序
聖書ではよく「平安」という言葉が登場します。ヘブル語で「平安」は「シャローム」という言葉になります。この言葉はイスラエル人たちの間でとても馴染み深いもので、日常の中で人と会ったり別れたりするときには「シャローム」つまり「平安がありますように」とあいさつをします。それほどまでにイスラエルにとって平安という言葉は親しみがありますが、私たちはどうでしょうか。教会の中でならまだしも、日常生活ではあまり平安という言葉を聞く機会はないかも知れません。では実生活ではどうでしょうか。世界的に見れば治安が良く、比較的に平安な国と言えるかも知れませんが、ニュースを見ると、不安になる情報がたくさん入ってきます。私たち一人ひとりの生活を見ても、平安ばかりでなく時には不安になることもあります。そのような中で、私たちはこれまで読み進めてきたヨハネの手紙から神様の御前で安らかにいられることを語られます。私たちがこの世で生きていく中で神様から与えられる安らぎ、確信とはどのようなものなのか、そして私たちはそのためにどのようにしてこの世で歩むのか、共に教えられたいと思います。
本論
私たちはこれまでヨハネの手紙を読み進めていく中で、互いに愛し合うという命令について繰り返し教えられてきました。それはイエス様が私たちに与えた戒めであり、兄弟を愛するところにキリストの愛が満ちます。イエス様を信じたことによって死からいのちに、罪の奴隷から神の子どもに移った私たちは、兄弟たちとの愛によって生きることができるのです。私たちのためにいのちを捨ててくださったイエス様が愛の模範となられ、このお方から豊かな愛を注がれた私たちは、真実をもって愛し合うことを進めていくように前回の聖書箇所から見てきました。
本日の箇所である19節では、行いと真実をもって愛しましょうという招きからさらに一歩進んで、私たちが愛し合うことを根拠とした平安が語られています。
1John 3:19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
愛し合うという教えから少し話が逸れる形で私たちに語られているのは、神様の御前での平安です。互いに愛し合うことについて、私たちはその難しさを思わされることもあります。しかし、他でもないイエス様が私たちにまず一方的に愛と恵みを注いでくださいました。その愛を受けた私たちが確信をもって愛し合う時、イエス様の戒めを守ったことが、真理に属することの確信を私たちに与えるのです。知るという言葉は原文のギリシャ語では未来形という形になっており、そのことが起こりえることを表しています。私たちは自分たちが真理に属する者であることを知ることができるのですが、この「真理に属する」という言葉は、原文から直訳すると「私たちは真理から出た」という文になります。真実をもって行うことの出来る者は、まさに真理から出て、そこに起源を持つものです。私たちは、表面的な愛を行う者でなく、神様から注がれた真の愛を行う者として生きる時に、神様と同じく真理に属する者とされていくのです。そのことを知る時に、私たちの心は安らかにされていきます。心安らかでいるというのは、他でもない神様の御前でのことです。真理なる神様に対して、私たちもまた真理に属することを知り、確信を持つことが出来ます。かつて罪の奴隷であり、神様から離れて生きていた私たちは今、その御前に立ち、安らかにされるのです。
神様の前での安らぎについては20節でもこのように語られています。
1John 3:20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。
私たちは兄弟を愛するということによって、神様の前に心安らかでいられますが、しばしば自分で自分の心を責め立てることがあります。責めるという言葉は、原文のギリシャ語では非難する、罪があるとみなす、悪とみなすという意味を持つ言葉です。クリスチャンの心はそのような心が責めることで平安が保たれない時があります。私たちの心は、イエス・キリストを通して与えられた神様の赦しに確信を持つことで、信じる者は、自分の罪の重さよりも、神様の憐れみと愛が大きいことを心から信じられるようになります。私たちの中に平安の確信となる根拠が見当たらなくとも、私たちは私たち以上にすべてを知っておられる方の憐れみに対して委ねることができるのです。全知であられる神様の姿は、偽の教師や義を行わない者、表面的にのみ愛するものにとっては恐ろしいことです。しかし真実をもって愛する者にとっては、確信と安心をもたらすのです。私たちはそれをイエス様にあって信じて、心から確信を持つことが出来ます。
Rom. 8:33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
Rom. 8:34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
ローマ34節の「罪ありとする」という言葉も、「心を責める」と同じ言葉になります。イエス様ご自身が私たちのとりなしていてくださるならば、他の人や自分自身が心を責めることは出来ないのです。心安らかでいるという言葉は、聖書の別訳では心に確信を抱くともなります。私たちは、ひとり子を遣わして私たちを贖ってくださった神様の愛と憐れみ、そして全知であられる神様が私たちのことをすべてご存じあること、イエス様を通して私たちはすでにその恵みに与っていること、これらの確信によって私たちは安らかでいられると語ることができるのです。
この確信に基づいた安らぎによって、私たちは自分自身でなく神様に信頼して心を委ねることが出来ます。そして確信を持った私たちにさらなる
1John 3:21 愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。
1John 3:22 そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。
子どもが父の前に出て行くように、私たちは神様の御前に心から信頼し、確信をもって進み出ます。この21節での確信を持つという言葉は、他にも「大胆に」「信頼を持ち」「自由に話のできること、何でも話す備えのあること」を意味します。キリストにあって心に責めのなくなったクリスチャンは、祈りにおいて神様に近づくことができる祝福に与ります。
そして大胆に祈った祈りは答えられます。しかしそれは心に責めがないという主観的な状況によってではなく、神の命令を守る事、神に喜ばれることを行なっている事が前提として示されています。どちらも継続の意味を持つ現在形でギリシャ語原文では記されています。つまりは、時々思い出したように神様への服従と命令を守り、その場だけで祈りが応えられるのではないということです。私たちの生活において、神様から与えられた命令にとどまり、そして神さまに喜ばれることを行うという積極的な信仰の歩みを伴うことによって、私たちは神様に求める祈りに応えてもらえるよう導かれるのです。私たちの従順な姿を見て、神様は何でもしてくださると言う約束を私たちにしてくださいました。聖霊が神の民である私たちのうちに入り、神様の御心を求める祈りを言葉にしていただき、そして、神様は私たちにその御手をもって働きかけて下さいます。
ここでヨハネは再び神の命令である互いに愛し合うという教えへと戻ります。1John 3:23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。
1John 3:24 神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。
23節での神の命令と24節の神の命令は一見同じように見えますが、24節の命令という言葉は単数形で記されています。ここで語られている一つの神の命令、それは信じる事と愛する事です。そしてこの二つは切っても切り離せない密接な関係にあります。旧約の時代から預言されてきた救い主がイエス様であり、神の御子が人となって来られたお方であることを信じ、告白することが信仰です。イエス・キリストの名を信じるということは、聖書で語られる神の御子であられるこのお方を受け入れ、とどまることにあります。そしてそのイエス様がご自身の言葉をもって命じられ、ご自身の姿をもって示された愛を私たちが守り続けるようにともここで語られます。これまでの箇所においても信仰と愛は結びついて語られてきましたが、この箇所ではその密接な関係がはっきりと聖書の言葉となって現れています。
私たちは神様の語られるこの命令を守ることによって、キリストにとどまり続けていきます。そしてそれだけでなく、私たちのうちにも神様がとどまり続けるという相互的な関係がここに表れます。まことのぶどうの木にとどまり続ける時、私たちはその木からいのちを与えられ、枝葉を伸ばし、実を結びます。木から切り離された枝はいのちを失い、実を結ぶことは出来ません。信仰告白と愛の行いによって神様にとどまる者の内には御霊が宿ります。父子聖霊、この神様の密な関係によって私たちは信仰者としての歩みを確かなものとされ、そしてその交わりに加えられ、永遠に生きる道を進むのです。
結
私たちはこのお方に対して、心から信頼し、心を委ね、確信を持っていきたいと思います。世での生活の中で、この心が不安に陥る時に、不完全な私たちのために御子をお遣わしになったほどに私たちを愛し、私たちを知っておられる神様が、私たちのうちに留まり続けておられます。このお方との結びつきの中で、ともに信仰生活の豊かな恵みを受け取り、このまことのぶどうの木なる神様にとどまりつづけましょう。そして主に在って心安らかな日々を歩みましょう。

