序
イエス様による大祭司の祈り、ヨハネの17章に入ってから今日で三つ目の箇所となります。前回は、地上に残される弟子たちのためにとりなすイエス様の姿を見てきました。罪に覆われ、御子イエス・キリストと対立する世において、弟子たちが守られるように、そして彼らが真理によって聖別されることをイエス様は祈り願いました。弟子たちは後に使徒となり、イエス様から遣わされて世に福音を宣べ伝え、真理であるみことばによって一つとなって広がりました。イエス様が天に昇られた後も、地上に残された弟子や、今を生きる私たちは、神様の御名によって守られているという確信が与えられています。
今日の箇所では、最後に世界に広がる、イエス様の御名を信じる、世のすべての人々のために祈りをささげます。真理によって聖別された弟子たちによって、世界宣教の働きは広がりました。イエス様のいた時代から2000年以上経った今、クリスチャンの数は大きく広がり、そして今も世界各地でイエス様の御名を宣べ伝える働きが拡大されています。イエス様はそのことを見越して、信じるすべての人々、これから信じる人々のために時代を超えて祈ります。イエス様から使徒たちに、使徒たちから世界の人々に広がるイエス様の御名と栄光が、そして神様から注がれた愛が、私たちを一つにします。信じるすべてのクリスチャンのために、そして世がイエス様を信じるために、イエス様が祈り求めたみことばを共に見ていきましょう。
本論
イエス様は、今この場で共にいる弟子たちに限定して祈るのでなく、時代や場所を超えて、信じる人々のために祈りました。20節には「彼らのことばによってわたしを信じる人々」とあります。それは使徒たちが直接宣教活動を行ったことで信じる人々のことだけでなく、その宣教のことばが霊感によって記された新約聖書を通して信じる人々も指しています。新約聖書の御言葉は、聖霊の助けと導きによって使徒たちが書き記したことばです。旧約聖書を含めて、聖書を直接書き記した人や、記された時代は異なっていても、その背後におられる著者は神様ただお一人であり、同じ聖霊によってこの聖書66巻は記されました。今を生きる私たちも、聖書に記されている使徒たちのことばを通して神様を見て、イエス様を信じる信仰へと導かれます。私たちが今お読みしているヨハネの福音書でも、書き記された目的が20:31でこのように語られています。
John 20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
世の人々が、この聖書のみことばを通して唯一の御子イエス・キリストを信じ、永遠のいのちへと導かれることをイエス様は求めました。聖別された使徒たちの働きは、時代や場所を超えて、世のすべての人々にいのちを与えるまでに至ります。
イエス様が御言葉によって信じる人たちに願ったのは、すべての人が一つとなることでした。
John 17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
ただ一つとなるのではなく、父なる神様と子なるイエス様の一体性の中に、私たちが加えられることをイエス様は求めておられます。これまでの聖書箇所から、父と子の一体性を見てきました。目的において、愛において、意図において一つに結び合わされており、その関係は決して崩されることはありません。今イエス様は、その結びつきを人々が持ち、父と子と共に結び合わさるように語ります。それはぶどうの木に一本一本の枝がしっかり根ざして、つなぎ合わされているような深い結束です。また、かしらのもとで体の各部分が他の部分と結び合わされ、一ヵ所が痛めば共に痛み、一ヵ所が喜べば全体が共に喜ぶほどの密接なつながりです。神様とイエス様のうちにいて、いのちを得るためにまことのぶどうの木にとどまり、枝から実を結び、木全体で一つとされるようになります。それは表面的で、形式的な一致ではなく、キリストの愛によって形成される一致であり、いのちの源である木の幹から与えられる一致なのです。
この世は、父と子のうちにある一体性を帯びたクリスチャンの一体性を見て、イエス様が世に遣わされた御子であることを信じるようになります。イエス様は私たちに、互いに愛し合いなさいという新しい戒めを与えました。信じる者たちの間に愛があるなら、彼らがイエス様の弟子であることを認め、弟子たちを通してイエス様と神様を見るようになります。イエス様は、信じる者たちのために祈りを終えるのではなく、信じる者たちを通して、世の人々にイエス様が証しされ、そして信じる者が世から起こされる宣教の広がりに至るまで祈りました。父と子における信じる者たちの結びつきは、世が信じるように導かれるしるしとして現わされていくことが求められます。クリスチャンの相互関係で閉じるのでなく、御子イエス・キリストが救い主であることが証しされるために私たちは用いられ、そのためにイエス様は一つとされることを父に求めました。
イエス様は、父と子との一致にならって信じるものたちが一致するための要素として、栄光を与えたと語ります。イエス様が神様から与えられ、そしてクリスチャンに与えた栄光は、十字架においてはっきり現わされました。それは、イエス様が世に遣わされた使命であり、大祭司としての最大の働きです。イエス様は、弟子たちが真理によって聖別されるために、十字架という道によって自ら聖別されました。十字架によって明らかにされた栄光は、イエス様だけでなく使徒たちや信じる者たちにまで与えられ、神様のもとで一つとなるときに、その栄光は地上においてさらに広がります。クリスチャンのうちにイエス様がおられることが明らかとなり、そのイエス様の栄光の中で、彼らは完全に一致されます。そして、クリスチャンの一致にとどまらず、世においても、イエス様が救い主であること、そして父が子を愛されたように、私たちも愛してくださることが知られるようになっていくのです。
23節の御言葉を見てみますと、21節の内容を同じように繰り返しているように見えますが、イエス様はここでいくつか言葉を加えながら更に祈りの言葉を展開しています。
まず21節では「一つになる」ことを求めていたのに対して、23節では「完全に一つになる」ように語られています。もう一つは、21節で世が知るのはイエス様が父なる神様に遣わされたとあるのに対し、23節では神様がイエス様を愛されたように、私たちも愛してくださると語られます。イエス様の祈りは、私たちが完全に一つとされること、そして、父と子を結び付ける愛の豊かさを、私たちにも分かち合うように祈り求めます。
「完全に」という言葉は、ヨハネが記した福音書や手紙においては愛に結びついて頻繁に用いられています。つまり、信じる者たちの一致は、その目標である完全さに近づくにつれて、イエス様が神様から遣わされたことを証しするだけでなく、クリスチャン自身が父と子の間にある愛によって囚われていることを示すのです。クリスチャンの間に示される父と子の愛こそ、イエス様の真理を最も表す証しであり、世に知らされるべき福音です。イエス様における一致は、私たちや私たち以外のすべての人々を神様の豊かな愛に招き、罪の世界から人々を引き上げてくださるのです。
神様の愛の招きと、世に知らされることが祈られた後、イエス様は24節でご自身の栄光を信徒たちが見ることができるように「父よ」と呼びかけながら望みます。ここではイエス様の方から、私たちと共にいることを願っていることが分かります。すべての信じる者たちが完全に一つとされるためには、高く上げられたイエス様の生きた交わりを保ち、世界が創造される前から永遠にもっておられたイエス様の栄光を見つめる必要があります。このイエス様の栄光は、十字架の贖いを成し遂げ、復活の勝利を収めた時、大きく輝くようになります。クリスチャンが互いに愛し合うために、イエス様の十字架と復活の中にある大いなる栄光を仰ぎ見ることが求められます。この地上においては、父なる神様においてイエス様と一体とされます。そして来る日には、父なる神様の御許で、永遠の栄光の中におられるイエス様と共にいる恵みに与ることが出来るのです。
イエス様は再び父を呼び求め、祈りを閉じます。
John 17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。
John 17:26 わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」
最後は「正しい父」に対して呼びかけています。この正しさは、この世に対する義をもっておられるお方を表しています。そしてここでもイエス様と神様に対立する世との対立が示されます。弟子たち、そして現代の信徒である私たちは、元々正しい神様とは相容れない罪の存在でした。しかしイエス様は、神様の愛を受け、神様と一体とされるお方であり、この世が決して知ることの出来ない神様の聖さと正しさを知っておられました。弟子たちやクリスチャンは、イエス様を通して正しい神様を知り、イエス様の十字架と復活によって、神様に義と認められるようになります。イエス様は生きている間だけでなく、これからも神様の御名を知らせます。イエス様は公生涯の中で宣教の働きに仕え、その御名を人々の間に知らせ、そして弟子たちを始めとして多くの人々が信じるようになります。今その生涯と宣教の使命を終えて十字架に向かうイエス様は、地上から去った後も神様の御名を示し続けるのです。神様の御名、つまり父なる神様と御子なるイエス様が同一であり、一体である真理は、聖書の御言葉を通して語られます。
イエス様がこれからも継続して神様の御名を知らせる目的は、父と子の間にある愛が私たちの間にも広がるためです。クリスチャン一人一人が愛に満たされるだけでなく、信徒たちが互いに愛し合うところに、神様からの真の愛が現れるように、イエス様はこの世に神様を証し続けます。十字架と復活の勝利はイエス様の栄光を現し、神様の愛を現実に示す大きな御業なのです。私たちは神様の御名に正しさを見る時、神様の愛がうちに宿り、またイエス様のご臨在を確信します。イエス様が使命を果たされた後も、私たちのうちにイエス様がおられ、その愛に満たされ、世にはない豊かな恵みに導かれていくのです。
適用
イエス様の大祭司の祈りは、最後に愛の御言葉によって閉じられました。私たちはこのイエス様の祈りによって神様から注がれた愛に満たされていきます。そして父と子の関係に加えられます。しかし、私たちと神様とイエス様の間にある結びつきは、個人の範囲で終わるものではありません。イエス様は、御名を信じる人々が完全に一つになることを求めました。イエス様がここで語られるのは、世の中に見られる表面的な組織や、分かりやすく目に見える形での結びつき、利益や損得、努力に基づく関係、そのような地上における一致でなく、主あって私たちが完全に一つとされることを望んでいるということです。私たちはイエス様が祈られたように、外面的な一致でなく、父と子の間に存在する結びつきを求める必要があります。私たちがその完全な結びつきを持つことが出来るのは、神様の愛に他なりません。私たち一人一人が十字架と復活によって成し遂げられた罪の赦しを経験し、愛の源である神様につながり、とどまるところに愛が注がれます。私たちが同じ神様からの愛を受けた者として、今度は互いに愛し合い、父と子にある愛の結びつきをお互いに実現したところに、完全な一致が現れるのです。この愛によって私たちが一つのぶどうの木として成長し、またキリストをかしらとする一つの体として固く結びつき、一体とされるのです。私たちが教会の中で、努力や利益、または世の中に見られる形での一致を求めて、神様の愛を後回しにし、互いに愛し合うという戒めを失う時、たとえ一時的にまとまったとしても、キリストの体としての一致は崩れてしまいます。私たち自身が、イエス様の十字架の死によって注がれたまことの愛に満たされ、そして互いに温かい愛の交わりを持つことで完全に一つとされるのです。父と子がそうであったように、この結びつきは決して揺るがされることなく、固く保たれます。そして私たちの一致は、私たちだけで完結されることなく世の人々にイエス様を知らせることとなります。神様の愛は、とどまることなく全世界へと広がるのです。
結
イエス様の大祭司の祈りをここまで三回に分けて見てきました。これらの祈りは、この地に残される弟子たち、そして時代や場所を超えたすべての信徒たちのためにささげられました。私たちが信じるために、そして信じた後の歩みのために、イエス様は父なる神様に願い求めました。今、イエス様のとりなしの祈りを受けて、改めて主にあって一つとなりましょう。イエス様に抗う世の中で、私たちは神様の御名のもとで集まりました。ここに集まった私たちの一致が神様の愛によって完全とされるために、イエス様は2000年前にすでに祈られました。そしてその愛が、主のご臨在が、今も私たちのうちに確かにあります。神様とイエス様から与えられた豊かな愛に満たされ、互いにその愛をもって愛し合い、そして御名のもとで共に一つとなりましょう。
