9月28日ヨハネの福音書15章1-11節「わたしにとどまりなさい」

今回お読みした聖書箇所では、イエス様にとどまることが何度も強調されています。ぶどうの木と枝のように、切り離されることなく、ただ一本の木につながり続けるようにと語ります。ここまでの聖書箇所の中で、イエス様と私たちの関係について何度も語られてきました。私たちは今、イエス様を直接見ることも、お会いすることも出来ませんが、この地上での歩みの中で、確かな結びつきをもって共に足を進めることが出来ます。そのつながりをもって生きることを教えておられます。なぜ私たちが他でもなくイエス様とつながる必要があるのか。そして、とどまるように語られるこのぶどうの木を通して、私たちは何を受け取ることが出来るのか。聖書を順に追いながら共に見ていきたいと思います。

本論

前回までの箇所は、イエス様の平安が与えられることが語られました。世が与えるのとは異なる、イエス様による平安によって、私たちは神様を見上げながらイエス様とともに試練を乗り越えることが出来ます。イエス様ご自身がその生涯を持って示された平安が、今私たちのうちにあること、また聖霊によってイエス様の語られる御言葉と教えを知り、ともに歩む恵みが約束されたことを確認しました。

十字架を前に弟子たちの不安を取り除き、励ますイエス様は、15章に入り今度はご自身と繋がることを弟子たちに教えます。イエス様はここでご自身をぶどうの木に、そして私たちを枝に、父なる神様を農夫に例えて語られます。旧約聖書において、地上で神様のわざを行うイスラエルの豊さの表現としてぶどうが用いられてきました。預言者たちは、神様が丹精込めて育てたぶどうの木として、イスラエルのことを語られました。イザヤは神のぶどう畑と、エレミヤは純種の良いぶどうの木というようにたとえられています。このぶどうの木は、神様がエジプトから優れた良い土地へと植えられたとも語られています。しかし、このぶどうのたとえは、良い意味だけに用いられたわけではありません。イザヤは次のようにイスラエルに預言を語っています。

Is. 5:1        「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。

そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。 わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。

Is. 5:2        彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、

                  その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、

ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。

 神様が手をかけて心待ちにしていたぶどうの木は、期待していた良い実を結ばなかったと語ります。「ぶどう畑に対して何かわたしがしなかったことがあるか」と訴えかける神様の御言葉の中には、神様への愛と従順を拒み、農夫の思いから離れてしまうイスラエルへの怒りが見られます。神様はその長い歴史の中で、神の民たちに絶えず愛を注ぎましたが、ふさわしい実が結ばれず、その結果さばきを下されました。

そのような旧約の歴史を経て、神様はこの地に一本のまことのぶどうの木を植えました。イエス様はここでご自身がそのまことのぶどうの木であり、ご自身の父が農夫であるとはっきり示されました。「まこと」と訳されているギリシャ語は、名前や外見だけでなく、その名前にふさわしい本当の性質を持つものを示し、模造品に対する実物を意味しています。旧約の時代では未完成であったぶどうの木は、イエス様によって完成を見ることになります。そしてこのまことのぶどうの木から本当のぶどうが育ち、農夫が心待ちにしたぶどうの木が完全に成就するのです。この木と農夫のもとで、枝となり、実を結ぶようにとイエス様は新しく教えています。ぶどうの木として、イエス様との親密なつながりの中に生きるということは、そのぶどうの農夫である父なる神様のもとで生きるということです。ぶどうが多くの実を結ぶために、刈込を入れて、適切に管理していきます。イエス様というまことの木につながった後も、その枝は絶えずきよくされる必要があるのです。イエス様につながる枝となるだけでなく、すでにイエス様の枝となった者たちが、もっと実を結ぶために整えられ続けるのです。イエス様は、ぶどうの枝として弟子たちを教える中で、彼らがすでにきよいと示しています。それは、枝自体にきよめる力があるのではなく、イエス様が話したことばによってきよいとされています。イエス様の語られた教えによって、イエス様がどのようなお方であり、どのような御心があるのか示されてきました。そのイエス様の言葉を受け入れた十一人の弟子たちは、確実に実を結ぶ者となるように、手入れをされているとイエス様は明らかにしました。

イエス様とつながり、イエス様の教えによってきよいとされた弟子たちに、イエス様はさらにご自身にとどまるように命じています。

John 15:4  わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

このとどまるという言葉には、元の言葉で見てみますと命令形であるだけでなく、継続的な意味を強調しています。イエス様とのつながりは、その時の行動や思いだけで完了するのではなく、つながったその時から絶え間なく、途切れることなく続く関係へと入ることで成し遂げられるのです。すでにまことのぶどうの木につながり、農夫によって整えられ、実を結ぶように大切にされた枝が、そこから出発してイエス様と互いにとどまり合う関係へと進んで行きます。

イエス様がこの箇所でとどまることを強調するのは、イエス様の中にこそまことの命があるからです。ぶどうの枝は、木から与えられる水分や栄養によって成長し、実を結びます。枝自体には実を結ぶ力も、成長する力も与えられていないために、とどまって命を与えられる結びつきが必要なのです。木から注がれる栄養によって、枝は生き生きと成長し、とどまることで多くの実を結ぶことが出来るのに対して、ぶどうの木にとどまらない枝についてもここでイエス様は語ります。とどまらない枝は実を結ばないだけでなく、集められて火に投げ込まれるために結果的に燃えてしまうと教えています。たとえ一時的に木につながっていても、途中から離れ、とどまることをやめる枝は、実を結ぶことが出来ずに枯れていきます。イスカリオテのユダは、十字架の前夜までイエス様たちとともにいましたが、最後までとどまることをせずに離れてしまいました。表面的にはイエス様を信じていても、途中まではイエス様のもとに従っていても、本当の意味でイエス様につながり、信じなかったユダは、枯れた枝としての道を歩むこととなりました。その時だけでなく、イエス様との日々のつながりのうちにこそ、まことの命があり、恵みが注がれていくのです。イエス様は、同じぶどうの枝でも、まことのぶどうの木にとどまるかどうかではっきりと区別しています。

ぶどうの枝としての話から展開し、イエス様はご自身にとどまることについてさらに一歩話を進めます。

John 15:7  あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

John 15:8  あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。

7節のわたしの「ことば」というのは、イエス様の御言葉やメッセージ全体というよりも、その言葉を構成する個々の発言を指し示す単語です。ここまでの聖書箇所で、イエス様にとどまり、従うことの大切さが語られてきましたが、その同じ真理を、ことばにとどまるという異なる形で表しています。イエス様が語られた一つ一つのことばが心のうちに深く根ざし、私たちのうちにとどまり続けることで、内側から生き方を変えられていくのです。イエス様の行動とことばを正しく知り、イエス様に従う心から求める声は聞き届けられます。私たちの欲望が全部かなえられるというのではなく、私たちのうちにとどまるイエス様とことばによって、イエス様ご自身の祈りの言葉となり、父なる神様の御心にかなう形で応えられるのです。イエス様とともにささげた祈りが確かにかなえられることによって、信じる人は多くの実を結ぶことが出来ます。そしてその多くの実りが、農夫である父なる神様の栄光へとつながっていきます。前の箇所では、父なる神様と子なるイエス様が、互いに栄光を与え合うことを教えられました。この栄光の関係に、私たちも加えられ、私たちの実りの多さによって、神様の栄光の道が開かれていきます。私たちはイエス様にとどまることで、イエス様も私たちのうちにとどまり、共にささげられる祈りは御心に従った祈りとなってかなえられ、実を結び、本当の意味での弟子となり、その生き方が神様への栄光にまでつながっていくのです。

イエス様はご自身に、そのことばにとどまることに加えて、愛にとどまるように続けて教えます。

John 15:9  父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。

John 15:10  わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。

父と子の間には決して断ち切ることが出来ない大きな愛があります。そしてその愛は神様たちの関係だけで終わるのではなく、私たちにも同じように注がれています。父なる神様は、そのひとり子をお与えになったほどに、そして子なるイエス様は、その命を捨てるほどに、私たちへの愛を示されます。父と子の関係は、イエス様と弟子の関係の規範として語られます。イエス様は、十字架の道を受け入れ従ったことによって神様への愛を示されました。イエス様が神様への従順さによってその愛に応えたように、私たちもイエス様への従順によって、戒めを守ることによって愛を表すことが出来るのです。信じる者たちのイエス様への愛が、イエス様への従順の源となり、その愛の実在が表されていきます。

イエス様がここまでとどまることを強く語られたのは、イエス様の喜びが私たちのうちに満ちるためであると目的を最後に語ります。戒めを守ることは、私たちを苦痛や厳しさによって縛り付けるのでなく、イエス様との生ける交わりを保ち、まことの命を得る喜びへとつながっていくのです。それは、イエス様が神様との交わりを喜ばれたように、御言葉に従う私たちに喜びを分かち合うという約束です。

適用

長い歴史の中で、人々は神様以外のものを求め、信頼し、様々なものにとどまり続けました。いつの時代においても、人が生きていく中でとどまるのに相応しそうな木がいくつも立てられてきました。あるいは、何かにとどまること自体を諦め、自分のうちにとどまることを選ぶ人もいます。しかし、私たちにまことの命を与える木はイエス様ただお一人です。イエス様を通して私たちは、新しく生まれ変わり、イエス様と一体とされ、豊かな実を結び、神様の栄光を表す証し人とされます。そして、完全な愛をもっておられるイエス様と、確かな愛の交わりを持つことが出来ます。それは、朽ちるもの、過ぎていくものが与える虚しい喜びでない、神様とイエス様が持っていた確かな喜びです。

唯一なるまことのぶどうの木にともにとどまりたいと思います。私たちがイエス様にとどまる時、私たちのうちに確かにイエス様がとどまります。十字架の贖いによって勝ち取られ、イエス様を通してはっきり示された神様の愛が私たちにこれからも注がれていきます。私たちの心を開き、イエス様とつながる道に進んで行くことが出来ますように願います。そして、イエス様にとどまり続け、愛と喜びに満ちる信仰の生活をともにもっていきましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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