岡山敦彦先生による絵画セミナー

今年3回目となる岡山敦彦先生による絵画セミナー「レンブラントの信仰と生涯」を開くことができました。

日本でも有名なレンブラントの生涯を追いながら、彼の人生の絶頂と転落を知り、そこで信仰に目覚めた姿から教えられました。

「絵画とは画家自身の信仰告白である」という先生の言葉が印象に残りました。

先生の著作の取り扱いもあります。ご興味のある方はご連絡ください。0475-53-3530

 

秋のイベント

秋のイベントを2つお知らせ致します。

今回3回目になる岡山敦彦先生による特別絵画セミナー「聖書から読み解く絵画〜レンブラントの信仰と生涯〜」です。セミナーは13:30〜ですが、午前中の礼拝(10:30〜)の中でもお話ししてくださいます。当日は著書「信仰の目で読み解く絵画」の販売もあります。

もう一つは再開する「健康食講座ナチュレ」です。当教会を会場に行われます。10月と11月に行います。今回は「おもてなしレシピ」のシリーズです。

どちらもお問い合わせはお気軽にどうぞ。

kazusa_cc@beach.ocn.ne.jp

 

神様は隠れた所で見ておられる

私たちは「人目を気にし過ぎの社会」の中で、人目を気にしないで生きていきたいと願っています。

 

「個性を大切に」「人は人、私は私」「自分を信じる」という響きは良いものとして受け取られます。しかしその根底には自分中心が見え隠れしています。

人々は人目を気にしながらも、自分の欲を満たすことに必死です。

 

宗教は何を教えているでしょうか。

神道では「自分を恥じることがない真心」が大切と教え、

仏教では「失着を離れて、足ることを知れ」と諭します。

キリスト教では「あなたは神の前にへりくだって生きなさい」と語ります。

 

人目を気にしてもがく私たちですが、神の目を気にすることはほとんどありません。

神様は隠れたところで見ておられます。それはもちろん悪いことをしない(罪を犯さないように)ということでもありますが、同時に良いこと(善を行うこと)もまた神様は見ておられるということです。

 

人目ではなく、神目を気にする人生を歩みたいです。

 

 

参考:日本人はなぜキリスト教を避けるのか 勝本正實著 いのちのことば社

喜びに満ちたクリスチャン生活

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ4:6

 

聖書が示す喜びは感情ではありません。聖書的喜びとは「神様がご自身の栄光のために、また神様が信徒の最善のために、あらゆる事柄を支配し、どのような状況でもすべてが万全である」という根底からの確信です。

私たちクリスチャンは、頭では「神様は信頼がおけるお方」だと分かっていますが、本当に私たちは「神様に個人的な完全な信頼をおく」ことが出来ているでしょうか。

そのためには、神様が起こる全てのことを前もって決定しておられること(神の聖定)と、神様が完全な計画に基づいて全てを支配し、遂行しておられる継続的な働き(神の摂理)を確信することが必要です。

この確信に立って、信仰によって自らの責任を果たし、喜びに満ちたクリスチャン生活を送っていきましょう。

 

この方にあって私たちは御国を受け継ぐものともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。(エペソ1:11

 

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを、私たちは知っています。(ローマ8:28

(※益:クリスチャンがキリストに似た者となること)

中間時代

マタイの福音書2章に登場する東方の博士たちは何者でどこからきたのか。彼らはどのようにして「ユダヤ人の王として生まれたお方」を知り、何のためにこのお方を拝みに来たのか。それを知るために必要なことは旧約時代の背景とともに、聖書には記述の無い中間時代(マラキ書と福音書の間の時代)についてです。

それをまとめた表を載せておきます。みなさんの参考になれば幸いです。

罪は水に流せない

ある本を読みました。

日本人は、人は生まれながらにして良い存在であり、悪いことは成長とともに覚えていくといった「性善説」が思想・世界観の根底にあります。そして、罪は人の心から生じるのではなく、行いとして外からおこるものと捉え、謹慎や償いやお祓いによって赦され、落とされ、忘れられて清められると考えられているそうです。「誰でも叩けば埃が出る」、「根っからの悪人はいない」という言葉をよく聞きます。どのような人でも受け入れる事のできる日本的な「温かさ」「大らかさ」は、こういうところから来ているのかなと考えたりもします。

一方キリスト教では、生まれながらにして人は罪ある者として生まれたと教えます。その証拠に人は良いことは教えられなければできませんが、悪いことは教えられなくてもできます。その罪ゆえに神の裁きを受けると教えています。

罪の理解がずいぶん異なっていますね。クリスチャンとなり、罪や過ちを失敗として受け止め、深刻に考えることを避ける傾向は、自分自身を高く評価したい欲望の産物なのだと知りました。非常に厳しい。しかし、それを知り得たことは非常に嬉しい。

罪の解決方法を見てみると、神道では晦日の大祓いによって、国民の罪や汚れが全て取り除かれていると考えられているそうです。

キリスト教では、罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の血によって清められなければなりません。どちらも罪の清めが必要であることを強調しています。

罪はそのままで水に流すことはできません。罪は知らず知らずになくなることはありません。