

この詩篇のなかで、ダビデは自分の生活だけでなく、自分の家に出入りする者もきよく保つことを告白しています。ダビデは自分が神様と共にある生活をしているかどうかだけをチェックしているのではなく、他の人が神様と共に過ごせているかどうかも気にかけています。神様はどんな人でも愛してくださって、救いを与えて下さいます。ですから私も救われました。神様はまた私の周りにいる方々にも、救いを与えて下さっています。私は私の信仰生活だけを気にするのではなく、他の方々が信仰生活を守れるように気にしているでしょうか。他の方々が自ら神様とのきよい生活を選ぶことができるように、励まし、慰め、時にいさめることも必要かもしれません。愛をもって互いに接し、助け合い、祈りあう事が必要です。今日も、教会の兄弟姉妹のために、またご家族のために、そして今日は海外の先生方、兄弟姉妹のために心を砕いて祈りあいましょう。

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万物の源なるキリスト

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
コロサイ3:1

 

今日は順番にいくと通読箇所は詩篇になるのですが、コロサイを開く機会がなかったので、コロサイを開きます。コロサイ人への手紙は手紙の中でも何度か、パウロが語っていますが、パウロがローマで軟禁状態であった時に書かれた手紙です。1:7-8によるとエパフラスという人がコロサイの教会の様子をパウロに知らせました。この時、何らかの贈り物を持って行ったのかもしれません。パウロはそれに感謝しつつ、返信する形でこの手紙を書きました。コロサイ教会の様子を知らせてくれたのはエパフラスでしたが、この手紙をコロサイに持って行ったのは4:8-9によるとティキコとオネシモのようです。余談ですが、オネシモはピレモンの手紙にも登場し、そちらでは渦中の人物です。おそらく、ピレモンの手紙と同時期に書かれ、オネシモはコロサイ教会を訪ねた後、ピレモンのもとへ帰る予定だったのかもしれません。

コロサイ人への手紙はキリストが万物の支配者であるという宣言から始まるスケールの大きな内容の手紙です。コリント人への手紙などを見ますと、当時からキリストの教えと、世の中一般の哲学との間で揺れ動く人々がたくさんいたようです。パウロが哲学の全てがキリストの教えに反しているとは言いません。実際、パウロの手紙の多くは、修辞学という当時の弁論学的な記述の仕方で書かれているようです。当時用いられていた哲学の一つ、より良く自分の意見を人に伝えるための技術をパウロは用いていました。パウロは、私たちが何を基盤として生きるのかをこの手紙の中で教えています。学問は、人間の知恵を集めたものです。学問は世界の仕組みを解明し、生活をしていく上で、より良い方法を提示してくれます。しかし世界は学問によって支えられているのではありません。世界の仕組みはすでに出来上がっていて、学問はあくまでその完成されている仕組みを理解しようとする試みでしかないのです。そしてパウロは、世界(万物)の仕組みを完成させ、今も成り立たせているのはキリストであると断言します。ですから私たちは学問とキリストを比べるようなことはしません。本来、比べられるものではないからです。キリストを全ての土台として据え、その上に私たちは自分の生活と、学問を置きます。キリストと学問は別次元の物なのです。

私たちを救って下さったのは学問ではなく、キリストであるとパウロは言います。ですから私たちはキリストを求めます。キリストの内に全てがあるからです。生活をしているとこういう時はどうすればいいだろうと悩むこともよくあります。学問や知恵に頼ろうと思うと、アドバイスがありすぎて混乱することもあります。また全くアドバイスが無い時もあります。最終的な判断を学問に頼ろうとすると、とても難しいです。しかし私たちはキリストにあって生かされているのですから、最終的な判断はキリストにあって判断したいと思います。「イエス様ならこんな時、どうするであろうか。」ということをいつも求めながら、一つひとつのことにあたっていきたいと思います。

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赦しを請う

主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。
哀歌5:21-22

 

哀歌に入りました。哀歌は「エレミヤ哀歌」とも呼ばれます。70人訳聖書には、バビロニアによってエルサレムが陥落し、バビロン捕囚が始まった時に、エレミヤがこの哀歌を歌ったというような説明が書かれているからです。旧約聖書でもエレミヤ書の次に哀歌が並んでいますが、歴史の順番から言っても、この順番が良い位置なのかもしれません。エレミヤは南ユダ王国で活動した預言者です。神様がバビロン捕囚を計画されている事を人々に告げ知らせました。ユダヤ人たちは真の神様に仕えることを止め、他の神々や、諸外国の力を頼るようになりました。その結果、神様はバビロン捕囚を決めたのです。しかし人々は、エレミヤの言うことを信じず、他の預言者たちはエレミヤと逆のことを語りました。最終的にはエレミヤの言葉の方が正しく、エルサレムの町は攻め落とされ、徹底的に破壊されました。崩れ行く町を見て、苦しみ殺されていく人々を見て、エレミヤは嘆いています。自分の方が正しかったからと言って勝ち誇ることは出来ません。苦悩の言葉を語り、迫害を受け、自身の言葉の通りになって、また苦悩しているエレミヤの様子が伝わってきます。

エレミヤはこのような悲惨な結果になったのは、自分たちの罪のゆえであると、ユダヤの人々を代表して嘆きます。1:18にあるように「主は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった」のです。神様はユダヤの人々との契約を守り、祝福を与えていました。しかしユダヤの人々は契約を破り、神様を捨てて罪をおかしたのです。そして今、エレミヤは神様に伺いを立てています。神様の前に自分たちの罪を悔い、赦しを求めています。そして可能であれば、もう一度神様の民として、神様と共に歩む事が出来ませんでしょうかと伺っています。「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ(哀歌5:21-22)」ここには、人の罪と神様の赦しの本質が描かれているように思います。罪をおかしたのは人間です。ですから赦す、赦さないは、人間の自由にはできません。赦されなかったとしても、文句は言えないのです。キリスト教会では、「罪を告白すれば赦されます」と教えますが、それは自動販売機にお金を入れればジュースが買えるというようなものではないのです。赦す、赦さないは、人が罪を告白したかどうかにかかっているのではなく、神様の判断なのです。ですからエレミヤは「あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ」お赦し下さいと語ります。

ユダヤの人々は何十年にも渡って神様を拒み続けました。私たちも自分の罪を振り返ると、決して赦して頂けないのではないかと思います。しかし「主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。主は いつまでも争ってはおられない。とこしえに 怒ってはおられない(詩篇103:8-9)」お方ですから、感謝します。神様の恵みのゆえに、赦されて、新しい日々を歩めていることを感謝します。

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キリストにすべてを知って頂く

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
ピリピ4:6

 

ピリピ人への手紙を開きました。ピリピ人への手紙は、パウロがピリピ教会に宛てて書いた手紙です。パウロは晩年、ローマで軟禁生活状態にありました。その頃、ピリピ教会は、エパフロディトという人に贈り物を託し、パウロに届けたようです(4:18参照)。この手紙はエパフロディトがピリピ教会に戻る際に、パウロが感謝の気持ちと共に書き記したものです。新約聖書にあるパウロの手紙は、厳しい口調の者が多いですが、このピリピ人への手紙は、割と穏やかな口調の、感謝の手紙となっています。

パウロは、当時、投獄され、軟禁生活をしていました。ですから、満ち足りた生活を送っていたのではありません。また自分の死が近いことをなんとなく悟っていました。死を前にしてパウロは、改めてクリスチャンの持つ希望について考えています。パウロにとって「生きることはキリスト、死ぬことは益です(1:21)」と語ります。死は人を絶望に追いやるものです。なすすべなく、後戻りもできず、あっという間にすべてを奪われるもの、それが死に対する人間の印象です。恐怖を覚えます。しかしパウロは、キリストに出会ってすべてが変えられました。すべてが変えられたという事は、生きる意味も、死ぬ意味も変わったという事です。パウロはこの地上生涯を終えたら、絶望なのではなく、キリストと共に永遠のいのちを生きることができると実感していました。早くキリストの許へ行きたいと思う程で、死というのはその通過点にすぎません。しかしこの地上生涯を長く続けられるのであれば、その分、多くの人に同じキリストという希望を教えことができるので、それも良いことだと思っていました。パウロは生きることも、死ぬことも、どちらもキリストに委ねてしまっています。自分では選べないし、選ばない。キリストが良きに計らってくださると信じているから希望なのです。

ですからパウロは言います。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」確かに地上生涯には困難もあり、辛いこともあります。何がおこるか予測できません。しかしキリストは全てご存知で、全てを導いて下さいます。だから私たちは自分の気持ちを素直に、キリストに祈り伝え、後はお委ねして任せましょうとパウロは言います。良いことも、悪いことも、願いも、愚痴も、何でも話し、後は神様の導きに期待しましょうと言います。「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(4:7)」パウロへ贈り物を届けたエパフロディトは、パウロの所に到着後、どうやら大きな病気にかかったようです。もしかしたらそのまま死んでしまうかもしれない程でした(2:25-30参照)。その知らせを聞いて、ピリピ教会の人々は心配しました。パウロも文字通り思い煩ったのだと思います。しかし、神様は悲しみに悲しみを増させまいと、エパフロディトを回復させてくださいました。神様の導きは私たちの幸せをねがってのものです。死も生も、私たちのためのものです。パウロはこの経験から実感をもってこの御言葉を語っていると思います。私たちも、何事もまず神様にすべてを祈り伝え、委ねて、思い煩わないようにしたいと思います。

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平安を語る預言者

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29:11

 

エレミヤ書には、エレミヤ以外の預言者の言葉が多く登場します。多くの場合、それらの預言者は神様の言葉をまっすぐに語らない偽預言者として登場します。神様はそのような預言者たちは自分が遣わしたのではないとまで仰っています。エレミヤ書は偽預言者の言葉と、真の神様の言葉が錯綜するので、読んでいる私たちは混乱します。おそらく当時のユダヤの人々も混乱したことでしょう。誰の言葉を信じればいいのか分からなくなってしまいます。

神様は23:16でこう仰っています。

万軍の主はこう言われる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは主の御口からではなく、自分の心の幻を語っている。彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言い、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」

偽預言者たちは神様の言葉ではない平安を語っていました。実際は平和ではないし、神様の計画ではバビロン捕囚が確定していたのですが、「神様はあなたに平安を与えられる」と言っていました。誰でも戦争よりは平和の方が安心します。偽預言者たちは真の神様の言葉に聞くのではなく、人間の欲求に従って語っていました。しかし神様の本当の計画は別にあったのです。

エレミヤはそのような預言者たちに対して28:9のように述べます。「平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」預言者の言葉の通りになれば、その預言者は確かに神様から遣わされた預言者であると述べています。実際にはバビロン捕囚が行われ、多くのユダヤ人たちは平安ではなく、戦争で苦しむことになります。平安を語っていた預言者たちは偽預言者だったということになります。エレミヤの言うことは確かに辻褄が合っています。しかし私たちは事が起こってから判断するのでは、遅すぎるのではないかと感じます。

エレミヤは29章でバビロン捕囚に連れていかれた民に手紙を送りました。29:11はその手紙の中の一節です。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」神様は、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている」と仰います。しかし神様の計画は、偽預言者も多く、正確には私たちに伝わらないかもしれません。私たちがすべきことは計画の全容を知る事ではありません。計画を立てておられる主に信頼することです。例え計画の全容が分からなくとも、分からないなりに神様に祈り、後のことを委ねることです。極端な話ですが、もし私たちが神様の計画の全てを把握できたら、信仰は要らないことになります。信じても信じなくても、そうなるからです。私たちが信じる対象は、神様の計画ではなく、神様ご自身です。今日も神様を信じて、お祈りしましょう。

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厳粛な神様の言葉

そこであなたは、同行の人たちの目の前でその瓶を砕いて、彼らに言え。『万軍の主はこう言われる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。
エレミヤ19:10-11

 

預言者エレミヤが活動した時代は南ユダ王国の末期です。神様は南ユダ王国をバビロニアの手に渡すことを固く決めておられ、それが起こるのが目前に迫っていました。エレミヤは「ユダの人々をバビロニアの手に渡す」という神様の言葉をストレートに語らなければならなかったので、多くの同胞のユダヤ人から嫌われ、迫害を受けました。20:2には祭司パシュフルに捕らえられ、打たれたことが記されています。エレミヤは神様の言葉を正確に伝えるという正しいことを行っているにも関わらず、悪者のように刑罰を受けていました。20章にはそのエレミヤの悲痛な叫びが記されています。20:14以降には「私の生まれた日は、呪われよ」という自分は生まれなければ良かったのではないかという言葉が記されています。尋常でい困難を受けたヨブも3章で同じようなことを語っています。もしかしたらエレミヤはヨブに自分を重ねていたのかもしれません。

南ユダの王はヨシヤ王の後、目まぐるしく入れ替わります。エホアハズ(シャルム22:11)が3ヶ月、エホヤキム(22:18)が11年、エホヤキン(エコンヤ22:24)が3ヶ月と10日、ゼデキヤが11年で南ユダ王国は陥落します。神様はこのようにして南ユダ王国を破壊することを決めていました。神様はそれを示すためにエレミヤに町の門のところで、焼き物の瓶を砕いて示すように言います。焼き物の瓶は一度壊れると、元には戻りません。パズルのピースのように元の形に復元できても、穴はふさげないので前のようには使えません。この砕けた瓶を通して、神様は南ユダ王国に対する裁きの確実性と恐ろしさを示しています。

しかし神様は神様が選んだイスラエルの民を完全に滅ぼしてしまおうとはされませんでした。一つ前の章の18章では、神様はエレミヤを陶器師が粘土を使って器を制作しているところを連れて行かれます。陶器師は一度器の形を仕上げますが、気に入らなかったのか、もう一度粘土を練り直して器を作り直しました。神様はエレミヤに言います。「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか(18:6)」神様は南ユダ王国を破壊することを決めていましたが、それはもう一度、イスラエルの人々を練り直すためでした。バビロニアがユダの人々を捕囚の民として連れて行くことも、神様の計画のうちに含まれているのです。22章には、シャルム、エホヤキム、エコンヤの王たちに災いが預言されています。どれも悲しい預言です。しかしエコンヤに対する預言には、バビロンの王ネブカドネツァルがエコンヤをバビロンに連れて行くことが書かれています。エコンヤはエルサレムに帰ることは出来ませんが、その地で生き延び、彼らの子孫は再びエルサレムに帰ることになります。そしてもはやイスラエル王国としての王座につくことはありませんが、ダビデの血筋は絶たれず、その子孫としてイエス・キリストが生まれることになります。この時すでに神様はそこまで計画をなさっているのです。神様の言葉はどのような言葉であっても、必ず語られた通りになります。人間はその計画の全てを見通すことは出来ません。しかし神様が私たちに対する愛をもって計画を立てておられることを信じたいと思います。

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他に類のない神

主よ、あなたに並ぶものはありません。 あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。
エレミヤ10:6

 

旧約聖書エレミヤ書に入りました。エレミヤ書は南ユダ王国の晩年、バビロン捕囚に向かう時期に、預言者エレミヤが神様から言葉を受けて語ったものです。エレミヤは書記官バルクと行動していたことが書かれていますから、エレミヤが語り、バルクが記したと考えられます。エレミヤ書は必ずしも年代順に並んでいませんので、少し読みづらい点もあるかもしれません。エレミヤ書で語られている内容は、真の神様に立ち返ることです。ユダの人々が偶像崇拝から離れ、弱い者を虐げず、公正を行う事です。この点についてエレミヤは多くの人を非難し、特に王や祭司、他の預言者たちと真っ向から対立したので、多くの迫害を受けることになりました。このためエレミヤは苦悩の預言者というイメージが強い人です。

10章には、真の神様と偶像の対比が書かれています。ユダの人々は、当時、パレスチナで熱心に信仰されていた神々を拝んでいました。聖書の語る真の神様だけを信じると言いながら、他の神々も取り入れて熱心に信仰していました。神様はユダの人々にそれは裏切り行為であるということを語っています。またそれらの偶像がいかに力のない神々であるかを語っています。それらは「木工が、なたで作った物(10:3)」にすぎず、「銀と金で飾られ(10:4)」美しいのですが、「釘や槌で、ぐらつかないよう打ち付けられ(10:4)」なければ自分を支えることもできません。また「ものも言えず、歩かないので、運んでやらなければならない(10:5)」ものです。偶像とは神々であると人々は言っていますが、そこらの木片と同じであるという鋭い批判を投げかけています。ですから「そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ(10:5)」と言っています。

それに対して真の神様は、他に並ぶもののないお方です。聖なる神様とよく言います。「聖なる」とは、この世のどんなものとも違うという意味です。聖なる神様は世界の始まる前からおられました。そしてこの世界の全てを造られました。私たちも生活に必要な物をいろいろと作りますが、私たちが作った物が、私たちと全く同じになることはあり得ません。陶芸家は自分の個性を写した魂のこもった作品を作りますが、作品は陶芸家ではありません。作った方(創造者)と、作品(被造物)は根本的に違います。聖なるとは、世界を創られた神様(創造者)と、この世界のすべてもの(被造物)とは根本的に違うという事を意味しています。ですから真の神様と偶像は根本的に違うのです。

真の神様はこの世界を創られたのですから、すべての事をご存知です。そして私たちにとって良いもの、良いことを備えて下さるお方です。「地に恵みと公正と正義を行う(9:24)」方です。ですから私たちは偶像を恐れることなく、真の神様だけを信頼して歩むことができます。神様は神様を信頼する人を大いなる力によって守り、導き、助けを与えて下さいます。主に信頼して、私たちの抱えていることを神様に打ち明け、神様の導きを待ち望みたいと思います。

Michelangelo [Public domain or Public domain]
ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂天井画のエレミア

お祈りの課題

  • 昭島教会集っておられる方々、ご家族のために
  • 10-11月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • クリスマス、新年の集会案内のチラシが用いられるように
  • クリスマス礼拝、祝会、キャンドルサービスのために
  • 青梅教会のために