序
イエス様の十字架の受難の直前の場面をこれまで共に見てきました。そして前回からイエス様による大祭司の祈りと呼ばれる17章に入りました。大祭司として父なる神様にとりなしの祈りをささげる場面です。前回はその中でもイエス様ご自身のための祈りを見てきました。イエス様がかつて父なる神様とともに持っていた栄光を今、現わすことも求めます。御子の栄光は、信じる者たちを永遠のいのちへと導きます。父と子の深い結びつきによって十字架が栄光になり、そしてその関係に中に私たちが入ることを神様が待っていることを教えられました。
今回の箇所では、弟子たちのための祈りが記されています。天にのぼり地上から離れるイエス様は、地上に残される弟子たちを思い、とりなしの祈りを捧げます。そして、世において弟子たちが聖別され、聖さを守られるために、イエス様ご自身も聖別されることをここで告げています。イエス様が弟子たちのためにとりなした祈りとはどのような内容なのか、そして十字架における私たちの意味はどのようなものか、共に教えられたいと思います。
本論
イエス様がご自分のために祈られた後、弟子たちのために祈るようになります。イエス様がここで世界全体のためにではなく、ご自身の弟子のために祈るのは、彼らが父なる神様からイエス様にくださった人々だからです。今回の箇所では、神様がこの世から選び出し、与えてくださった弟子たちが、この世とはっきり区別される者たちであることが強調されています。罪に溢れ、神様から離れた世の一部であった者たちから、神様によって選び出されて神様に属する者となった弟子は、イエス様に属する者となります。イエス様は彼らに、神様の御名を明らかにしました。つまり、神様の存在、ご性質、その御心をイエス様を通して人々にはっきり示されたのです。ことばが人となって世に来られ、人々の間で父なる神様をその生涯を通して証しし続けてきました。イエス様が父なる神様の力によって行われたわざと、神様によって示された教えは、人々を驚かせ、またイエス様が神の御子であり、神様に遣わされた方であることを知らせたのです。これまでの歩みを通して、父と子の関係を示したイエス様は、弟子たちがこれから使徒として立ち、聖霊によって確かな信仰を立て上げることを確信します。世から選び出された弟子たちが、他の者たちと異なり、イエス様のわざと教えを神様からのものとして受け入れ、イエス様が神様から来られた方、また、神様から遣わされた方であることを信じる信仰者として変えられることを、イエス様は宣告し、そして父なる神様に祈りをもって語ります。
これまでの聖書箇所でも見られたように、弟子たちはイエス様のことばを完全に理解していたわけではありませんでした。しかし、イエス様と神様との関係を信じ、イエス様が語る言葉が、神様から示された真理として受け入れます。多くのユダヤ人たちは、父なる神様と子なるイエス様の密接な関係を否定し、イエス様を神の子として受け入れませんでした。イエス様を否定する世の多くの者たちと区別されて、弟子たちは、イエス様が神様のもとから出て来たことを本当に知り、神様がイエス様を遣わしたことを信じたとイエス様は確信を持って語ります。
イエス様は世のためではなく、あなたがわたしに下さったそのような人たちのためにお願いをもって祈ります。イエス様は世を見捨てたというわけではありません。神様は世を愛しておられるために御子を遣わされ、また御子は世の救い主と呼ばれるお方です。イエス様がここで信じる者たちを強調して祈るのは、彼らが神様のものだからです。世は神様に対して反逆し、敵対する立場にあるため、神様のものである信じる者たちに、特別な祈りと助けが必要なのです。イエス様はさらに、信じる者たちが神様のものであることは、イエス様のものであることも示します。これまで何度も明らかに語られた父なる神様と子なるイエス様の一体性が、ここでも現れています。世に残される弟子たちは、この一体性の中に加えられ、父と子に属する者として立つことを知らされます。イエス様は彼らから栄光を受けましたと完了形で語られていることから、この栄光は確かに、すでにイエス様に与えられています。弟子たちはイエス様と共に歩み、完全ではなくともイエス様を受け入れたことによって、彼らを通してイエス様の栄光が世において現わされるようになるのです。世界が始まる前に、神様と一緒に持っていた栄光を求めるイエス様は、この栄光に対しても確信します。弟子たちはこの後に躓いてしまいますが、彼らが映し出す信仰の光を見つめ、彼らによってイエス様の栄光が失われることなく、むしろ現わされることを知っていました。そのため、イエス様はご自身の栄光である弟子たちのために祈ります。
イエス様が彼らのために祈る理由として最後に挙げられるのは、彼らのもとからイエス様が離れようとしている事実です。これまで語られたように、イエス様はご自身が受難を受けることを「父のもとに行く」という表現で語られました。イエス様はもはや世から離れ、父のおられるところに向かいます。そのため、イエス様は11節でこのように求めます。
John 17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。
イエス様が地上におられ、その周りに弟子たちを共にいる時代は過ぎ、これからはイエス様を信じる者たちの群れが世の中に立つ時代となります。イエス様ご自身が神様から受けた御言葉を語るのでなく、残された弟子たちが救いの良き知らせを宣べ伝え、神様の計画を行うようになります。そしてこの群れを通して、世にイエス様の栄光が現わされていきます。しかし、その群れは神様と敵対する世からの攻撃を受け、立ち向かわなければなりません。そこでイエス様は、彼らのためにとりなすために、聖なる父によって守られることを求めます。聖なる父という呼び方は、ヨハネの福音書の中ではこの箇所にのみ見られます。この呼び名は、神様の聖さと父としての人格的な側面を表しています。父として神様に近づくことが出来る関係があると共に、聖なるという表現から、私たちが祈り求めるお方が神様であることを思い起こします。そしてそれだけでなく、17節以降にある聖別への道筋を整えています。イエス様の聖さ、そして信じる者たちの聖さの根源は、この聖なる父との関係に結びついています。そして「あなたの御名」という表現は、ここでは、名前そのものに限らず、その名を帯びる者の力を示します。イエス様が世を離れてからは、弟子たちを守る力は、父なる神様ご自身によって働かれるのです。神様と弟子たちの深い結びつきによって、守ってくださる力に確信が与えられるのであり、イエス様は十字架の後に訪れる時代に必要なものです。イエス様と神様がそうであったように、私たちもその確信が与えられ、父と子とともに一つとされるのです。
イエス様が地上で弟子たちとともにおられた間は、イエス様ご自身が神様の御名において彼らを保ち、また守っておられました。唯一の例外であったのはイスカリオテのユダが滅びたことです。しかしユダの裏切りは、神様の計画と目的をくじくことはなく、むしろ神の計画の中で救いのわざを成就するために用いられました。ユダの裏切りと滅びの子としての預言は詩編41:9にあります。
Psa. 41:9 私が信頼した親しい友が 私のパンを食べている者までが 私に向かって かかとを上げます。
ユダはイエス様たちと共に食卓を囲みながら、宗教指導者たちにイエス様を売り渡すことでかかとを向けるという預言の成就へと繋がりました。このユダを除いて、イエス様は十字架にかけられる前は、イエス様を通して、神様の御名によって弟子たちが守られていたのです。
十字架にかけられる前、イエス様がこれまでの箇所の中で語られた目的は、イエス様の喜びが彼らのうちに満ち溢れるためであったと語られます。イエス様の喜びも、弟子たちの喜びも、父なる神様の愛に留まることによって与えられます。イエス様は、喜んでご自身を犠牲にささげました。そうすることによって父なる神様への従順を表すと共に、世における悪に対する決定的な勝利を収めることを確信しておられたからです。イエス様が十字架の上で示された自己犠牲的な愛が、その喜びの根拠となります。イエス様はご自身が去った後、弟子たちが福音を宣教することによって、人々にこの喜びを分かち合われ、満たされることを祈っておられます。
イエス様の祈りは、弟子たちが神様とイエス様に属する者であると共に、世に属さない者であることを示しています。しかしイエス様は、弟子たちが彼らに敵対する世から取り去られるようにとは祈りませんでした。彼らが世から取り去られることは、弟子や教会に対する神様のご計画が実現されないことになるためです。キリストを証し、その愛を世に分かち合うという働きのために、世にとどまり、イエス様の祈りに応えてくださる神様に守られる必要があります。世におけるあらゆる悪に勝る神様が、その御手を伸ばして守ってくださいます。
イエス様はその生涯を通して、神様の御心を全うされました。残された弟子たちも同じように、その使命のために遣わされ、使徒としての召命を全うすることが出来るように、このように祈りました。
John 17:17 真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。
John 17:18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
John 17:19 わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。
十二弟子たちは、福音書の中では使徒と呼ばれていません。しかし、イエス様の祈りの言葉は、彼らが使徒としての使命をもって遣わされた者であることを示します。父なる神様は、罪を犯し、罪の奴隷となった人々をご自分のもとに招き、和解をするためにイエス様をこの世に遣わされました。今イエス様は、ご自分に代わって使命を達成するために、弟子たちを世に遣わすのです。弟子たちは使徒として、イエス様の十字架によって成し遂げた和解を、良き知らせとして宣べ伝え、神様の愛を世に映し出すために、イエス様にあって世に遣わされていきます。神様は聖なるお方であり、神様にささげられた人や物も聖なるものと呼ばれます。父なる神様は、信じる者たちを導くために助け主なる聖霊を送り、真理に満たされ、聖別された者としてその使命を果たすことが出来るようになります。その真理は、神様のみことばであり、神様が恵みによって与えたみことばによって一致することが求められるのです。
イエス様は彼らのために自らを聖別されます。それはヨハネの福音書の中で示された御子の使命である十字架の死と復活にイエス様が従うということです。弟子たちが使命のために仕え、そのために聖別されるのは、イエス様がご自身の命をささげて死に渡されたことによるのです。イエス様は、弟子たちのために、またこれから弟子になるすべての人のために、自らが大祭司として、また世の罪を取り除く神の子羊として、いのちを捨て、ご自身を聖別されました。旧約聖書の時代は、祭司が動物のいけにえをささげる前に、祭司自身が聖別しました。しかし、新約聖書の時代は、罪のない完全な大祭司であるイエス様ご自身が、完全ないけにえとして、罪のない聖いいのちをささげました。この完全ないけにえによって、弟子たちは罪をきよめられ、聖別された者とされるのです。
結
私たちを聖め、私たちを守るために大祭司としてとりなしてくださるお方に共につき従っていきたいと思います。私たちはこの世にあって、クリスチャンとして歩むことに難しさを覚えることがあります。世の悪が敵対することもあります。そのような世にあって、私たちは神様による守りに確信を抱くことが出来るのです。イエス様がすでに私たちのために祈りをささげてくださいました。私たちは神様とイエス様によって守られ、そして一つとなって歩むことが出来ます。そして、イエス様はその命をもって、私たちをこの世から聖別してくださいました。このお方のみことばによって、私たちは今の世の中においても、クリスチャンとして生き、その使命を全うすることが可能とされたのです。私たちのためにとりなしてくださった大祭司イエス様のもとで、また、あらゆる悪から守ってくださる神様のもとで、信仰の歩みを進めていきましょう。
