序
ヨハネの福音書を共に読み進めてきて、イエス様の十字架の前夜の箇所をこれまで見てきました。いわゆる告別の説教と言われるこの場面も結びに入ります。ここまでの話の流れで、イエス様の十字架の意味とこの世に来られた意味が語られてきましたが、弟子たちは正しく理解することが出来ずにいました。イエス様が捕らえられ、十字架にかけられた時、弟子たちは恐れ、失意の中にありました。しかしイエス様がよみがえられた時、彼らの悲しみは喜びと希望に変わります。今回の箇所は、聖書で語られ続けてきた世の救いが実現された、イエス様の十字架と復活について私たちに教えています。しばらくの間、私たちの心は闇を見て落ち込むことがあっても、イエス様の十字架によって喜びへと変えられます。ここで語られるイエス様の十字架と復活の意味はどのようなものなのか、そして、私たちはどこに喜びを見出すのか、共に見てまいりましょう。
本論
前回では、私たちのもとに来られる助け主について見てきました。イエス様は今の時代には地上におられませんが、イエス様はむしろそれが益となると語りました。私たち一人ひとりに遣わされた聖霊を通して、全世界でキリストが証しされ、真理が示され、そして人々を光のもとに招きます。聖霊の導きの中で、今の世においても私たちは励まされながら信仰の歩みを持つことが出来ると教えられました。
聖霊が来られることを証した後、イエス様は再びご自身が十字架の道を歩むことを伝えます。そして加えて「しばらくするとわたしを見ます」と十字架の後の復活についても示されました。
John 16:16 しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」
イエス様はこれまでも弟子たちにご自身の歩む道、つまり十字架の苦難について何度も語ってきました。十字架で苦しみ、死にて葬られ、復活を遂げることこそ、イエス様がこの世に来られた理由です。今、人の子が苦しみを受け、旧約で預言されてきた救いの時が訪れようとしていましたが、弟子たちはその言葉の意味と真理をまだ正しく理解できずにいました。イエス様の語る「しばらく」とは、そして「父のもとに行く」とはどういうことなのだろうか。イエス様を救い主と信じ、付き従ってきた弟子たちであっても、その救いがどのようなものなのか、そしてイエス様がどのようなお方なのかを完全に知るのは、聖霊が降った後です。「何を話しておられるのか私たちには分からない」という弟子たちの言葉が、彼らの困惑した様子を表しています。彼らは互いに論じ合いながらもイエス様に直接聞くことはしません。イエス様が語られる内容について議論する弟子たちの様子はこれまでも見られましたが、今回の箇所はこれまで以上に弟子たちの疑問と困惑の様子が細かく描写されています。
イエス様は、「しばらくすると」という言葉を二回繰り返しました。ここでは、同じ期間を二重に指しているのではなく、しばらくすると、イエス様は彼らのもとから離れて見えなくなるが、その後イエス様と再び出会う時が訪れるという意味で、イエス様は語られました。イエス様が語られたしばらくという二つの言葉は、第一にイエス様の時が来て十字架につけられ、死にて葬られることによって見なくなる時と、第二にイエス様が死から復活されることで弟子たちと再会する時を指しています。
イエス様は、弟子たちの疑問に対して直接的に応えることはしませんでした。その代わりに、しばらくすると彼らに訪れる悲しみについてイエス様はこのように応えます。
John 16:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
John 16:21 女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。
女性の産みの苦しみによる例えは、旧約聖書の預言者たちも用いていました。預言者たちはこの例えをもって、イスラエルが地上の敵から救い出され、その結果として実現する新しい生活を民たちに語り続けました。そして地上における救いに限らず、約束されたメシア的救いの到来によってもたらされる計り知れない安堵と喜びの前に、神の民が耐えねばならない苦難の比喩として表され、弟子たちもまた、イエス様の先にある希望へと目を向けるように語られています。
ここでは弟子たちと世との比較がなされています。弟子たちが悲しみ、世が喜ぶ時がしばらくすると訪れるとイエス様は語ります。ここでの泣くという動詞と、嘆くという動詞は、人の死や葬式での場面でよく用いられる言葉です。近東地域の慣習であった、人の死に対して大声で泣き叫ぶことや嘆きを表します。イエス様がいなくなるということは、ただ肉体的にイエス様の姿が見えなくなったという悲しみを引き起こすだけでなく、イエス様を信じずに排除しようとした世の思いが勝ったように見える時が来るということです。イエス様の十字架の死は、信じる者と、そうでない者とでは大きく受け取り方が大きく異なります。嘆き悲しむ弟子たちに対して、イエス様に反対するこの世界は、イエス様を十字架という方法によって決定的に排除したことを喜ぶようになります。少なくともしばらくの間、弟子たちはイエス様を見なくなる現実を耐えなければならず、イエス様と反発するこの世界は、罪を明らかにしてきたイエス様が地上から去ることで喜びます。
しかし弟子たちの感情は、イエス様の復活によって逆転します。死に対する悲しみが、死に勝利し、生きる神イエス様との出会いによる喜びとなるのです。自分の時が来たと21節で記されていますが、この時という言葉は、ヨハネの福音書の中で常にイエス様の死と新時代の到来に関連付けて用いられています。イエス様が再び来られることによって、死による悲しみは過ぎ去り、新しい歩みを進めていくのです。産みの苦しみという比喩は、イエス様がその死によって死に打ち勝ち、贖われた人々が永遠のいのちを持つことを可能にし、死者の中からよみがえられた初穂として、私たちに死からの解放を表現しています。弟子たちの嘆き悲しみは、一時的なものであり、永遠に変わることのない喜びへと変えられるのです。すべてを照らすまことの光として世に来られたイエス様は、その十字架と復活によって、イエス様に反発する者を含むこの世を照らし、人々を喜びへと招くのです。
John 16:22 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
弟子たちの悲しみは、差し迫っているだけでなく今も彼らの心を埋め尽くしています。ここまでの箇所の中でイエス様は彼らから離れる事を語り、弟子たちは心を痛め、困惑してきました。彼らの悲しみは後に訪れるイエス様の捕縛と十字架の実行によってピークとなります。しかし彼らの悲しみも、イエス様との再会によって喜びに変わり、その喜びは誰にも奪われることなく永遠に続きます。イエス様の復活は、その時だけの喜ばしい過去の出来事で終わるのではなく、新たな創造の時代の到来、そして私たちにとって益となる聖霊の到来の前兆だからです。イエス様が罪の贖いのために死の道を歩まれたことは、悲劇の出来事で終わるのではなく、その後に来る永遠の喜びへと繋がり、その苦痛を忘れるほどになります。
イエス様の復活の後に弟子たちが味わる喜びは、新しいいのちの喜びです。女性が産みの苦しみを忘れるほど、新しい命の誕生を喜ぶように、イエス様によって与えられる新しいいのちは他に代えがたい喜びを私たちにもたらします。私たちはイエス様の復活を通して、より直接に、そして確信をもって神様と交わることができるようになります。イエス様と再びお会いするという一時の喜びに終わらず、弟子たちとイエス様を信じるすべての者は、復活による新しいいのちの確信に満たされ、そして助け主なる聖霊による新たな時代の始まりによって、心は喜びに満たされるのです。この喜びは何者によっても妨げられることはありません。イエス様に反発し、罪の支配に満ちた世においても、あらゆる攻撃や闇の力によっても、私たちのために復活された世の光は隠されることなく輝きます。イエス様は死を打ち破り、私たちに揺るがない勝利をもたらし、今の世においても信じる者たちの支えとなっているのです。
イエス様の復活が成し遂げられる時、弟子たちの信仰は十字架の前とは大きく変化します。そして、信じる者たちの祈りは、父なる神様へと向かいます。
John 16:23 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。
John 16:24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。
弟子たちはイエス様に尋ねなくなる代わりに、イエス様の名によって父なる神様に求めるようになります。イエス様の十字架と復活の後で、彼らはイエス様を正しく知り、もはやわざわざ疑問をもって尋ねるという必要はなくなります。その代わりに、彼らの求めは父なる神様へと向かっていくのです。
イエス様の復活を受け、その御心を深く知るようになった彼らは、かつて不可能であった大いなることが出来るようになります。それは、父なる神様が、十字架においてイエス様が勝ち取られた勝利のゆえに、彼らの祈りを聞いてくださるということです。イエス様は、この祈りによる恵みについても、「まことに、まことに、あなたがたに言います」と確実性と重要性をもって強調して語ります。この教えは15:16でも、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父が与えてくださるように」と弟子たちに語られました。イエス様はここで改めてその約束を確かな真実として宣言されます。弟子たちはイエス様と行動を共にする中で、それぞれの思いの中で願い事をして、問いを投げかけていましたが、イエス様の名によって父に求めるということはしませんでした。これから訪れる新しい時に、その特権が信じる者たちに与えられます。クリスチャンは、イエス様にとどまり、イエス様の愛と御言葉こそが祈りの実を結ぶための基盤であることを信じて、神様に求めていくのです。イエス様が復活されたことで、新しく結ばれた神様との関係は、私たちの祈りに確信を与えてくださいます。
・適用
イエス様の十字架の死による贖いと、復活による勝利はすでに実現されました。そして今を生きる私たちにも、その喜びが与えられます。イエス様は十字架の死によって私たちの罪のために犠牲となられ、確かな救いの道を開かれました。しかし、イエス様は犠牲の死によって罪に敗北したのではなく、罪と死による支配を打ち破り、勝利を治め、私たちに復活の希望と恵みを与えてくださいました。神の御姿から人の姿となり、神であられながら人としての制限と限界を受け入れ、人の最大の限界である死にまで従いましたが、そのままで役割を終えるのでなく、死をも超えて打ち勝つ神の御子としての姿を現し、栄光を受けました。私たちは、眠った者の初穂としてよみがえられたイエス様を通して、復活の希望を抱き、新しいいのちの約束に確信を持つことが出来るのです。世におけるあらゆる苦しみや困難を超えるイエス様の勝利が、私たちを導いてくださいます。
私たちはこのお方にあって神様との関係も新しくされます。祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によってお祈りします」という言葉によって締めくくるのは、形だけのものではなく、私たちの祈りがイエス様によって応えられ、与えられ、受けることが出来るという確信の表れなのです。私たちが喜びに満ち溢れるように、再び世に来られたイエス様が、今も生きて成し遂げてくださるのです。
結
私たちは、イエス様の十字架と復活を覚えながら、約束された恵みに感謝していきたいと思います。世を愛しておられる神様は、イエス様を通して、新しい関係を結ぶこと、そして新しい永遠のいのちに与ることを私たちに求めています。私たちはイエス様の姿によって、イエス様の御名によって、世の悲しみが過ぎ去るほどの喜びに満たされます。私たちが神様の招きに応じ、その御前に向かう時、約束は果たされます。今、神様との新しい関係に入り、イエス様のもとで新たないのちの道を歩みましょう。イエス様を通して与えられる喜びを共に分かち合いましょう。


