序
これまで見てきたヨハネの手紙や福音書において、愛自体を教えられると共に、互いに愛し合いなさいということも教えられます。私たちが愛されて終わるだけではなく、私たちもまた神様を愛し、兄弟姉妹を愛するようにと私たちに戒めとして語られました。これまでの箇所の中で繰り返し見てきた御言葉ですが、互いに愛し合うことの豊かさやそこにある恵みを教えられながらも、それを実行することが困難に思うこともあります。イエス様ご自身の言葉として、あるいはヨハネの手紙として私たちに語られながら、イエス様のように愛を兄弟姉妹に表すことを完璧にできるかと問われると、そこに難しさを感じることも少なくありません。時には愛とは程遠い憎しみや怒りなどの負の感情を相手に抱くということもあります。
私たちは世に生きる一人の人間として、神様の語られる御言葉に従うことが求められます。しかし、世と神様との間に立つとき、喜んでその御言葉に生きることもあれば、中々その通りに従うことができなかったり、世とのギャップで苦しんだりすることもあります。今回の箇所では、これまで教えられてきた愛について、この世でどのように行うのか、そしてこの世で苦しむのではなく勝利を収める道が示されています。世に生きる私たちが神様の愛と信仰に生きることがどういうことなのか、そして私たちがこれからその道をどのように歩んでいくのか、今日の御言葉から共に教えられたいと思います。
本論
前回の箇所では、愛には恐れがないことについて見てきました。まず私たちは御霊と使徒たちを通して語られたキリストの証を通して信仰を確信し、神様との間に愛の交わりをもつことになります。神様の愛は宥めのささげものとなられたイエス様が流された血潮によってはっきり示されました。そのイエス様の皆を信じることは、神様の愛を信じることです。このイエス様の贖いのわざを信じるものは、神様の裁きの日を恐れることなく、むしろ神様の子どもとしてその御許にいくことができます。私たちはもはや罪に支配された罪人ではなく、神様との関係が回復された子どもとして父との永遠の交わりへと招かれていくことになります。
イエス様を通して示された神様の愛、そしてイエス様が世の救い主として世にこられたことを信じる信仰、この二つはセットになっており、切り離すことはできません。イエス様なしに神様を信じることはできませんし、神様の愛を無視してイエス様を信じるという信仰も成り立ちません。愛と信仰の結びつきは、私たちと神様の関係、そして兄弟姉妹の関係に愛を広げていくことになります。
“イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。”
(1 John 5:1 )
一見すると、前回の箇所から流れが変わって信仰から神の子どもというテーマに移ったように見えますが、愛と信仰の結びつきについてさらに見解を広げている箇所になります。4章終盤では、神様からの愛を受けた私たちが神様を愛することと、目に見える兄弟を愛することが神様への愛へとつながることが語られました。この1節においてはその根拠が神の子どもという視点から語られています。まず私たちは神から生まれたという言葉は、ただ父なる神様と子である私たちの父子の関係を表しているだけでなく、私たちが新しく生まれた新生を表しています。そしてそれは神様から始まるものであり、聖霊なる神様によって成し遂げられ、御子なるイエス様をキリストと信じる信仰と結びついて起こることです。Ⅱコリント5:17でもこのように語られています。
“ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”
(2 Corinthians 5:17 )
これまで教えられたイエス様の救い主としての姿とわざを信頼し確信し、受け入れることによって私たちはかつてのように罪を背負った古い人としてでなく、新しくされて神の子としての歩みを始めるのです。信仰によって神から新しく生まれるという真理を示された後、その視線は同じく神から生まれたものへと向けられます。それは、御子であられるイエス様だけでなく、同じイエス様を信じるすべての人たちに対しての愛です。どのような人であっても、同じ父を愛し、同じ父から生まれたものであるならば私たちは兄弟姉妹として互いに受け入れ、その愛を互いに結び合うのです。
まことの愛は、神様が与える命令を守ることによって表れ、証明されます。神様を愛することと神様から生まれたものを愛することは分離することはできません。4:20−21では神様を愛するものは兄弟を愛することによって証明されると語られていましたが、ここでは順序が逆になり、神様への愛が兄弟への愛につながると語られています。そしてそこには神様の命令を守るという信仰の姿があります。パウロは各地の教会に手紙を書き記した際に、クリスチャンたちが互いに愛し合っていることについて神様に感謝を捧げています。神様への愛と兄弟姉妹への愛は深く結びつき、私たちはその信仰によってこの世での愛の実践へと導かれていきます。
ヨハネはこの神様の命じられたことについて何度も繰り返し私たちに教えています。
“神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。”
(1 John 5:3-4 )
神様への愛と互いに愛し合うことは、一人で行うことはできません。神様の命令を守ることによる愛は、信じる一人一人がイエス様を通して示された教えです。神様がこの戒めを与えたのは、私たちが神様から生まれた者であるために愛することが重荷とならないと表されたからです。私たちは父なる神様によって、そして聖霊の働きによって、イエス様を信じる信仰を成し遂げることができます。神様によって新しくされた私たちには、愛するということが重荷となることはないと大胆に神様は宣言されます。神様が与える戒めは、人の自由や自発性を奪うようなものでなければ、パリサイ人たちが厳守した人を押しつぶすような律法的なものでもありません。私たちはただ信仰によって罪から解放されただけでなく、この戒めと信仰によってキリストに似た者とされ、聖霊の導きの中でイエス様を模範とした神の子どもとして新しくされ続けていくのです。その戒めは簡単に守ることができるものとは限りませんが、しかし主のくびきは負いやすく、その荷は軽いとイエス様ご自身が語ってくださいました。この愛は、私たちの間だけでなく世全体にも表れ、そして世に対する私たちの勝利として示されていきます。ヨハネの手紙における世という言葉はいくつかの意味を持ちますが、この箇所においては神様に敵対し反発する罪の世界を指し示しています。以前の箇所において、この罪の世と神様が相容れないものであることが語られました。神様から生まれた者は、自らの罪を深め、満たすためのこの世の価値観に縛られることなく、イエス様の血潮によって打ち勝ち、そして他者に対する愛をなす自由を得ているのです。それゆえに私たちは神様の命令を守ることができ、それが重荷にならないと断言されるのです。世に勝つという言葉は原文のギリシャ語では現在形という形になっており、厳密に訳すと世に勝ち続けるとなります。私たちはこの世において愛についての戦いを続けていくことになります。しかし、そこには常に勝利が伴うことも同時に約束されています。その勝利の鍵となるのが私たちの信仰に他なりません。私たちは一人で世と戦うのではなく、キリストと結び合わされ、神様と共に勝利を勝ち取るものとなります。
さらにギリシャ語の原文を見て見ますと、世に打ち勝ったという言葉は、不定過去形という形になっていることがわかります。それは遠い先にある未来を指すのではなく、過去における明確な行為や事実を表します。聖書では現在形での世に勝つという継続性と、世に打ち勝ったというすでに実現した事実を私たちに語っています。
最後の5節では再び私たちの信仰へと視点を向けられます。
“世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。”
(1 John 5:5 )
神様から生まれた者はイエス様をキリストと信じ、その信仰は愛と密接に結びつきます。ヨハネがこれまで語ってきた愛と信仰がここで結び合わされ、そしてその結果が勝利として収められます。世に対する究極的な戦いはイエス様がすでに打ち勝ってくださいました。その上で私たちはこの世で生きているうちに、信仰の戦いに立ち続けて行くことになります。私たちはそのたびに、主が約束してくださった勝利の確信を持ち続けたいのです。
結
神様によって新しく生まれた私たちは、世に属するものではなく、神様に属するものとなり、そして神様と共に愛の交わりへと生きていきます。この世において神様から与えられた愛を行うとするとき、世と神様の間で苦しみ、悩むことがあります。神様から離れる罪の世界において、神様の愛を行うことは簡単とは言えないでしょう。しかし、私たちはすでに宥めのささげものとなってくださったイエス様の血潮が、父なる神様の愛が注がれています。そして、イエス様はその愛によって、十字架の上でこの罪の世界にすでに勝利を収められました。私たちに先立って世に勝利されたお方のもとで、私たちは神様の愛に倣うものとなりたいのです。私たちは神様から注がれた愛を受け取り、とどまることによって、同じ勝利を得ることができます。この後は聖餐式が執り行われます。今日の聖書の御言葉を受け取りつつ、2000年前にこの世に示された神様の愛をともに覚えていきましょう。イエス様が十字架の上で流された血潮、裂かれた肉を心に覚え、兄弟姉妹と分かち合い、その恵みに満たされるとともに、イエス様を通して示された勝利をともに受け取りましょう。


