聖書に記されている系図について、大部分の人々はあまり興味を持たず、むしろ、退屈なものと考えます。ましてや好んで研究しようとする人はほとんどいません。しかし、朴・アブラハム博士の新書、『神の救済史的経綸の中から見た創世記の系図』では、その系図が大変奥深く研究されていて、系図の真価を明らかにすると共に、聖書全般に対する興味さえ抱かせています。
ある構造が長く維持されるためには堅い礎が必須です。私たちが、聖書に基づく確かな信仰を持つ為に、最も基礎とするべきものこそ創世記です。創世記は、人類の起源のみならず、神と人間との関係、そして人間と人間の関係を理解する上で最も重要な本です。このような、すべてのキリスト教思想の根源であり、土台である創世記の重要性は、どんなに強調しても、し過ぎることはありません。この度、朴・アブラハム博士が、そのすべての根本である創世記を理解するために、非常に重要で、価値ある貢献をなされた事に対し、心からの賛辞を送りたいと思います。
さて、朴・アブラハム博士は、驚くほどヘブライ語の原語に精通しています。彼の、その卓越した言語分析能力が本書の中で遺憾なく発揮されています。これは単に、彼の研究の成果というよりも、創世記に対する特別な愛情の表れとも言うべきものです。
著者は、「創世記を研究せずして神の救済史的経綸を知る事は出来ない」、という正しい認識を持っています。「過去を理解しなければ、未来を理解する事は出来ない」、という金言は、聖書を学ぶ上でもそのまま適用されます。朴・アブラハム博士自身、彼の著書の中でその金言を深く刻み、「いにしえの日を覚え、代々の年を思え」とモーセが宣布した、申命記 32 章7 節の御言葉を聖書研究の起点としています。
本書には、創世記の系図の十代(天と地、アダム、ノア、ノアの息子たち、セム、デラとアブラハム、イシマエル、イサク、エサウとヤゴブたち)が原寸大で描写されています。そして、それら一人ひとりを通して神の救済史を鮮やかに著わしています。また、著者は、神の救済史的経綸の核心を探る為に、聖書の系図を徹底的に研究しています。そして、いよいよ神の救済史がイエス・キリストの御わざによって完全に成就される事までを明白にしました。
朴・アブラハム博士が書かれた本書に見られる逸出した特徴を挙げると次のようになります。
第一に、この本は、聖書の御言葉で溢れています。これは朴・アブラハム博士が如何に聖書を愛しているのか、そして、彼が「聖書研究」という水源で、どれほど深遠な生命の水を飲んでいるのかを明示するものです。
第二に、この本は福音伝道のメッセージを明確に伝えています。本書は、多くの部分で、イエスを救い主として迎えなさいという、神の慈悲深いメッセージを伝えています。これは、まさに、マタイによる福音書28 章19、20 節にある、「すべての国民を弟子としなさい」と言われた主の偉大なる宣教命令に従う行為です。
第三に、この本は創世記の内容を厳粛な歴史的事実として受け止めています。私は、特にこのことを非常に嬉しく思います。多くの現代神学者たちがアダムの歴史性を否認している昨今、師が聖書の歴史性を論証したことは、まったくもって痛快で偉大な出来事です。
最後に、この本は一般の人々にも理解しやすい文章で綴られています。この本を読む人たちは、難解な専門用語に悩まされることなく、容易に聖書の教えを理解する事ができるでしょう。本書は、創世記に始まり、すべての世代に渡って進行してきた神の救済史的経綸が、イエス・キリストと、彼の御わざとによって、最終的に成就される事を一挙に知らせてくれます。
まさにこの本は、信仰の手引き書として用いられるべき本です。私は、この深い洞察力を持った朴・アブラハム博士の著書が、多くの神学校や大学で読まれる事を心から願っております。決して読者の期待を裏切る事はないと確信しています。
まず、この本を読んでみて下さい! この本の内容を吟味して下さい! そして、この本を持って、ここに書かれている内容を心に留めて祈ってください。皆様の日々の歩みと、牧会のお働きに、この本の知恵が活用される事を心から願っています。
この度、敬愛する朴潤植牧師が出版された著書について、ここに書評する機会が与えられた事を心から感謝申し上げます。この本を手に取り、読み進めながら先ず私が感じた事は、著者の祈りと涙と感謝、そして聖書研究の奥深さです。これらのものが昼夜を問わない瞑想と、その真理と愛に対する驚異と、沸き上がる感動によって熱せられる事なしに、このような類の書物が世に出るはずがない、と確信を持って言うことができます。朴牧師は、この著書を執筆するために、ひざまずき、祈りながら聖書を何百回も読み、ヘブライ語を研究し、聖霊の照明を受けるが、古今の数多くの神学的書籍を手広く渉猟(しょうりょう)するのに数年を要しました。しかし、著者は聖書だけを手がかりにして、この文全体を書き綴っています。この著書には、学説の引用や例話が全くありません。私たちが聖書以外のものをもって福音と救いを説く事は出来ないという、著者の敬虔さがこの文章を通して伝わってきます。文章を書く時、その文字一つ一つが真実と純潔の度量を持って、文を綴るという事は決して容易な事ではありません。その意味でも本書は、それらの純粋性と真実性、そして、その真理の確かさに於いて、近年稀に見る名著と言えます。
我々の教会や大学の図書として閲読される事を望むのはもとより、この本が国内外の多くの人々に読まれることを願って止みません。それほど本書は永遠に残る貴重な財産であると確信しています。
著者の持つ膨大な聖書知識とその理解の深さは比肩するものがないほど深遠です。著者の頭の中には、聖書全体の膨大な文章がすべて索引化されていると言っても良いでしょう。無尽蔵な聖書の金鉱、その鉱脈の地図が実に鮮やかに描かれています。そして、そこに連結させる環を適切な対象を選んで構築する、凄まじいまでの具象力を持っています。
さらに特筆すべきは、この文書は、1968 年から研究を始められ、1983 年には既に国内外の諸教会で語られ、2005 年にその大意を完成して体系化されたものであるという点です。すなわち、この度の発刊が、著者の50 年に及ぶ牧会と40 年余に渡る祈りと思索を経て現れた所産であるという事実は、ある意味、我々キリスト教学界へ与えられた警告として厳粛に受け止めるべきでしょう。
さて、この著書の核心的な価値が明らかになるのはこれからです。実を言うと、私が初めに本書の書評依頼を頂いた際、この本が聖書神学、中でも旧約聖書の創世記に関するものであり、一人の歴史神学者として私見を述べるのは僣越であるとの思いがあって、非礼にも一度お断りした経緯があります。真にもって私が驚いたのは、この著書が、まさに歴史神学の大憲章であるという事です。ここにある聖書注釈の妙味と洞察の深さは、それが実際の歴史を紐解く鍵として毅然たる光を放っています。それは、私が歴史学者であるからそう申すのではありません。
この本の中に、実際の歴史や歴史学に関する研究の前提とその方法論、そして歴史叙述に対する、鋭い判別力とその枠(構図)が明示されている、これが事実なのです。まさにこれは歴史研究の新たな啓示です。それと共に、これからの歴史研究にとって指標となるべきものです。それが1 から40 項目の中に明解に備えられています。
更に私が驚いたのは、表紙に大きく印字されている聖句が、私の長年に渡る歴史研究の中で常に典拠としている申命記32 章7 節から8 節の御言葉であったことです。
「いにしえの日を覚え、代々の年を思え。あなたの父に問え…」
朴牧師はその聖句を持って、この著書の道標とし、大前提としています。私は、朴牧師が著されたものを拝読した事がありませんでした。また朴牧師様も私の著書をお読みにはなっておられないだろうと推察します。よしんば、読まれたことがあるとしても、どの隅に埋もれているかも知らない、私の歴史研究の前提としている聖句をわざわざ尋ねたとは思いません。それはさておき、その聖句が朴牧師のこの研究の大きな柱となっているのです。私がこの事実に驚き、驚愕の心情でこの本を精読せざるを得なかったかをご理解頂けた事と思います。もしも、この書評が他の人によってなされたとしたら、私には後悔だけが残った事でしょう。また、皆様もこの著書に対する重要な見解について知る機会を逃してしまわれた事と思います。著者の意図が必ずしもそうであったかは分かりませんが、この著書は現代に於ける歴史研究の教科書として最も斬新な指針であり、その方法論の透明さにおいて異彩を放っています。これこそ歴史精神のキリスト教的造形と言えるでしょう。
この著書のタイトルがまさにそうです。『創世記の系図』、著者は創世記が聖書全体の序論であるだけでなく、人類と世界救済史の青写真であると言明しています。すなわち聖書の縮刷版という事です。言い換えれば、マイクロ聖書です。私たちの体のある部分から微量の皮膚や骨を取って、その幹細胞を培養すれば体全体になるという現代生物学の原理はまさに聖書的です。創世記一つを取って、それを深く、正しく読み解くなら聖書全体の救済史の奥義を解する事ができるという事です。まさに、本書の題名を、『創世記の系図から読み解く神の救済史的経綸』としても良い程に、創世記の枠を越えた人類救済史の荘厳なる大パノラマを論理化した本であります。
著者は、「信仰は過去から出る」と言います。過去は救済史に於けるすべての過程であり、神の愛と涙の歴史であるという事です。これは聖書全巻を突き通す銘言です。実に「聖書は歴史書だ」という定義は、信仰と歴史の関係をその核心と見るキリスト教の真髄です。ところで、今日まで何故そこに言及されずにきたのかは知る由もありません。歴史の相対性とその地上性の故か、或いはなにがしかの憚りがあったであろう事は否めません。
敬虔主義神学の誤謬(ごびゅう)がもしあったとすれば、それは、救いが世界との隔離やその疎遠からくるという主張です。しかし救いと摂理は、一日一日と積重ねられてきた歴史の中で成就されたという事実が闡明されています。言い換えれば、本書は信仰をただ宗教的な次元に留まらせることなく、歴史的の中で生態化させて普遍化させているのです。これは、1917 年に李光洙が切実な思いで実現するよう願った、韓国のキリスト教会に課せられた長年の課題でした。その事を再認識させたのみであらず、見事に大成させたと言う点で、本書は高く評価されるべき功績と言えます。そのような歴史的救いと贖いの脚本を朴牧師は族長たちの系図から見出しました。筆者は、一日一日が積重ねられた集大成としての数百年、その間の時代ごとに、それも全域において、贖いの経綸の実体が如実に現れていると述べています。更に興味深い事に、筆者は各族長たちの名前をすべてその原語から解釈し、それらがどうその時代の背景や聖書の文脈に直結されるのかを明らかにしています。まさに、その妙味は圧巻です。これは歴史への新たなアナログ方式の適用です。
本書を読みながら私は何度膝を打ち叩いたことでしょう。また、このような構図設定が、彼らの物語、すなわち彼ら族長たちの時代で終止したのではなく、今の時代にまで繋げられており、その原型として創世記の系図が私たちに示されていると筆者は述べています。だとすれば、これ以上聖書と私たちとの関係を生々しく結びつけるものは他にはないでしょう。「聖書は自分の物語である」と明らかにした事が本書の最も大きな功績と言えましょう。
このようにして本書は、様々な族長たちの生をすべて連結し、そこで救済史の神秘を解いて行きます。そして、その事を通して、救いが決して世に於ける突然変異や断絶によってもたらされたものでないという結論に至らせます。このような歴史解釈は救いの成就が漸進的であって、激変や変革によって成るものではない、という発展史観を、聖書の歴史観を持って確認したものであります。
このような漸進性を著者は、エゼキエルがケバル川で見た啓示、すなわち聖殿から出た小さな水の流れが小川になって、やがて川となり、大河となって、遂に海を塑性させた過程からこの啓示を読み解く事によって明らかにしています。また本書は、終末論を審判が下される恐るべき日としてではなく、イエス・キリストが栄光に輝く主として再臨されるその日を歴史が完成される終末とし、その恵みと祝福に満ちあふれた日を渇望と感激をもって讃美しながら待ち望むようにと結んでいます。
これはまさに、キリスト教を感謝と喜び、そして、希望の宗教として決定づける福音です。この地上の歴史がまさに神様の歴史であるという、私たちの生涯が生命と祝福に満ちあふれたものである事を示唆するものです。
著者は実に敬虔な信仰と神学によって、救済史と世俗- 世界史を一致させる大業を成し遂げました。これは初期アウグスティヌスの救済史世界史の二分法を克服することとして、キリスト教を世界と隔離させる、小分派的、神秘主義的な隠遁を警戒する、伝統神学の金字塔であります。然るに、それがこの創世記の研究によって推理された事は実に驚くべき事です。歴史が過去から未来へと一直線に進行する過程で時至り、主の再臨という終末の完成を見るならば、それこそが現代歴史神学の根幹である聖礼神学(Sacrament)と成肉身神学の概括的体系となるわけで、それがこの著書によって、確かなキリスト教信仰の礎石として、まさしく朴牧師の号(雅名)「暉宣(きせん)」のごとく、明らかにされ、宣揚されているのです。この神学は韓国キリスト教会が一日も早く補い、取り揃えるべき、最も必要な中枢神学であります。
この著書は私たちに聖書の神妙な深みに至らせるガイドとしての役目を果たしたのみならず、キリスト教の神学的、聖書的大計を歴史的な系譜研究に於いて成就した功績は、韓国キリスト教会で最も注目されるべきものです。そして、その類い稀なる業績は、必ずや韓国教会史に長く刻まれる事でしょう。信仰の使徒であり、歴史神学の巨大な体系を奥深く、しかも明瞭に解した本書の著者、我らの朴潤植牧師に満腔の拍手をもって謝意を表しようではありませんか。
本というのは著者の思想の圧縮である。
本には著者が信じて、知って求める思想の体系が表れ、それによって尊敬を受けたり批判を受けたりする。
一人を評価するためにはその人の著作物すなわち著書や論文などの1次資料を通じて分析して評価されなければならない。
他人の2 次資料は一つの助けに過ぎない。
書評者は著者を知らない。会ったことはもとより、遠くから見たこともなく、彼の説教を直接聞いたことも、テープを通して聞いたこともない。
また彼が遣わされている教会がどこにあるかも分からない。ただ、「噂によれば」程度の理解であった。
偶然にその本を求めて読んだ。今まで幾多の本を書評した時とは違って、「批判的姿勢」でその本に下線を引きながら読んだ。「一体何の話をしているので彼に対する騒々しい噂があるのか?」という姿勢で熟読した。
まずこの本が持つ幾つかの特徴を集約しよう。
第一、神の救済史的観点で聖書解釈をした。
人類の歴史は神の救済史の摂理によって維持されて進む。著者はこれを強調し、本書全体を本のタイトルと一緒に、「神様の救済史的」観点で叙述した。これは著者の思想を表すこととして、著者が信じて従う根本的な思想が何であるかを正しく提示した。
第二、創世記の正しい理解をはかった。
創世記は聖書の前書きであり、聖書を研究する関門である。著者は創世記の核心である、「系図」すなわち、「トーレドート」を探求した。これは単純に、「生み、死ぬ」こと繰り返す年代記的記録ではなく、神の救いの摂理をあらわしている。系図の救済史的意味と流れを探求することで創世記の正しい理解をもたせる。
第三、聖書から聖書を解釈した。
著者は序文で明らかにしたように神学者ではなく牧会者であり伝道者である。著者は神学的理論を紹介するのではなく、聖書から問題を捜してそれを聖書で解釈する一番原理的な解釈を試みた。理論の羅列で主題を濁ごす本がたくさん見られるなかで、本書は聖書の救済史的主題に従って聖書で解釈する、「平凡の中の非凡」を見せた。
第四、「解説」という資料を提示した。
他の本では見られないところであるが、その分野に対して他の人々の主張が何なのかを紹介して、読者たちにとって正しい判断の素地を提供する。よく自分の主張だけが「最高、最善」であると強調する場合があるが、本書では著者の立場と違う人の資料も紹介して理解の幅を広げている。
五番目、現場の言語で叙述された。
本書では著者が査経会で講論したことを活字化したと言った。使われた言語が口語体で、講壇からそのまま伝達されるメッセージの躍動感を持っている。私たちの伝達する言語が生きている現場の言語でなければならない。本書はコミュニケーションのこのような特性をよく活用した。
本書の体制や編集は非常によくできてあり、読者が負担のなく読める分量という長所を持っている。
書評者はこの本を読んでから頭の中に多くの「疑問符」を持つことになった。その中から幾つかを挙げようと思う。
第一、本書の著者がどうして論難の対象にならなければならないか? 書評者も著者に対する一方的な情報の理解を持っていた。ところが本書を精読した後、どうして本書の著者が論難の対象にならなければならないのかということに、混乱と切なさが生ずるようになった。例えば、一般的に学者たちはノアの方舟が120 年間で造られたと言っているが、本書では聖書に依拠して120 年ではないということを明快に語っている。このようにただ聖書で聖書を解釈しようと労する著者の真実が、その間多くの人々に遮られていたということがまことに切ない。
第二、著者の批判者たちはどうして黙っているのか?
本書の初版が 2007 年 10 月 27 日に刊行されてから2 カ月が経った。この本に問題があったならそれを指摘して、著者の思想的問題を提示しなければならないのに、どうしてみんな沈黙しているのか?
第三、正しい評価を下す時になったのではないのか?
その人の1 次資料を持って評価しなくてはならない。批評者の批評を根本的な資料にすることは学問的批評方法ではない。批評者たちの中には公正な人もいれば、悪意的批評、または職業的批評者たちの多さを否認することができないからだ。
『創世記の系図』を読んで書評者はまことに切なさを感じるところ、韓国の教界が一つの事実を把握して理解するのにあたって、実体に近づくのを渋っていることと、すべてのものの基準を神の御言葉である聖書によらなければならないにもかかわらず、先入観や人間関係、政治的論理によるということは誠に残念である。
もう私たちは和解の道を歩もう。神が私たちに睦まじくする努めをくださった(Uコリ5:18 -19、Tテサロニケ5:13、コロサイ書1:20)。明らかにすべきことは明らかにして、謝るべきことは謝って、私たち皆が手を取り合う和解の道を歩まなければならないことに、本書がその「誘い水」になったらと願う。
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