10月5日 出エジプト記13:1-16 「私たちは神様のものです」 

13:1 【主】はモーセに告げられた。

13:2 「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」

13:3 モーセは民に言った。「奴隷の家、エジプトから出て来た、この日を覚えていなさい。力強い御手で、【主】があなたがたをそこから導き出されたからである。種入りのパンを食べてはならない。

13:4 アビブの月のこの日、あなたがたは出発する。

13:5 【主】は、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の地、主があなたに与えると父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地にあなたを連れて行かれる。そのときあなたは、この月に、この儀式を執り行いなさい。

13:6 七日間、あなたは種なしパンを食べる。七日目は【主】への祭りである。

13:7 七日間、種なしパンを食べなさい。あなたのところに、種入りのパンがあってはならない。あなたの土地のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。

13:8 その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、【主】が私にしてくださったことによるのだ。』

13:9 これをあなたの手の上のしるしとし、あなたの額の上の記念として、【主】のおしえがあなたの口にあるようにしなさい。力強い御手で、【主】があなたをエジプトから導き出されたからである。

13:10 あなたは、この掟を毎年その定められた時に守らなければならない。

13:11 【主】が、あなたとあなたの父祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに与えられるとき、

13:12 最初に胎を開くものはみな、【主】のものとして献げなければならない。家畜から生まれ、あなたのものとなるすべての初子のうち、雄は【主】のものである。

13:13 ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、首を折らなければならない。また、あなたの子どもたちのうち、男子の初子はみな、贖わなければならない。

13:14  後になって、あなたの息子があなたに『これは、どういうことですか』と尋ねるときは、こう言いなさい。『【主】が力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから導き出された。

13:15 ファラオが頑なになって、私たちを解放しなかったとき、【主】はエジプトの地の長子をみな、人の長子から家畜の初子に至るまで殺された。それゆえ私は、最初に胎を開く雄をみな、いけにえとして【主】に献げ、私の子どもたちの長子をみな贖うのだ。』

13:16 このことは手の上のしるしとなり、あなたの額の上の記章となる。それは【主】が力強い御手によって、私たちをエジプトから導き出されたからである。」

導入

 13章では神様が初子を神様に捧げなさいということを中心に語られ命令されています。この初子を献げる儀式はイスラエル人に神様が彼らをエジプトから救い出したことを思い出させるためのものとなります。彼らが救い出されたことは贖われたということであり、罪の贖いにつながっています。言い換えれば、代価を支払うことによってイスラエル人の解放がもたらされたのです。

 また、この教えはイエス・キリストというお方とその十字架の御業に深く結びついていて、私たちが罪から解放されて救われたことを理解する助けにもなります。エペソ1:7で使徒パウロは「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。」と教えています。私たちが「贖い主」と口にするたび、十字架が思い出され、心はイエス様のご愛で満たされます。イエス様が私たちに救いを与えてくださっただけでなく、そのために大きな代価を払ってくださったことを私たちは忘れてはなりません。

本題

 初子を神様に捧げ聖なる者として区別しなさいと、神様は命令されました。初子を神様に捧げることがとても大切でしたので、神様ご自身がその儀式を始めに定められました。それゆえその日は守られなければなりませんでした。

 「神様が私たちをエジプトから、その罪と悪による隷属状態から救い、解放された日」はとても大切で決して忘れてはならないことでした。人々が創造され、救い出されたことが大切でしたので、初子の息子だけでなく初子の動物も捧げるように神様は望まれました。つまり人が持つすべてのものは神が与えてくださったものであり、神様によって贖われ、救われ、解放されたものでした。神様こそが唯一真実の生きておられる主、人類の創造主であり贖い主であるこの事実を、民を導き出した偉大な過越の祭りと救いによって表されました。そして神の民の心に刻まれてわすれてはならないことでした。そのために永遠に守る初子を献げる儀式が設けられました。そして「初子、それはわたしのものだ」と神様は宣言され、初子となる子や動物が生まれるたびに神に捧げられることが求められました。

モーセは神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出されたことを覚えているように人々に命令しました。エジプトは世界を象徴しており、世界のそして一人一人の罪に対する奴隷状態からの解放を象徴していますので、悪を象徴する酵母が入ったパンを食べてはなりませんでした。そして、私たちの生活の中にいかなる悪も許さず、取り去ることを教えてくれています。私たちは、いかなる悪も食べたり、それを体内に取り込んだり、分かち合ったりしてはならないのです。

  また神様が救い出してくださった大切な日でしたから、イスラエルの民はその日その月を忘れてはならず、私たち信仰者も神様が救ってくださった大切な日、回心の日を決して忘れてはなりません。それは神様が私たちを贖い救われた日だからです。

  神様が約束の地「乳と蜜の流れる地」へ導かれた後も、この救いを記念した儀式を毎年必ず守ることも命令されています。約束の地カナンは天国と、霊的な信仰の勝利と平安・安息の状態を象徴しています。霊的にどれほど成熟しようとも、キリストにおいてどれほどの平安と安息の状態や経験を達成しようとも、私たちは回心の経験、恵みを決して忘れてはなりません。それは神様が私たちを罪から救い出し、天の約束の地へ向かう歩みを前進させてくださった大切な日だからです。

 その祭りを守りながら、神様が救い出してくださったことを決して忘れないように息子に語り伝えるように告げられています。現代に生きる私たちも、主が私たちをこの悪から救ってくださった大きな出来事を、子どもや周りの人々に伝えねばなりません。

 この神様が成し遂げてくださったことは、手の上や額の上で目に見えるかたちでしるしとし、常に忘れないようにするほど、ユダヤ人にとって重要なことであり、毎年定められた時に守らなければならない掟となります。今でもユダヤ教の人が、額と左手にみことばの巻物が入った小箱をつけている姿を見ます。

 アブラハム契約で約束されていますように、これから神様がイスラエルの民をカナンに導き入れられますが、カナンは約束の地、すなわち天国と救いと勝利、また平和と安息を象徴していました。

  そのカナンの地が与えられる時、最初に胎を開くものはみな、神様に献げられることを求められました。それは、イスラエル人に、神様こそが彼らの命の源であること、唯一の生けるまことの神様であることを思い起こさせるためであり、また、エジプトの奴隷状態から彼らを救い出し約束の地を与えた方を思い起こさせるためでした。

 動物の初子は屠られ主に捧げられるべきでしたが、人の初子は命をとられることなく、贖われるべきでした。この規定は、神様が決して人間の生贄を許さなかったという大切なおしえでもありました。ここでは、羊の初子を身代わりとして殺し、それを主に献げ、男子の初子は神様の御手から返していただくことになります。民数記18章16節では家族の長子は五シェケルで贖われると書かれています。

親は子どもたちに、主ご自身が、その力強い御手で、奴隷の地エジプトからイスラエルの民を救い出されたこと、エジプトに対して神様が裁かれたことを伝え、エジプトのすべての初子、人と家畜を打たれたのは主ご自身であったことを伝えることが求められます。そして、その裁きの中で血による贖いに守られ、主御自身の力強い御手をもって、イスラエルの民をエジプトから救い出されたから、過越しの祭りを守り、羊の初子を身代わりとして殺し、それを主に献げ、長子を贖い、神様の御手から返していただくのだと告げられました。

結論

 1節で神様はモーセに「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」とおっしゃいました。

 聖別という言葉が出てきますが、神様の聖なるものとして区別するということです。初子を聖別する真の目的は、家族全体が神様に属して、聖別されていることを示すことでした。初子は家族全体を代表し、すべての子孫、女の子や他の男の子たちをも代表していました。長子は家族の初穂で、その子を聖別することは、その母のお腹から生まれた他のすべての人々を聖別することでした。

 私たちの父なる神様は私たちの創造主です。私たちは創造されたことによって神の子ですから、神様は私たちの賛美を受ける権利を持っておられます。しかし私たちは救われたことによっても神様のものであり、それが贖いの儀式の大切な部分です。神様は私たちを造られただけでなく、救ってくださったのです。これこそが、私たちが人生を神様に仕えることに捧げるべき理由です。神様は私たちを創造してくださったことと贖い出してくださったことの二つのことによって、私たちの正当な父であられるのです。

 ここで出エジプト記はキリストの十字架につながっていることを、私たちに教えています。テトス2:14でパウロは「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」と証言しています。イエス様が私たちの贖い主であるということは、イエス様が私たちの代わりに十字架上で死んでくださったということです。しかしもしイエス様が私たちの贖い主でないなら、私たちは永遠の滅びへと向かってしまうでしょう。

 イスラエルの人々はまさに家庭を築き始めたばかりであり、最初に行ったことの一つが、その子を神に捧げることでした。神様は贖いの道を用意されました。羊の初子で代価を支払い、贖うことによって、彼らが捧げた息子は、神様の奉仕のために親に返されるのです。

 この贖いの儀式は、子供たちが実のところ自分たちのものではなく、神様のものであることを親に理解させる助けとなります。クリスチャンの親がこの同じ教えを学ぶ一つの方法は、子供たちを洗礼や献児式で捧げることです。子どもたちを教会に委ねるとき、親たちは子どもの救いが神様の恵みだけによるものだということを認めるのです。子どもたちを返されたとき受け取るのは、子どもを所有しているからではなく、神様の栄光のために神の教会から子どもたちをゆだねられたからです。

 子どもは私たちの利益のために存在するのではありません。私たちは子どもたちを神様に委ねるべきです。この真理を理解していた人物がアブラハムでした。神様はアブラハムに、愛する一人息子イサクを全焼の生け贄つまり焼き尽くすいけにえとして捧げるよう命じられました。アブラハムは命令に従い、ついに息子を殺そうと刃物を上げたその瞬間、神様が身代わりの雄羊を藪に角を引っかけさせて贖いの用意をしてくださっていたのです。

 アブラハムは父親であることの意味を深く理解していたようです。彼はイサクが自分のためではなく神様の喜びのためにあることを知っていました。だからこそ、神様のために捧げる覚悟ができていたのです。

 イスラエル人たちがこの教訓を学んぶ方法は、子どもが誕生した時に神様に捧げることでした。贖いの羊をささげ、息子を買い戻すことで、親は子どもが神様と神様の栄光のためにあることを学びます。

 イスラエルはかつてエジプトの地で奴隷でしたが、贖いによって、彼らは奴隷状態から完全なる自由な者として移されたのです。そして私たちは、自らの喜びのためにも、親の喜びのためにも造られたのではありません。神様の喜びのために造られたのです。ですから、人生を神様に委ね罪の奴隷状態から解放されるまで、真の喜びを見いだすことはできません。

 自分の生き方を決める時、誰のために造られたかを知ることによって全てが変わります。何を見るか、体をどう使うか、誰と時間を過ごすか、あらゆる選択において、私たちの一番の関心は自分自身や両親を喜ばせることではなく、ご自身の栄光のために私たちを救ってくださった神様を喜ばせることです。

 驚くべきことに、私たちを贖うために、神様は御自身の長子である御子を献げてくださったのです。ローマ8:32で、「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡されたのです」とありますように、私たちは最高の代価をもって贖われたのです。贖いには常に身代金の支払いが伴いますが、私たちは神の御子の血によって贖われたのです。使徒ペテロがⅠペテロ1:18-19で「あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」と証言しているとおりです。

 この高価な贖いが意味する一つのことは、私たちがもはや自分自身のものではなく、神様のものだということです。出エジプト記における贖いは、神様が信仰者を聖別されることと密接に関係しています。人々が贖われる目的は、神様を礼拝し、奉仕するために聖別されることでした。使徒パウロがⅠコリント6:19-20で「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」と語っていますように、私たちの贖いには神様ご自身が、御子の御姿によって大きな代価を支払われたのです。今や私たちは永遠に神様のものなのです。時間もお金も肉体も才能も、私たちの全て、が神様のものです。

 贖いがとても高価なことは確かです。それは神様にとって高価であるとともに、私たちにとっても高価です。なぜなら、贖われた私たちは持っているものすべてを差し出すよう要求されているからです。しかし同時に、贖いは私たちのあらゆることに対する安全の源であり、すべての希望の根拠にもなっています。

ローマ8:29でパウロはイエス様を「多くの兄弟たちの中での長子」と呼び、へブル12:23では神の民を「天に登録されている長子たちの教会」と表現しています。これは、イエス・キリストによって贖われた者は皆、神の家族の一員であるということです。贖いの目的は、私たちすべてを神の子、天の父の子どもたちにするためです。子どもたちが贖われることを通して神の子となること以上の大きな特権はありません。

 王である神さま家族に属することは素晴らしいことです。それは、キリストによる贖いによって、私たちが神様である王の家族に属することを確約するものです。イエス様は私たちすべてを高く上げる計画を持っておられます。私たちは毎日、イエス様の思いと祈りの中にあり、イエス様は全存在をかけて、私たちを罪の奴隷から、神様の恵みによって与えられる栄光へと回復させるために導いておられます。

 私たちは神様に属する神の子、神の家族であり、信仰によりイエス様と一体とされ、イエス様を頭とするキリストのからだです。ですから、イエス様の大宣教命令と一体となり、天国に向かって、神様のご愛を回りの人々に伝えてまいりましょう。

About the author: 東御キリスト教会

Leave a Reply

Your email address will not be published.