序
十字架の前夜にてイエス様は、ご自身が弟子たちのもとから離れ、これから十字架の苦しみと復活の栄光の道を歩むことを示し続けてきました。弟子たちや当時の多くのユダヤ人たちは、これからイエス様がイスラエルをローマ帝国から解放し救うために動き出すことを期待していました。しかし、彼らの期待に反してイエス様が語られたのは、人々から離れ、見えないところに行ってしまうという宣言と、その先にある神様の真理と、本当の意味での救いについてでした。前回の箇所では、特に弟子たちがイエス様の言葉とこれから訪れる時について知ることが出来ず、困惑している様子が見られました。しかし、そんな弟子たちに対してイエス様が語られたのは、地上からイエス様が取り除かれるという不安ではなく、復活による希望と喜びでした。イエス様は贖いの死によって役割を終えるのでなく、死に打ち勝ち、信じる者たちの悲しみを喜びに変えてくださるのです。イエス様の十字架と復活、それによって私たちは世において失望することなく、天におられる主を見上げて信仰を持つことが出来ることを教えられました。
そして今回の箇所では、世に勝利されたイエス様の励ましが力強く、はっきりと語られ、一連の説教が締めくくられます。最後の晩餐、ユダの裏切りの後にイエス様から弟子たちにずっと語られてきた御言葉と真理は、私たちの平安へと結びつきます。困惑し続けた弟子たちが復活後にどのようにして喜びに満たされるように導かれたのか。世における勝利を治めたイエス様が私たちに何を残して下さったのか。共に聖書から教えられたいと思います。
本論
イエス様は、ここまでの聖書箇所で弟子たちに対してたとえを用いながら話してきました。イエス様が世に遣わされた意味、父との関係、神の御子であられながら死に渡されること、そして再び弟子たちと会うこと、これらの真理は、イエス様の教えを普通に聞いていた弟子たちには理解することが出来ませんでした。十字架の時が来る前は、群衆たちに向けて分かりやすく聖書や神様の教えを語られ、人々に感心と驚きを与えましたが、イエス様の御言葉の本当の意味は、イエス様の死、そして復活の中に示されている神様の啓示によって明らかにされます。
イエス様はここで語られるたとえというのは、21節にある女性の産みの苦しみのようなたとえ話に限らず、イエス様がこれまで語ってこられた教え全体における謎めいた、不明瞭で不思議な表現を指しています。弟子たちを困惑させたこのたとえが、はっきりと伝えられる時が訪れるのです。それは、新しい内容が語られるというよりも、これまですでに弟子たちに与えられた啓示や御言葉が、より深く豊かに明らかにされるということです。最後の晩餐に限らず、イエス様の公生涯や働きの中で、すでに示されてきたイエス様の真理は、イエス様の復活後、はっきりと知るように導かれます。それは12,13節で語られたように、イエス様が天に昇られた後に来られる真理の御霊、助け主なる聖霊によってなされるのです。
John 16:12 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
John 16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
今の弟子たちは正しく教えを知ることが出来ず、十字架の時になると逃げ出してしまいますが、彼らが真理をはっきりと知る時が実はすぐそこに迫ってきているのです。そしてその時が訪れると、彼らの祈りは変えられます。イエス様が天に昇られ、弟子たちが聖霊に満たされる時、彼らはイエス様の御名によって求めるようになります。私たちが祈りの最後に、イエス様の御名によってお祈りしますと結ぶのは、父がイエス様の名によって与えてくださるという確信の表れです。イエス様はここで改めて弟子たちの祈りの変化を語るだけでなく、「わたしの名によって」という表現が、神様と彼らの関係を遠ざけているのではないことを教えているのです。信じる者たちがイエス様のみに向かって願い、願いを受け取ったイエス様が彼らの代わりに父に伝えるという意味ではなく、むしろ神様と信じる者たちが直接つながり、願い求める関係へと進むことが出来ると語られているのです。信じる者たちは、自分自身の言葉で祈り、イエス様の御名によって確信が与えられ、父なる神様がその声を直接聞いて与えてくださる新しい恵みへと招かれていきます。イエス様は、父なる神様が祈りを受け、応じて与えてくださる理由としてこう語ります。
John 16:27 父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。
John 16:28 わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」
イエス様の使命がここに簡単にまとめられています。イエス様は、父なる神様のもとから世に遣わされ、人となられた神様です。そのイエス様が今十字架の死を受け、復活された後に再び父のもとに行き、栄光をお受けになります。イエス様が神様のもとから遣わされ、今父の御許におられることを、愛と従順によって受け入れる人々を、神様は愛されます。私たちがイエス様を愛することで、神様が愛してくださるという教え自体はこれまでも語られてきましたが、ここではイエス様が父のもとから出て、復活後に父のもとに行くという信仰が基盤となります。
イエス様が示されたご自身の使命を聞いた弟子たちは自信をもって、イエス様が語られたこと、そして「イエス様がどのようなお方なのかが今分かりました」と言います。イエス様は十字架と復活の後に、はっきりとイエス様のことが知らされる時が来ると語りました。弟子たちは今、イエス様からこれまで語られてきた教えについて困惑するのではなく、神様から来られたイエス様の信仰告白へと繋がっていきました。彼らの信仰の根拠は、もはや誰も疑問をもって尋ねることがない、その必要がなくなるほどにイエス様がすべてをご存じであることです。弟子たちは、イエス様が何を言っているのかわからずに互いに議論していた時、イエス様は彼らが何かを尋ねたがっていることに気づいて、彼らが質問するまでもなくイエス様の方からその疑問に答えました。人々の考えていることもすべて知っておられるイエス様を見た弟子たちは、先ほどまでの不安や困惑した様子から一変して、今、イエス様を知り、信仰を持つ確信を宣言します。
しかし、弟子たちの信仰の告白に対して、イエス様の反応はあまり良いものではありませんでした。
John 16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
John 16:32 見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。
弟子たちが告白した信仰が誤っていたわけではありません。しかし、イエス様の復活によって与えられる信仰と喜びに満たされる体験は、まだ彼らのものとはなっておらず、信じていると断言できるのは今ではないとイエス様は語ります。彼らは自信をもって信じますと宣言しますが、彼らの信仰はすぐに激しく揺さぶられることになります。しばらくすると、彼らの持つ自信は失われ、信仰による一致は一度完全に崩されます。イエス様は、そのように迫ってくる弟子たちの試練と、それによって散らされることすらもすべて知っておられました。ゼカリヤ書13:7で弟子たちがイエス様から離れ、一人残されることが預言されています。「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の主のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける」弟子たちの信仰告白は真実ですが、試練や迫害を前にして散らされてしまう不確かさがありました。彼らは、羊飼いのいない羊のように散らされてしまい、羊飼いは彼らのために一人でいのちをささげることになります。イエス様たちを覆う闇の時はすでに来ていて、弟子たちは古い自己中心の生活に逆戻りさせられてしまいます。しかしイエス様は彼らの信仰が崩されることを知った上で、彼らに警告を残し、試練の先に彼らの信仰が確実に建て上げられる時が訪れることを教えてきたのです。
イエス様は羊たちのために命を捨てる羊飼いとして、十字架の道を歩みます。しかし、その道は孤独の道のりではありません。神様の愛を示すためにご自身を犠牲としてささげられる間も、父がわたしとともにおられるのです。罪なきイエス様が罪を背負い、罪の本質である神様との断絶を味わう時、イエス様は「どうしてお見捨てになったのですか」と、その苦しみを受けます。しかし、その時を除いて、受難の中にいるイエス様には父なる神様がともにおられ、イエス様もその確信のうちに歩みを進め、ご自分の霊を父なる神様にお委ねになります。
最後にイエス様は弟子たちへの平安を約束して話を締めくくります。
John 16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」
ここまで数章にかけてイエス様が弟子たちに教えたのは、彼らの不信仰を責めるためでなく、彼らの挫折を明らかにし用心するように警告を残すだけでなく、それらを超えて彼らに回復を与え、クリスチャンに確かに訪れる勝利による励ましを与えるためでした。まことのぶどうの木であるイエス様にあって、クリスチャンは枝として繋がっていることで平安を保証されるのです。弟子たちは、確かにこの後訪れる十字架の時、今確信している信仰を失い、恐れをもって逃げ、イエス様が復活後に姿を現すまで家の中に潜むようになります。また、使徒としての活動を始めた後、多くの迫害を経験します。彼らに待ち受ける苦しみをイエス様は知り、備えるように呼び掛けるとともに、それらを超えるイエス様につながることによって、内なる平安と喜びにあふれ、勇気を持つことが出来ます。イエス様が復活された後の時代は、弟子たちにとって喜びに満たされる時なのです。イエス様はその確証として、世にすでに勝ちましたと宣言なさいます。勝つという動詞は原文のギリシャ語でnikaōという言葉になります。このnikaōは単なる克服ではなく、敵を打ち負かす力強い勝利を表す言葉です。さらに原文では完了形という形をとっており、この勝利がすでになされたと確実性をもって語られていることが分かります。神様に敵対し、イエス様に反発し憎む世において、最後にイエス様は完全なる勝利を収めます。イエス様が十字架にかけられることによって世は喜びますが、この十字架の死こそがイエス様の勝利を決定づけます。イエス様の勝利は、信じる者たちにも分かち合われます。罪によって闇に覆われた世の中で、クリスチャンはイエス様という世の光に従うことでもはや闇の中を歩むことなく、いのちの光を持ちます。イエス様が天に昇られた後も、イエス様が勝ち取った平安が、永遠に人々のうちに残されていきます。
適用
イエス様が収めた勝利は、その時だけの恵みではなく、永遠に私たちの上に注がれます。罪に縛られた世界において、光が見えないような闇の世界において、私たちはイエス様の十字架と復活によって光に満ちた世界へと歩むことが出来ます。弟子たちはイエス様と活動や生活を共にして、十字架の前までは自信をもってイエス様を信じますと告白しました。しかし、人の心にある確信は世において揺さぶられます。弟子の一人のペテロは「あなたのためなら、いのちも捨てます」とイエス様に付き従う覚悟を示すほどに確信を持っていました。しかし、いのちを捨てるとまで宣言したペテロでも、三度もイエス様を知らないと言い逃れ、付き従うことが出来ませんでした。弟子たちは皆イエス様を一人残して逃げ出しましたが、彼らはその後使徒となり、教会を建て上げ、迫害の中で宣教を続けました。イエス様による勝利が、彼らに勇気を与え、聖霊によって真理を知り、喜びの中で永遠のいのちの道を進むことが出来たのです。世における困難は、常に私たちに襲い掛かります。どれだけ自分の中に確信があっても、その自信は揺るがされてしまいます。しかし私たちは、すでに世に勝利されたイエス様によって、揺るがされない確かな土台を築き上げることが出来ます。死に打ち勝ち、復活によって光を明らかにされたイエス様は、私たち一人ひとりに勝利を分け与えてくださいます。
結
今私たちは世間を見渡すと、私たちを悩ませ、つまづかせ、逃げ出したくなるような混沌とした世界を目の当たりにします。そのような世の中で、私たちはイエス様にあって勝利したと確信を持つことが出来ます。イエス様にとどまり、結びつく中で、私たちは復活の勝利の恵みに与るのです。だからこそ、私たちはこの世の困難の中にいても、イエス様にある平安を確信することが出来ます。イエス様は私たちに勇気を出しなさいと励ましてくださいます。表面的な言葉でなく、イエス様ご自身が世のすべてに打ち勝ち、闇の中で光を輝かせてくださっているのです。父なる神様、子なるイエス様、助け主なる聖霊によって、私たちは闇を恐れることなく、いのちの道へと進み出ていきます。この確信をもってイエス様につながり、勝ち取られた平安の内に歩んでいきましょう。


