日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2017年3月26日 「自分の十字架を担う」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書10:34~11:1

「わたしは敵対させるために来た。父に、母に、姑に。」と言うこの言葉を、ここにいる私たちは、胸を貫かれる思いで聞くのではないでしょうか。ここにいらっしゃるのは、家族の中でただ一人のクリスチャンであったり、初代クリスチャンであったりと言った方々が多いからです。
教会に何十年も通いながら、洗礼を受けない方たちもいらっしゃいます。福音の確信が分からないと、受洗を躊躇されているのかもしれません。しかし、考えられるのは、家族の意向を忖度して、受洗に踏み切れない人たちもいるだろうと言うことです。その人たちにとって、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」と言うみ言葉は、重いです。信仰があるからこそ、罪となってしまうのです。
また、「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」とも言われています。これまで、一世代以上に渡って、クリスチャン・ホームで息子や娘がほとんど受洗しないという事態が続いて来ました。facebookで私の「友達」の誰かが、「最近テレビで放映されたところによると、有名なキャスターの家族は、クリスチャンだそうだ」と、報告してくれました。しかし、キャスター自身は、クリスチャンではないのです。
日本基督教団では、2006年に「荒野の四十年」と題された当時の山北宣久議長の議長総括報告がありました。そこでは、過去の40年間、教団の歩みに誤りがあったと懺悔し、新しい歩みに導かれて行きたいと意見が述べられました。12項目に渡って問題点を上げ、「今後はこれらの問題性を悔い改め、日本基督教団信仰告白に堅く立ち、伝道決議をした教団として教会の本来的使命にあたりたいと思います。」と締めくくっています。
40年もの間、教団総会や、特に東京教区が混乱し続けたのですから、嫌気がさして受洗しなかった人たちがたくさんいたことでしょう。教団総会や教師試験で暴力が振るわれるという、一般人が見ても異常な事態が続きました。それに加えて、キリスト教の福音の基本が揺らぐような事態もありました。
議長総括で列挙された12項目の中には、「教師検定試験の基準があいまいにされたまま実行されたこと」と言うものもあります。この教会の牧師であった小池章三先生のお嬢さんで、神学校を卒業した方がいらっしゃいましたが、彼女が卒業した時期がまさにこの混乱の時期でした。昨年の10月に発行した月報「富士北麓」では、卒業年度には教師検定試験が行われなかったと書いてありますが、実際にはレポート形式で行われています。ところが、教師検定委員長は合格者に「お詫びとお知らせ」を出しています。合格者に対しては常議員会が承認することとなっているはずですが、総会準備委員長の反対で、承認されなかったのです。常議員会で承認されたのは2年後で、そのときには同時に、「さまざまな立場の切り捨てが起こらないような方法で検定試験を行う」という決定がされてしまいました。使徒信条にさえ、よって立たなくて良いということです。
ところで、4月に芳賀力学長に代わり、新しい東京神学大学の学長に大住雄一教授が就任することが決まりました。2年半ほど前の2014年7月号の東京神学大学の学生新聞「風の翼」にこの大住雄一教授が、「わたしの神学生時代」と言うことで、記事を寄せています。
この記事の中で大住先生はこう言っています。「一緒に卒業したのは35人であった。」これが紛争後に一番大きなクラスでした。しかし「在学中は仲がよかったが、卒業後、一度もクラス会とか同窓会をしていない。できないのである。「紛争」時に東神大を体制側の代表に見立てて破壊しようとした「造反」学生の跡継ぎみたいなのもいたし、「造反」牧師が天下を取ってしまった教団にとどまっては伝道出来ないと言って、教団を出て行った仲間もいる。」
結局、先ほどお話ししていた小池章三牧師のお嬢さんは、教師試験をあきらめ、信徒伝道者として歩むこととなりました。神学校での学びと訓練は、厳しいものです。特にホーリネスの東京聖書学校は、祈りの訓練を徹底するため、全員が学生寮に入ります。朝起きて共に祈祷会を持ち、夜寝る前にもまた、祈祷会を持ちます。四年ないし六年と言う時間は、長いです。ギリシア語やヒブル語の学びは大変で、教会での奉仕もあります。教会の方からいろいろ相談を受ければ、自分のやるべき学びの時間を割いても、応えなければなりません。自分の思いだけではとても続きません。だから、多くの人たちの祈りによって支えられるという経験をします。福音を多くの人に伝えたいという喜びで献身し、自分の思いではなく神様への従順を学ぶ期間が、神学生の生活です。けれども、それは不思議な喜びの時でもあります。
大変な苦労をして神学校を卒業する。それはたくさんの祝福を受ける卒業です。さあ、これから、と思ったことでしょう。しかし、直面した問題が教職試験だったのです。どんなに残念無念だったか、想像するに余りあります。結局、彼女は、日本基督教団ではない教会へ赴任して行きました。さらに、富士吉田教会は、暫く、日本基督教団から離れ、単立の教会として、困難な歩みをする時期がありましたが、このことがきっかけになったと聞いています。
この40年間、二代目三代目のクリスチャンになるべき人々で多くが躊躇をしてしまい、家庭で初めてのクリスチャンが自分の家で苦労するという状況が続いています。本来ならば、クリスチャン・ホームで育ったクリスチャンがたくさんいて、もっと教会の雰囲気が違っていただろうと思うのに、です。このような、いろいろなことを考えると、38節で言う「自分の十字架」とは、「クリスチャンであることで感じる重荷」であるかのように、わたしたちは読んでしまうのではないでしょうか。その重荷が負いきれないと思った人たちは、教会を去り、教団から離れ、あるいは受洗を躊躇してきたということです。
一体、マタイによる福音書が、この箇所で言いたかったことは、本当はどんなことなのでしょうか。
34節~36節に書かれている家族との対立は、主イエスの経験されたことです。12章46節でもマタイが書いていますが、ヨハネ7章では、5節で「兄弟たちも主イエスのことを信じていなかった」と言っています。主イエスが愛したのは、父なる神であり、ご自分の弟子たちでした。父なる神から示された、ご自分の十字架でのご受難によって、人々を神と和解させるご計画に、最後まで従順に従われました。
主イエスの十字架とは、どんな意味があるのでしょうか。十字架刑は、ローマ帝国がローマへの反乱者を処刑する手段として使っていたものです。そのために、激しい苦痛と辱めを伴います。ローマ兵は、ローマの秩序を守ることに命を掛けている人々です。そのような人々の一番の敵が、反乱を起こしてローマ帝国からの分離独立を図る人々です。彼らは、主イエスをそのような自分たちが命を掛けて守ろうとしている治安を乱す許し難い人物として、平手で打ち、唾を吐き掛け、鞭で打ちました。自分を処刑する道具である十字架を、鞭による傷で傷だらけの主イエスに負わせたのです。しかし、主イエスは、政治犯ではありませんでした。誤解され、本来は濡れ衣の罪で、人に下げずまれ、苦しみ、死ぬ。こんなことが、父なる神が主イエスに望んだことだったでしょうか。
それは部分的にはそうでしょう。なぜなら、このようなどのような人間でも耐えられないような苦しみを受けたからこそ、しかもそれを生身の人間として苦しまれたからこそ、苦しみのどん底でさえわたしたちは、キリストを「主よ」と呼び、救いを願えるのではないでしょうか。
しかし、ご受難は、神様のご計画のすべてではありません。その御生涯、そのご受難を通して、わたしたちを救うのが、神さまのご計画でありました。そして、主イエスは、十字架のご受難を通して、わたしたちを救うと言うこの大きな神様の計画を実現されました。だからこそ、父なる神は、主イエスは復活され、天の昇らせ、ご自分の右の座にお着かせになったのです。主イエスの担がなくてはならなかった十字架とは、父なる神から託された、この世で果たさなければならない神様への約束のことでした。
そうだとすれば、どう考えたらよいのでしょう。わたしたちの担わなければならない十字架と言うのも、人間として耐えることのできないような苦しみのことではなく、神様から託された、わたしたちのこの世での果たさなければならない神さまのご計画のことを言っているのではないでしょうか。
今日の箇所は、10章の1節から始まった弟子の派遣の箇所の締め括りとなります。11章の1節で、主イエスは弟子への指図を与え終えたと書いてあります。ですから、この「自分の十字架」というのは、先ずは宣教者の果たすべき宣教の業のことでしょう。39節は、与えられた務めを果たすべき生きる時間を、自分の利益を得るために使おうとする者は、逆に何も得るものがない。逆に、自分のために人生を使わずに、キリストに人生を掛ける者は、神に受け入れられる永遠の命を得ることができると言うことなのでしょう。
一人一人の担っている十字架とは、どんなものでしょうか。マルコによる福音書ではバルティマイの奇跡物語が、十字架を担うとはどういうことか、教えてくれているようです。この奇跡物語は、10章46節~となっていますが、その直前に主イエスの三回の受難予告の三回目があり、一回目の受難予告の箇所で、「自分の十字架を背負え」という命令が出て来るのです。
バルティマイは、盲人でした。道端で物乞いをしていたバルティマイは、ナザレのイエスだと聞いて、どこに呼び掛けたらよいのか分からないまま、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい。」と叫び続けます。見えるようにしていただいたバルティマイは、道を進まれるイエスに従いました。「目が見えない」とは、神への道が見えなくなっているというたとえとしても使われます。神への道が主イエスによって示されたバルティマイは、神への道とは主イエスご自身だと言うことを知り、主イエスに従って行くのです。それは、想像するに、私たちが神学校で学ぶ、苦しいけれども楽しい、あの経験ではないか、そんなふうに思ったりします。

先ほど読んだ、大住先生の記事は、次のように続いています。・・・・「出て行った仲間は、卒業直前に、教団の教師検定試験受験を拒否して、別の教会グループを作って出て行った。『お前はこんな教団の試験を受けるつもりか』と再三言われた。それでも私が教団に残ったのは、教団が首の皮一枚、教会であり続けていると信じたからである。教会である限り、割ったり捨てたりしてはならない。」
日本基督教団が教会であるなら、割ったり捨てたりしてはならないと言うのは、どういうことでしょうか。これは、アウグスティヌスという5世紀の神学者の主張したことです。教会は聖霊の働きによって建てられるものです。この富士吉田教会は、荒井保と言う人が立てました。私たちはその働きの激しさに目を見張りますが、彼を突き動かしていたのは、聖霊なのです。そして、聖霊は、教会を一つに保ちます。この地域に建てられた吉田教会は、一つの目に見えない、つまり理念的な天の教会の部分です。教会は、世界の異なった言語の地域に建てられていますが、それは教会の普遍性の象徴です。そして真の教会は、この伝統に忠実であると言います。私たちは、この富士吉田教会が、聖霊の働きによって立てられた、真の教会であると信じています。そして、聖霊は、教会を生きたキリストの体にします。個別の教会は、人間の体の部分が共に働いて一つの体を生き生きと動かしているように、一つの全体教会の部分として生きています。切り離すことは、命を保てなくなることを意味するのです。わたしたち個々人もまた、教会と切り離されては、命を保つことができません。大住教授が言う、「教団が首の皮一枚、教会であり続けていると信じたから」とは、日本基督教団に聖霊が働いていると信じると言うことなのです。
大住教授は、さらに「わたしは教団が教会なのだと言うところに、何としても留まりたくて、そのために戦ってきた。」そして「出て行った仲間と、もう一度、一緒に伝道をしたい。あのころとは、ずいぶん変ったよ。」と書いておられます。
大住雄一先生にとっては、「教団を教会として留めて」おこうと戦うことが、「自分の十字架」なのかな、という印象をこの文章から感じます。出て行った仲間と、もう一度、一緒に伝道ができることを天上遥かに望みつつ、走っているよ、と言うことでしょう。しかし、「あのころとは、随分変わったよ。」と言える、そこまで来たのだ、と言うことも出来るところまで来たのです。その望みは、天上ではなく、地上で迎えることができるかもしれません。
アウグスティヌスは書いています。「人間は本来、もしも神の助けを信頼するならば、悪天使に打ち勝つことができるように造られた」と。そして、「神の助けを信ずるためには、神の助けそのものが必要である。」とも書いています。私たちには、神の助けが常に変わらず、あったのだ、あるのだ、それを信じて行きたいのです。

今日は思いがけず、日本基督教団の紛争と、その中で翻弄した富士吉田教会のこともお話をすることとなりました。準備の段階では、そうなるとは思っていなかったのですが。そして、神学校の新しい学長の言葉も取り上げました。しかし、このお話しの中で、皆さんが、今日の箇所は宣教者のみに与えられている御言葉だと言う印象を持ったとしたら、それは早すぎる結論です。42節を見てみてください。「この小さな者の一人」と言う言葉があります。「わたしの弟子」である「小さな者」とは、子どものクリスチャンと言う意味ではありません。信仰の薄い、学びの足りない、経験の短いクリスチャンと言う意味です。預言者、正しい人、そして小さな者、と並べているので、ニュアンス的には分かると思います。
マタイによる福音書は、どちらかと言うと、このような人々の違いに敏感ですが、けれどもここでは、基本的にこの三者には何の差別もないことに気づくでしょう。自分の十字架を担げ、と言う言葉は、高名な弟子ではなく、わたしたち一人一人に言われているのです。
主イエスの担いだ十字架、父なる神によって担わされたこの世での勤めは、それはそれは重いものだったでしょう。それからすると、わたしたちの担う十字架など、東京神学大学の学長にせよ、わたしたちにせよ、ささやかなもののはずです。そのささやかな十字架でさえ、わたしたちはその重さに日々あえぎ、放り出したくなります。しかし、その先にあるのは、復活の主イエスの指し示す、遥かな天の国です。主イエスが、先に立ち、わたしたちを支えてくださっています。その時、仰ぎ見ているものは、必ず実現することが、約束されています。主イエスに信頼する私たちは、神の助けが必ずあるからです。
喜びつつ、主について行きましょう。
お祈りいたします。
在天の父なる神さま。あなたの素晴らしいお名前を賛美します。私たちに聖霊を与えてくださり、あなたの国を遥かに仰ぎ見させてくださる幸いをありがとうございます。どうか私たちが、十字架の主が先立ってくださる喜びを持って、日々を歩んでいくことができますように。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

2017年3月19日 「わたしの仲間」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書10:26~33

受難節を過ごしています。第一礼拝は、子どもたちを中心とする礼拝で、今年度は「教師の友」を使っています。1月と2月は主の祈りを学んでいた訳ですが、3月はマルコによる福音書を読みながら、主イエスのご受難の物語を共に読んでいます。
今日の箇所は、14章の43節~50節でした。ゲッセマネで、弟子たちと共に祈っていた主イエスのところに、裏切り者のイスカリオテのユダがやって来て、イエスを手に掛け、捕らえます。弟子のペトロは、群衆の一人に切り掛りますが、イエスはそれを止めさせます。「聖書の言葉が実現するためである。」と言って、捕まるのです。この状況を見て、弟子たちは皆、逃げてしまいます。
来週の聖書箇所は、この後の66節~72節、ペトロの否認です。ペトロは、イエスが捕らえられている大祭司の家の庭で、火にあたっていました。そこを、大祭司の女中の一人に、ナザレのイエスの弟子だろうと、とがめられるのです。ペトロは、それを否認します。三回も聞かれ、三回目は「そんな人は知らない」と、呪いの言葉を言いながら、誓い始めるのです。
もちろん、ペトロの否認についてお話ししたのは、今日の聖書の箇所の最後の33節と関連するからです。「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天の父の前で、その人を知らないと言う。」自分から主イエスを否認する人は、主イエスも否認すると言うのです。「わたしを知らないと言う」と言う言葉は、32節の「自分をわたしの仲間であると言い表す」と対応しています。「知らない」とは、会ったことがないと言う意味ではありません。よく知っている人、人間的な関係を持っている人を拒絶すると言うことは、縁を切ると言うことです。その人の考え、その人の行動を退けると言うことです。それは、もうそれ以上、お付き合いをしない以上の意味があります。改宗し、あるいは棄教するのです。反対の立場に立つということです。
32節も33節も、主イエスは「人々の前で」と言っています。それは、心の中で密かに思っているだけでは足りません。これに関して思い出すのは、ヨハネによる福音書の3章で、夜、人眼を忍んで主イエスのところにやって来るニコデモや、マタイによる福音書の27章57節以下で主イエスの遺体を引き取るアリマタヤのヨセフです。もっとも、わたしたちは聖霊によって、公にイエスをキリストであると言うことができるのです。
今日の聖書箇所は、最初と最後が関連していますが、「人々の前で」と言うのは、27節の「わたしが暗闇であなた方に言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」に対応しています。だから、27節で言い広めるのは福音であり、十字架に付けられた主イエスを宣べ伝えることです。そもそも、10章の始めで、主イエスは十二弟子を選んで、派遣しているのですが、今日の箇所でも、派遣され、委託されている弟子たちのことを、主イエスはお話しになっているのでした。10章2節でもお話をしたつもりなのですが、十二使徒と書かれていますが、原文では「十二人の弟子」としか呼ばれていません。使徒とわたしたちは、同じように主イエスの弟子ですから、わたしたちにも言われていることなのです。
もう一度、32節と33節を見てみますと、イエス様は、わたしたちがイエス様の仲間なのか、それともイエス様はその人を知らないのか、天の父の前で言うとおっしゃいました。この「天の父の前で」言うのはいつなのでしょうか。そもそも、この言葉は何を意味しているのでしょうか。
10章の5節~14節、最後の15節では、「裁きの日」の町の罰が語られています。16節~23節、最後の23節では「人の子は来る」と結ばれています。10章の後半でも、39節と42節は、終末の裁きについての言葉なのです。32節と33節も、終末の裁きの言葉として読まなければならないでしょう。
終末の裁きというと、なんとも言えない気持ちになる人もいると思うのですが、これらの言葉によって主イエスは、ご自身が終末の裁きをするために再臨することを、宣言しておられます。終末の裁きの時に、神に変わって地上の人々を裁く人の子が地上に送られるというのは、ユダヤ教の伝統的な考え方でした。終末とは、神様の正義が行われる時です。それまで隠されていた神さまのご計画は顕わになり、真の信仰を持つ人々は、神のもとに集められます。悪の力は排除され、人々は神と共に生きるようになるのです。
終末には、それまで隠されていた神さまのご計画がわたしたちの前に顕わにされる、と言いましたが、そのことを言っているのが、26節の「隠されているもので知られずに済むものはない」と言う言葉です。終末には、神様の隠されたご計画が顕わになる。その終末は、いつ来るかわからない。だから、人々を恐れてはならない。恐れる必要はない、そのように言っているのです。もう一つ言えることは、この「隠す」と言う言葉は、5章14節の「山の上にある町は、隠れることができない。」と言う言葉でもあるということです。これは、「あなた方は世の光である。」というみ言葉に続いています。光は、自分で隠しているつもりでも、自ずから輝いて、世を照らしているのです。私たちの放っている光は、自然に明らかになって来るのです。
ミカ書4章には、「終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい 多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから み言葉はエルサレムから出る。」とあります。終わりの日には、逆転がやって来ます。厳しい状況に置かれている教会は、神の目から見れば、人々が尊敬を注ぎ、模範として仰がれる存在なのだ、と言う意味なのです。
人の子は、人々を赦す権限を持って、終わりの日にやって来ます。32節33節で、永遠の救いか、それとも滅亡かが決定されるのは、ただ一つ、主イエスを告白するかどうかに掛っているのだ、と言われていることに心を留めましょう。
主イエスの終末の裁きは、28節の後半で言う、魂も身体も地獄で滅ぼされる神の最終的な裁きです。この裁きが、主イエスを主と告白するかどうかに掛っていると、マタイは言っているのです。
28節では、「からだ」と「魂」が区別されて語られています。ここで言うからだとは、生きて活動している人間そのものです。「魂」については、わたしたちが思い浮かべる「霊魂」、人間が死ぬと出て来る火の魂とかを考えますが、多分少し違うのだと思います。この魂は、創世記の2章7節で主なる神が、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられて、人は生きる者となった、とありますけれども、この生命力のことです。語源的には息とか、呼吸とかと言った意味合いなのですが、神さまによっていただいた生きる力です。神さまによっていただいた力なのですから、この魂によって、わたしたちは神さまと繋がっている、結ばれているのです。
しかし、この魂は、人の感情が宿る場所でもあります。嘆き、悲しむのは、魂の働きです。それが、神様によっていただいたものなのだ、と言うことは、不思議な気がします。なぜなら、わたしたちの感情は、ときとして、神さまによらないような、恐ろしい罪の思いもまた、宿すのではないでしょうか。だから、「魂」は、神様へ向かう、「思い」を宿すことのできる、素晴らしいものでもあるけれども、簡単に悪霊などに支配されてしまい、神様から離れる危険もいつもはらんでいる、そんな損なわれやすいものでもあるのです。しかも、その心のありようは、知られずに済むはずがありません。魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。これは、リアリティがある言葉なのです。
一方、このような終末の裁きに比べれば、迫害によって殺されても、魂は滅ぼされません。神様への思いは残ります。これは、一人一人、孤立した人間を考えるのではなくて、教会を考えると良く分かります。誰かが殺されたとしても、教会は残り、思いは受け継がれていくのです。
さあ、とは言え、今日の箇所は殉教を覚悟せよ、と言っているのですから、なかなかハードな箇所ではあります。最後に、雀のたとえについて、考えてみたいと思います。「わたしが、あなた方を遣わす。」と16節でおっしゃった主イエスは、雀にたとえて、何を仰りたいのでしょうか。
多分、この雀のたとえも、蛇や鳩のように、イエス様や弟子たちの生活実感から来たものだろうと思います。「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。」巻末には、アサリオンとは16分の一デナリオンで、1デナリオンは労働者一日分の賃金に当たる、と書いてあります。そうだとすれば、500円くらいかなと思いますけれども、アサリオンは最少額コインですから、「はした金」というイメージかもしれません。この世的には、大した価値のない者に見えている雀さえ、神様の名には値高い。…イエス様には、雀に対する暖かい憐れみの心がたくさんあったのでしょうか。…その雀が束になっても、あなた方はそれよりもはるかに値高いと。神さまの宝の民なのだと、だから、主イエスが、あなた方を贖うためにご自分の命を十字架で捧げられたのだと言うのでしょう。
主なる神は、塵で出来たわたしたちの鼻に命の息を吹き入れられて、生ける者としてくださいました。そのわたしたちの魂は、とても損なわれやすく、直ぐに悪に染まってしまうものですけれども、主イエスを信じ、告白する人々に対しては、永遠の命を約束されています。さらに、体のよみがえりをも、約束してくださっています。
今日は、弟子たちがイエス様の逮捕を前にして、皆、イエス様を見捨てて、逃げてしまったのだ、と言うところから話が始まりました。筆頭格の弟子であったペトロの否認は、申し開きをすることも出来ないでしょう。他の弟子たちの否認もまた、受難物語ではあまり出てきませんが、明らかなことでしょう。しかし、主イエスが復活し、弟子たちに現れた時、ヨハネ21章には、イエスを三度否認したペトロを、主イエスが三度「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃってくださいます。あなたはわたしの弟子、わたしの仲間だとおっしゃってくださったのです。
受難節は、わたしたちの信仰を顧みる時です。福音書に現われている弟子たちの否認は、わたしたちのものでもあり、その罪の中で、主イエスの赦しを希うことによってしか、わたしたちの救いの道は開かれないのだと言うことを、改めて思わされます。
お祈りいたします。
天の父なる神様、わたしたちは弱く小さい者です。どうか私たちに、聖霊なる神様を豊かに注ぎ、主イエスを人々の前に現すことができる力を与えてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

2017年3月12日 「あがないの道」 掘池正弘牧師(静岡草深教会)
マタイによる福音書3:13~17
2017年3月5日 「蛇のように、鳩のように」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書10:16~25

「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送りこむようなものだ。」
「見よ、わたしが、あなた方を遣わす。まるで、羊を狼たちの真ん中に(遣わすように)。」狼の群れに送り込まれる羊は、生きながらえるのはほとんど奇跡的な事柄です。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」あなた方を愛するわたしが、あなた方を遣わすのだ。たとえ、かよわい羊を狼の群れの中に引き出すようなものであっても。だから、あなた方が滅びて良いだろうか。私の愛するあなた方が。
だから、「蛇のように賢くなりなさい。」と言います。この言葉は、難問です。これこそ、教養が邪魔をするという話だと思うのですが、「蛇のように賢く」と言うと、わたしたちは創世記3章1節の蛇を思い出すからです。主なる神が作られた野の生き物の内で、蛇はもっとも賢かった。しかしその蛇は、エバを騙して原罪と言う罪を犯させてしまうのです。だとするなら、「蛇のように賢く」というのは、「ずる賢く」あれ、と言う意味ではないか、私たちに、世間的なずる賢さを求めているのだろうか、しかも、創世記の蛇は、悪魔の化身のような存在です。悪魔を荒れ野で退けたイエス様が、なぜ、その蛇をご自分のたとえに使うのだろう、と考え込んでしまうのです。
ここで、なぜ蛇は「賢い」と言われているのでしょうか。23節までの間で、「蛇のように賢い」のは何のことなのか、考えなくてはなりません。イエス様の命令は17節「人々を警戒しなさい。」と19節「引き渡された時は、何をどう言おうかと心配してはならない。」と23節「一つの町で迫害された時は、他の町へ逃げて行きなさい。」の三つです。このうちのどれが、蛇のように賢いということになるのでしょうか。これは難問なので、まずはより簡単そうな「鳩のように素直に」の方を考えてみましょう。
「素直になる」と言う言葉は、マタイによる福音書で使っているのはここだけです。鳩は、3章16節で、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時に、ご自分の方に「霊が鳩のように」降って来るのをご覧になった、と言うところがあります。でも、この鳩が「素直」だったかどうか、ちょっとわかりません。
旧約聖書の「雅歌」というのは、「ソロモンの歌」とも呼ばれますが、内容は恋の歌です。男女のいちゃいちゃにしか読めないこの雅歌が、なぜ聖書に入っているかと言いますと、恋人の関係が、神と人間との理想的な関係として読まれたからです。その中で、男性は最愛の女性を「わたしの愛する鳩」と呼びます。つまり、神様を愛し、信じ続ける心を持ちなさい、と言うことになるでしょう。
17節から、迫害の描写が出てきます。「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」というのは、マタイによる福音書が書かれた時代に、キリスト教が次第に異端として、ユダヤ教社会から排除される状況を描写していると考えられます。使徒パウロも鞭打たれたと、手紙の中で書いています。
このような恐ろしい状況で、「鳩のように素直になれ」とイエス様は命じています。つまり、恐ろしい迫害にあっても、神様との関係は、神様の最愛のものとして、保ちなさいと言うことです。ここまで読んで来ると、「鳩のように素直になる」というのは、19節の「引き渡された時は、何をどう言おうかと心配してはならない。」の箇所だと言うことになります。神様との関係が、そのように素直に神様に従っていれば、自分の言うべきことは、神様が教えてくださると言うことなのです。
それでは、「蛇のように賢く」とは、どこが残るのか、というと、イエス様の命令は、先ほど言ったように、17節、19節、23節の3箇所です。19節が「鳩のように」に対応しているとすれば、「蛇のように」というのは「人々を警戒し」、「一つの町で迫害された時は、他の町に逃げていきなさい。」の二つだと言うことになります。人々を警戒し、迫害されたら、さっさと逃げろ、とイエス様は教えていることになります。つまりイエス様は、「蛇は賢い、なぜなら人々を警戒し、さっさと逃げるから」と考えていたことになります。
「蛇のように賢く」の本当の意味は何なのだろう?先週は、実は散々、考えました。いろいろ本も調べました。「賢い」と言う言葉がマタイによる福音書でどのように使われているのかも調べ、蛇が聖書の中でどのように考えられているかも調べました。でも、良く分からなかった。
一つ、これかな、と思ったのは、ネットで調べた蛇の性質です。それは、まず蛇はこちらが急に近づかない限り、逃げ去ると言うのです。毒のある蛇は、急に近づくと、牙をむきます。しかし、毒のない蛇はどうするか。とにかく、逃げるしかない。そのために、とても警戒心が強いと言うのです。
そこで、ここでは「蛇」ですが、イエス様は「蝮」と言う言葉も使うことがあります。「蝮の子」というのは、洗礼者ヨハネが最初に使っている言葉ですが、イエス様も使います。裁かれる側の人々のことです。今日の箇所の蛇は、蝮ではない。ここで蛇と言うのは、独のある蛇もない蛇も含まれる蛇全般のことを言っているのではなくて、毒を持たない蛇だけを言っているのではないでしょうか。これに対して、蝮と言うのは、毒を持っている蛇を代表させているのです。
さらに、イエス様は、旧約聖書の釈義の中で言葉を選ぶよりも、ずっと自由に、ご自分の生活実感で選ぶ方でした。たとえば、6章の「空の鳥を良く見なさい。」と言う言葉。律法では、鳥について書いてあるのは、食べてもいいのか悪いのか、と言った食物規定だけでした。けれども、ここでは、空の鳥が食べられるかどうか、と言う話しではありませんでした。そんな律法とは関係なく、説教を聞いている人々の群れの周りの空を飛び交っている鳥たちを、神様に造られたいとしい被造物の一つとして、指し示されたのです。だから、イエス様が、日ごろ生活の中で蛇の習性を知っていて、蛇は警戒心が強いし、危なくなると直ぐに逃げて行くよ、だから、蛇は賢いな、と考えていた。だから蛇のように、いつも警戒していて、危なくなったらすぐに逃げなさい、逃げるところが亡くなる前に、自分が助けに行くよ、と言う意味で「蛇のように賢く」と言ったというのは、ありそうな話ではないかと思います。さらにこのたとえは、弟子たちイエス様のお話を聞いていた当時のガリラヤで生活していた人たちにとっても、常識的なことだったのでしょう。
しかし、生活実感として、蛇は賢いものだ、と考えていたとすると、鳩についても、旧約聖書の雅歌から引っ張っていると言うよりは、こちらも生活実感かもしれません。鳩と言うと、宮清めでイエス様は神殿への供え物の鳩の屋台をひっくり返しています。ルカによる福音書の2章によると、イエス様が誕生された時、両親は鳩を生け贄に捧げたと書いてあります。生け贄となるのは、聖別された傷のない動物でなければなりません。また、イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が「鳩のように」折りて来たのをご覧になったそうです。イエス様にとって、鳩は聖なる動物だったと言うことなのではないでしょうか。
ところで、イエス様が「蛇は賢い」その蛇のように、あなたたちは危なくなったらさっさと逃げろ、と教えていたとしても、古代の神学者たちの多くは、この教えをそのまま受け入れることはできなかったようです。迫害を前にして、逃亡することは絶対に赦されないと、強く主張する人々がたくさんいました。教会の役職者のみが迫害されているのであれば、逃亡は赦されるが、彼が逃亡すると教会が見捨てられたり、教会の人間がすべて、迫害されているのであれば、牧師は留まるべきであるというのが、古代教会の結論でした。殉教の時代が過ぎると、教会は異端論争を繰り広げることとなり、迫害の時代はむしろ古き良き時代となってしまったので、美化されたと言うこともあると思います。
一方、近代になりますと、再洗礼派やピューリタン、ユグノーと言った、ローマ・カトリック教会によって迫害を受けていた教会は、逃亡する方を選びます。ピューリタンは、イギリスでの迫害をのがれて、アメリカへ渡りました。ユグノーは、フランスの迫害をのがれて、スイスやオランダで自分たちの教会を作りました。彼らは、逃亡を福音を守り、さらに伝道の機会と考えたのです。

さて、この教会で長年牧会をしてくださり、15年ほど前に亡くなった小池章三牧師は、富士吉田教会に赴任する前は、台湾の花蓮港教会にいらっしゃいました。第二次大戦が終了して、日本が台湾の領有権を放棄し、帰国されたのです。花蓮港教会は、今では台湾の教会になっています。
ホーリネスの教会は、現地の台湾の人たちへの伝道を行い、台湾の人たちを牧師として立てていましたが、それは日本人が台湾に設立した教会としては、大変珍しいことでした。ほとんどの教会は、台湾に滞在している日本人のための教会だったからです。
花蓮と言う場所は、台湾の東側の港町です。台湾の地形は、真ん中より東側よりに山脈が通っています。17世紀以降に本格的に行われた中華系の人々は、大陸から渡って来たので、島の西側に入植します。そうすると、原住民の人たちは(原住民と言う言い方は、台湾では差別用語ではなくて、先住民と言う言葉よりもいい言葉だと考えられています)、中華系の人々に圧迫されて、次第に山地に追いやられるようになりました。そこで、台湾島の東側の花蓮港や台東というと、原住民の人たちがたくさん暮らしている地域と言うことになります。
小池先生の赴任した花蓮港教会は、この原住民の人たちへの伝道を行っていたのです。原住民の人たちへ、聖書がひそかに渡されました。当時の日本の植民地政府の警察は、原住民の人々に対しては、徹底的に武力で鎮圧しようとしていましたから、この行動は時に、命がけでした。聖書を読み、説教を聞くだけで、警察に引っ張られ、暴力を受けて大変なけがを負うと言うことが、しばしば行われたのです。
けれども、この伝道は、無駄ではありませんでした。現在、台湾のクリスチャンは、全人口の4.5%くらいだと言うことですが、原住民の人々に限ってみれば、70%に達しているそうです。
5年前に、神学校の授業の一環で、台湾の教会を訪ねました。その中には、二つの原住民の教会もありました。大変大きく、立派な会堂でした。洗礼盤や聖餐卓は、流木を拾って来て加工するなど、自分たちの手作りの教会です。その教会で、早朝祈祷会が、毎朝行われていました。朝5時からだったような気がします。夜には子どもたちに中国語の塾が開かれていました。就職の機会を拡げるためでした。信徒の人々は、明るく規律正しく、裕福では必ずしもないようですが、平安の中に暮しているように思いました。教会に聖霊の働きを感じたのです。

私が、あなた方を遣わす。どんなに私があなた方を愛し、遣わすあなた方のことを心配していることか。だから、危なくなったら逃げなさい、けれども、まっすぐな信仰を持ち続けなさい。神は、いつもあなた方と共にいる。
お祈りいたします。天の父なる神様、あなたの素晴らしいお名前を賛美します。伝道に派遣されるわたしたちは、一人ではありません。イエス様が派遣してくださるのであり、共に苦しんでくださるイエス様が共にいてくださるのです。神様の尊いご計画の中に、わたしたちを生かし、用いてください。主イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。アーメン

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