序
皆さんは神様をイメージする時、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。ヨハネ文書の中で見られるように愛に満ちた姿を思い浮かべるかもしれません。しかしその一方で他の聖書箇所を見てみますと、罪を犯した民たちに対して怒りを注ぐ神様の姿も見られます。その聖さによって厳しく罪をさばく姿に対して時には恐ろしいと思うこともあります。
前回の箇所では、神様の愛が私たちに注がれていることについて教えられました。私たちが神様を愛したから愛されているのではなく、神様の方からまず私たちに愛が注がれているのです。それは、ひとり子であるイエス様がへりくだって人の姿となり、私たちのために自ら宥めのささげものとなって命を捨てるほどの愛です。この犠牲による愛こそ神様からの真の愛であり、私たちにいのちを与えてくださる一方的な恵みです。私たちがイエス様のいのちによって生きることができるのは、神様が愛なる方だからです。そして、この愛が私たちの内にとどまり、私たちも神様の内にとどまることによって、罪に満ちたこの世に神様の愛が示されていくのです。
今日の箇所は、神様は愛である事実をさらに確認し、理解を深める箇所になります。そして私たちがその愛にとどまり、愛を行うものとする招きがあります。私たちはこの愛の内に生きていく時に、平安の中に身を置き、恐れから解放されて神様の御許にいくことができます。私たちに注がれる神様の愛について、そして愛に満たされた私たちのこれからの歩みについて、聖書から共に教わりたいと思います。
本論
ヨハネは私たちに神様からの愛をまず語りました。そしてその上で、今度は私たちが神様への信仰を確信することができる理由をいくつか述べています。まず最初に語られているのは、私に御霊が与えられたことです。13節をお読みいたします。
“神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。”
イエス様はこの世での使命を果たされた後、天に召されました。この地上にイエス様の姿を見ることはできませんが、イエス様は信じるすべての人たちに対して、助け主である御霊を遣わしました。イエス様は十字架にかけられる前に、弟子たちに対し、聖霊についてこのように言われました。ヨハネ14;10「この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」御霊が私たちの内に住まい、私たちの内から証してくださいます。御霊によって証されるのは、神様との確かな結びつきです。私たちはイエス様を信じる時、イエス様というまことのぶどうの木にとどまる枝となる時、相互的な関係が結ばれ、父なる神様と子なるイエス様の間にある豊かな関係に加えられるのです。イエス様を救い主として、その救いのわざと十字架の上で示された愛の姿を心の中に受け入れることによって、私たちにとってイエス様は遠い昔の歴史上の人物でなく、今も生きて働かれ、今も私たちと交わって互いにとどまり合う主となるのです。
イエス様ととどまり合う関係について、私たちに確信を与えるもう一つの方法が14−15節で語られています。
“私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。”
この14節の「私たち」は、イエス様の働きを直接見た使徒たちや証人たちのことであり、この手紙を書いているヨハネもその一人です。彼らはイエス様を直接その目で見た地上での証人としてイエス様を証しし、今を生きる私たちにまでその証言が伝えられています。
この箇所で強調されているのは、神様が御子なるイエス様を世に遣わされたという点です。そしてそれが、私たちの救いのためであり、イエス様が救い主として人々の間に証されることが聖霊の大きな働きになります。この表現は、イエス様が受肉されたという現実よりも、世の救い主として来られた側面に焦点が当てられています。新約聖書において「世の救い主」という表現は珍しく、この箇所の他にはヨハネ4:42にのみ見られます。ヨハネでこの言葉が用いられたのは、井戸のそばでイエス様に出会ったサマリアの女性からイエス様のことを聞いたその地の人々が、もはや人伝でなく自分の耳で聞いて、イエス様を世の救い主として信じた場面でした。まずイエス様の証人たちによって示されたのは、イエス様の救いが信じるすべての世の人に向けて与えられるという事実であり、そこに例外がないということです。
そして15節にて神様ととどまり合う結びつきについて語られますが、ここでは神様の御子としてのイエス様に焦点を絞っていることがわかります。この手紙が書かれた当時、教会の中ではイエス様を御子と認めず、自分たちには罪がなく救われていると主張してキリスト教の信仰から分離しようとする偽りの教師や人々がいました。この手紙はそのようなイエス様を信じずに惑わす存在を意識した内容にもなっています。ここでヨハネが私たちに強調していることは、イエス様を御子と告白した者に対して神様との相互的な結びつきが与えられるということです。世の救い主として来られたイエス様ですが、「イエスが神の御子である」という告白がその人に伴わなければ、神様がとどまる関係を持つことはできないのです。「告白する」という言葉は、原文のギリシャ語で見てみますと元々は「同じことを言う」と言う意味であり、そこから「自分以外のとある権威に同意する」と言うことになります。この箇所におけるとある権威というのは使徒たちによる証しを指しています。さらにこの「告白する」という言葉の形を見てみますと、不定過去形という形であることがわかります。つまりこの告白は、ある時点における決定的な一回の告白ということになります。その告白をするならば、世のすべての人、誰であってもその人の内に神様がとどまってくださる恵みを受けることができます。
聖霊が与えられたことによって私たちのうちから働きかける確信、そして使徒やキリストの証人たちによる証し、これらによって私たちがイエス様を御子と告白し、そしてまことのぶどうの木にとどまる時、私たちは神様と互いにとどまり合う関係が確かに結ばれ決して切り離されることなく交わりの内に生きていくことができるのです。
この結びつきは形だけのものではありません。また、私たちを縛ったり不自由を強いるようなものでもありません。その中には神様の愛が満ちているのです。16−17節をお読みいたします。
“私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。”
イエス様を神の御子と信じ、世の救い主として受け入れることによって、私たちは神様の本当の愛を知り、信じることができます。これまで見てきた神様と互いにとどまり合う関係について、この箇所では神様の愛という大事な要素が加えられています。ここでの私たちという言葉は、前の箇所よりも強調された形で記されていて、この手紙を書き記している使徒たちだけでなくこの手紙を読んでいる私たちを含めた言葉です。神様の愛を知ることと信じることは一体です。神様の愛は4:10にあるように、私たちの罪のために御子イエス・キリストを宥めのささげ物として世に遣わされたことに表れています。それは私たちの努力や能力によって手に入るものでなければ、私たちが先に神様に与えることのできるような小さいものでもありません。ただ神様の方から一方的に注がれたまことの愛がここにあるのです。ヨハネは改めてここで神様の愛を私たちに示します。他でもない私たちに対して注がれた愛は、神様のご性質そのものであり、神様は愛であるとはっきりいうことができます。そのために私たちが神様と互いにとどまる関係と信仰の歩みの中には愛が溢れていて、私たちはもはや愛にとどまっていることになります。当時の偽教師たちは、神様を信じていると言いながらもその内側には愛がありませんでした。神様と愛は切り離されるものではなく、神様を信じとどまるならば、そこに愛が伴うのです。
この神様からの愛は不足することなく、私たちの内に完全に満たされます。そして今度は私たちが、神様とお互いに結びつく中で神様への愛を全うすることができるようになります。罪の中にいて、神様との交わりが途切れてしまった私たちは、イエス様という神様からの愛が豊かに注がれたことによって関係が回復する道が開かれました。私たちもまた、聖霊と御子なるイエス様の証を通して神様との繋がりを持つことができるだけでなく、私たちからの愛も神様の愛のように完全になるのです。私たちは神様から離れて生きていく中で罪の支配の中に身を置きました。しかし、私たちのために命を捨てたお方によって私たちは罪の奴隷から神の子として生きることができ、そして神様との交わりの中で愛を全うする者とされます。罪の支配から解放される恵みは、今現在だけでなく世の終わりに訪れるさばきの日に至るまで私たちを励まし、救いを確信させます。17節の「確信する」という言葉は、「大胆に」「恥じることなく」という意味になります。ここでは、きたる裁きの日に私たちは神の御子の前で恥じることなく大胆に立つことができる、そのような確信が私たちに与えられるのです。私たちはもはや罪を背負った罪人として裁きの場に立つのではなく、喜びと愛を持って進み出ていくことができます。私たちは神様との間に愛の結びつきをもち、さらにはこの世において兄弟姉妹と互いに愛し合う生き方を持つ時、イエス様に似たものとされていくのです。私たちに与えられる確信は、イエス様が神様との間に持っている深い結びつきを抱くほどに強いものとなります。だからこそ私たちはもはや神様の前で恐れる必要がありません。恐れという言葉の対義語は確信になります。神様に愛されていることを確信し、自分自身も神様の愛を全うする者とされ、罪による束縛から解放されて愛の中に生きている者は、父なる神様に迎え入れられる一人の子供として御前に進み出ていくのです。
4章の最後は再び互いに愛し合うという戒めに立ち戻ります。私たちの愛は、私たちの中から出たものではなく、神様から与えられたものです。愛の源であられる神様が注いでくださった愛は、この世のものとは異なります。私たちは不完全な愛でなく、神様のまことの愛を全うすることができ、この地で人々の間に表すことができるのです。神様への愛と兄弟への愛は分離されることがありません。そして私たちは神様からの愛によってこの地における兄弟を愛する命令に従うことができるようになるのです。
私たちは日々の生活の中で、愛を実践することが求められています。目に見える兄弟と共に生きていく中で、表面的な愛ではなく神様から注がれたまことの愛が互いに表れることによって、私たちを通して世は神様を知るのです。神様は愛ですから、愛の中にこそ神様が表れます。私たちは、神様からの愛に応じる形で神様を愛しますが、この愛の関係は神様と自分だけの限定的で閉じたものではなく、目の前の兄弟とも結ばれるものです。イエス様は、神様への愛と隣人への愛を私たちが守るものとして教えられ、ご自身が模範となって愛を示されました。愛の交わりはこの地においても豊かに広がり続けていくのです。
結
私たちは神様の愛を受けて、愛の交わりへと招かれています。御子イエス様を通して示された愛は、私たちから恐れを締め出して確信を与えます。私たちが罪によって受けるべき苦しみは、すでにイエス様が贖ってくださったことによって私たちのうちから取り除かれました。私たちは御子によって愛を注がれ、御子によって父なる神様からのさばきを恐れる必要がないのです。私たちはその罪の性質によってつまづいたり、神様の御心から離れたり、良いとされた神の形から外れてしまいます。しかし、私たちの内に神様の愛が全うされたことで、私たちは救いの恵みに与り、心に確信を持って進むことができます。私たちはこの愛にとどまっているために、一人の罪人としてではなく、キリストと同じようにされた子供として、父の前に喜んで進みでていくのです。私たちを罪から救い、罪による恐れを取り除いてくださる神様の愛にこれからもとどまり続けたいと思います。そして愛の交わりに生きるものとして、神様から豊かに注がれた愛を共に示していきましょう。私たちの愛の交わりには、罪と罰に対する恐れはありません。この救いに確信を持っていきましょう。

