喜びに満ちたクリスチャン生活

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ4:6

 

聖書が示す喜びは感情ではありません。聖書的喜びとは「神様がご自身の栄光のために、また神様が信徒の最善のために、あらゆる事柄を支配し、どのような状況でもすべてが万全である」という根底からの確信です。

私たちクリスチャンは、頭では「神様は信頼がおけるお方」だと分かっていますが、本当に私たちは「神様に個人的な完全な信頼をおく」ことが出来ているでしょうか。

そのためには、神様が起こる全てのことを前もって決定しておられること(神の聖定)と、神様が完全な計画に基づいて全てを支配し、遂行しておられる継続的な働き(神の摂理)を確信することが必要です。

この確信に立って、信仰によって自らの責任を果たし、喜びに満ちたクリスチャン生活を送っていきましょう。

 

この方にあって私たちは御国を受け継ぐものともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。(エペソ1:11

 

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを、私たちは知っています。(ローマ8:28

(※益:クリスチャンがキリストに似た者となること)

中間時代

マタイの福音書2章に登場する東方の博士たちは何者でどこからきたのか。彼らはどのようにして「ユダヤ人の王として生まれたお方」を知り、何のためにこのお方を拝みに来たのか。それを知るために必要なことは旧約時代の背景とともに、聖書には記述の無い中間時代(マラキ書と福音書の間の時代)についてです。

それをまとめた表を載せておきます。みなさんの参考になれば幸いです。

罪は水に流せない

ある本を読みました。

日本人は、人は生まれながらにして良い存在であり、悪いことは成長とともに覚えていくといった「性善説」が思想・世界観の根底にあります。そして、罪は人の心から生じるのではなく、行いとして外からおこるものと捉え、謹慎や償いやお祓いによって赦され、落とされ、忘れられて清められると考えられているそうです。「誰でも叩けば埃が出る」、「根っからの悪人はいない」という言葉をよく聞きます。どのような人でも受け入れる事のできる日本的な「温かさ」「大らかさ」は、こういうところから来ているのかなと考えたりもします。

一方キリスト教では、生まれながらにして人は罪ある者として生まれたと教えます。その証拠に人は良いことは教えられなければできませんが、悪いことは教えられなくてもできます。その罪ゆえに神の裁きを受けると教えています。

罪の理解がずいぶん異なっていますね。クリスチャンとなり、罪や過ちを失敗として受け止め、深刻に考えることを避ける傾向は、自分自身を高く評価したい欲望の産物なのだと知りました。非常に厳しい。しかし、それを知り得たことは非常に嬉しい。

罪の解決方法を見てみると、神道では晦日の大祓いによって、国民の罪や汚れが全て取り除かれていると考えられているそうです。

キリスト教では、罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の血によって清められなければなりません。どちらも罪の清めが必要であることを強調しています。

罪はそのままで水に流すことはできません。罪は知らず知らずになくなることはありません。

福音書の比較

7月から礼拝メッセージがマタイの福音書に入りました。1:1の系図から始まりましたが、そこに現された神様の恵みに感動しました。なぜ新約聖書には福音書が4つもあるのか、マタイとルカの系図はどう違うのか。まとめた資料を載せておきます。みなさんの聖書通読に、デボーションにお用いください。

BBQ!!

毎年恒例(?)のバーベキューを行いました。

その日は晴れ、降水確率0%、最高気温32℃でした。

うだる暑さの中でのバーベキューは楽しいひとときとなりました。

一緒に礼拝をささげ、交わりの時を持つことができること感謝です。

 

 

 

 

 

 

 

google map 表示1000回

新会堂を建築して、昨年8月にgoogle map にアップしたところ、8ヶ月で1000回のビューがあったようです。会堂は通りから少し入っているので多くのみなさんにご確認いただいた結果だと思います。

もっと会堂が認知されるように頑張ります。

イースター礼拝のお知らせ

4月16日のイースター礼拝のお知らせです。

イエス・キリストは死なれただけでなく、よみがえられました。

そのよみがえり(復活)を祝うのがイースターです。

なぜ祝うのか。その理由を知ると祝わずにはいられません。

当日は特別賛美もあります。どなたでも歓迎致します。