序
本日は東御キリスト教会で毎年行われている召天者記念礼拝になります。一年に一回、世間ではお盆にあたるこの時期に教会で天に召された方々を心に思い、主を礼拝する時となります。教会ではこれまでも葬儀を何回も行い、兄弟姉妹との地上での別れを経験してきました。東御キリスト教会だけでなく全世界において、これまでの歴史の中において、たくさんのクリスチャンが生まれ、天に召されてきました。地上での生涯を終えた兄弟姉妹が向かったのは、この地にある故郷ではなく、天の故郷です。そして今も天の故郷にて、兄弟姉妹と共に主の御許で安らぎながら永遠のいのちに与っています。今回は先人の一人であるアブラハムの信仰を見ていきながら、私たちが目指す天の故郷とはどのようなところなのか、そして私たちが天に対してどのような希望を抱き、憧れることができるのかと共に見ていきたいと思います。
本論
へブル人への手紙の今回の箇所は、旧約時代に生きた信仰の先達がそれぞれどのように信仰の歩みを進め、そして召されたのかを確認しています。そのうちの一人であるアブラハムは、イスラエル人の父祖として、地を受け継ぐ相続人としての信仰が記されています。
Heb. 11:8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。
Heb. 11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。
Heb. 11:10 堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。
アブラハムの信仰はまず慣れ親しんだ故郷を離れて、相続地として約束された土地へと向かう従順さに現れました。行き先も知らないまま、アブラハムはその信仰によって行動に移します。8節では地という言葉がありますが、これは原文のギリシャ語では場所を特定しない場所を意味する言葉が用いられています。それによってアブラハムがまだ知らない場所に行くこと、知らされていない未来に召されたことが浮き彫りにされ、強調されています。未知の世界へと踏み出したアブラハムを支えたのは彼の信仰であり、それによって彼は目に見える現実や場所でなく目に見えないものに目を向け、神様の召しに応じることが出来ました。アブラハムの信仰はまさに、神さまの約束に心を開き、目に見える現実や形あるものに左右されることなく行動し、あらゆる困難を乗り越えるほどに信頼することでした。自ら導くのではなく、導かれ、御声に従った先にあったのは、神様が約束された土地と豊かな恵みでした。しかしアブラハムの最終ゴールは約束された土地ではなく、そこで寄留者として住み、定住するのではなく天幕での生活を送ります。イサクやヤコブも同じく他国人のようにその土地に住みますが、この宙ぶらりんな状態において、アブラハムは信仰によってさらにその先にある最終ゴールである来るべき都を待ち望みました。アブラハムの信仰による期待は、堅い基礎の上に立てられた都である天のエルサレムでした。そこは「堅い基礎」の上に立っている永遠の土地であり、神様によって定められた都です。アブラハムが入った約束の地が否定されているのではなく、イスラエルの暫定的な故郷が、永遠の故郷である天を指し示す型として用いられており、その天こそが神様が与えられた約束が成就された地なのです。この都こそ、民が神様に近づくことができる場所であり、神様の御前に大胆に開かれた聖所なのです。設計者であり建設者である神様ご自身が、その道をアブラハムたちに開き、永遠の約束へと招いて下さいました。
アブラハムが受けた祝福はもう一つあります。それは、数多くの子孫が与えられるという祝福です。
Heb. 11:11 アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
Heb. 11:12 こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。
11節でもアブラハムが主語となっています。11節の「子をもうける」という動詞は、母のお腹に子どもを宿すというよりも、種を蒔くという意味から転じて父と子どもの間の関係を示す言葉になります。信仰者としてはアブラハムが主語となっていますが、ここではサラも同じ信仰の共同体として共に信じたことが語られ、その一体となった信仰によって与えられたことが示されています。通常では出産を考えられないほど高齢となったアブラハムとサラでありましたが、彼は信仰によって子をもうける力、つまり父となる力を与えられたことによって彼らの間にイサクが生まれたのです。一見すると困難で非現実的な約束に対しても、アブラハムはその信仰によってその御声に信頼しました。それはただ願望に近いような根拠のない信頼ではなく、約束して下さった方が真実な方であると信じていたのです。アブラハムは、土地においても子孫においても、自身の行いや現実の状況ではなく神様の御言葉と御心を捉え、約束に対して忠実であられる神様に信頼して待ち望んだのであり、そこに信仰の父としての姿が表れています。アブラハムはその信仰の旅の中で危険や存続の危機に脅かされながらも、神様から繰り返し約束を確認されます。神様の御声にとどまり続け、信仰の旅を止めることなくこの地を歩み続けたアブラハムの姿は、後の時代のアブラハムの子孫、そして信仰によってキリストに属するすべての人たちの励ましとなり、神様は約束されたことを成就する力があることを信じる望みを私たちに与えました。
アブラハムの信仰を見てきた上で、13節からは信仰の先人たちの姿とその歩みを覚えながら私たちの視点は天へと向けられます。
Heb. 11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
Heb. 11:14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。
この手紙の著者は10節で約束の地について「堅い基礎の上に建てられた都」と語り、その「設計者また建設者は神」と断言しました。信仰の人として死んだ彼らは、この地上においてはどこも自分の故郷とすることなく、寄留者として、他国人として住み、神様に望みを置いてその先にある約束の成就に期待し、喜びました。特にそのような信仰が表れたのはアブラハムでしたが、旧約時代の信仰者たちの信仰は、この地上では旅人であると告白し、来る日と都を見据えることが出来ました。目には見えない神様の約束の実現を待ち望む希望がそこにあります。自分の立場を旅人や寄留者と告白する彼らは、この地上における約束の地であるカナンに満足して旅を終えるのでなく、さらに先にある故郷に憧れて待ち望むのでした。
アブラハムは神様から「自分の故郷を離れて異国の地に行きなさい」を命じられた時、自分の住処や家族、所有物に執着することなく御声に聞き従いました。また、神様から「あなたの息子をささげよ」と命じられた時、神様が止めるその時まで忠実にその御言葉に従って息子さえも手放そうとしました。彼はこの地で得たもの、この地上のものに縛られることなく、その生涯を通して地上での旅人としての歩みに徹したのです。アブラハムを含む旧約の信仰者たちは、この地上ではない故郷を切に求めます。彼らの抱く故郷に対する憧れ、切なる求めは天へと向けられていきます。
Heb. 11:15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。
Heb. 11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
故郷は、通常ではそこに住んでいた人が出て来た場所であり、帰る場所でもあります。かつて出エジプトを体験し、カナンへと旅を進めたイスラエル人たちは、その道中で何度も自分たちが出て来たエジプトを思い返し、約束の地よりもかつての故郷を求めて神様の前に反発しました。しかし、今回取り上げたアブラハムや旧約の信仰の人たちは、諦めて神様に反発して引き返すことを考えず、もはやこの地の上に目的の故郷の地を置くことをしませんでした。自分の生まれ故郷に帰ろうと思えば、そうすることはできましたが、彼らは出て来た場所ではなく、さらにすぐれた故郷を目的地とし、憧れる場所としたのです。神様を信じる者が受ける本当の報いは、この地上にある過ぎゆくものではなく、永遠なる神様のいのちに与ることです。「もっと良い」という言葉は、この手紙全体でみられる天におられる神様のご性質が、他のものよりも優れており、良いものであるという比較表現です。彼らがこの地上で到着した約束の地カナンは天の故郷の模型に過ぎないのです。彼らが求めていたのはより優れた、もっと良い都であり、神様が設計し、建築された天の住まいなのです。
彼らはその信仰によって神様の御名をほめたたえました。神様も、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とご自身を呼ばれ、特別な関係を確立します。ここで神様は「彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした」と16節で書かれていますが、神様が恥じないというのは控えめな表現であり、重要な点は、神様がご自分の民を誇りをもって呼んでおられるということです。神様は、ご自身の臨在を切に求め、その御許に近づくことを願う民を報いて下さるお方です。漠然とした故郷という言葉が最後には再び都と表現され、信仰者の行先の共同体としての姿を浮き彫りにします。神様と神の民の交わりがそこにはあり、その道はイエス様によって確かに保証されているのです。過ぎ行くこの地にはない、永遠のいのちと交わりがそこに約束されています。
適用
信仰の先人たちは、この地で神様に仕え、神様と共に歩み、自分たちの故郷はさらに良い天にあることを信じて待ち望みました。新約の時代に入り、イエス様がこの地に来られ、救い主としての使命を果たされた今、彼らが憧れ、待ち望んだ約束の成就は果たされ、神様の御許に近づく道はイエス様によって開かれました。イエス様を信じ、救われた兄弟姉妹一人一人が、この地に縛られることなく、この地で得られないもっと良い故郷にて神様と交わっておられます。都という場所は、ユダヤ人たちにとっては神様の主権の宿る場所であり、当時のギリシャ人の思想においては特別な特権が与えられる場所でありました。神様が臨在しておられる天の都は、まさに神の民の間に神様が住んでおられる豊かな交わりの場所であり、また神様の憐れみによって、イエス様を信じるすべての人に特権が与えられて招き入れられる場所なのです。
結
天に召された兄弟姉妹を思う時、彼らが今神様の臨在がある都にて平安のうちに過ごしておられることを覚えたいと思います。地上にいる私たちは、まだ天の故郷を待ち望み、憧れる者でありますが、召天された信仰者の一人ひとりは、すでにもっと良い故郷にて安らぎ、永遠の中で主の御許で過ごしておられます。この地に縛られることなく、旅人としての歩みを終え、今や天の故郷で喜びと恵みの中におられます。信じるすべての人たちは、イエス様の血によって大胆に聖所に入ることができ、イエス様を通して生ける道が開かれています。信仰によって、私たちもまた天の故郷を待ち望みつつ、都を用意してくださった神様のもとへと共に向かいましょう。


