心の貧しき人々への福音

「心の貧しき人々への福音」ルカの福音書2章8節~16節

いよいよクリスマスの礼拝を迎える日となりました。クリスマスは、イエス・キリストの誕生日で12月25日と定められています。しかし、実は、聖書には、イエス様が生まれた日が何月何日であるか書かれてありません。それは、後のカトリック教会が定めたもので、確かな日にちではありません。今日のお話の場面で、羊飼いたちが夜、野宿している所に主の使いが現れますが、イスラエルの国の12月は気温が低く、この時期に外で羊飼いが野宿することはないと言われています。それゆえ、イエス様の誕生は、春か秋ごろではないかと言われています。確かなことはだれにもわかりません。しかし、救い主イエス様が何時、生まれたかということよりも、神の子が人としてお生まれになられたという事実の方が大切で、いつ生まれたかということは、私たちにとってそれほど重要なことではありません。

神様は、救い主の誕生を、祭司やユダヤ教の指導者たちではなく、貧しい羊飼いたちに告げ知らせました。羊飼いにも大きく分けて二つに分けることができます。多くの羊を持ち、使用人をたくさん抱えるお金持ちの羊飼いと雇われた羊飼いたち。この雇われた羊飼いたちは貧しい人々で、羊飼いという仕事のゆえに、神様の定めた戒めを守ることができず、祭司や律法学者(ユダヤ教の指導者たち)から、罪人と呼ばれ、蔑まれていました。そんな羊飼いたちの前に、主の使いは現れ、救い主の誕生という素晴らしい知らせを伝えたのです。その知らせを受けた羊飼いたちはどうしたでしょうか。15節「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見てこよう。」と言って、幼子を捜しに行き、幼子を捜しあて、この出来事を人々に知らせたとあります。また、その話を聞いて人々は驚いたとあります。

先週もお話しましたが、祭司たちはローマ政府から経済的な支援を受け、豊かな生活をしていました。彼らは、救い主の誕生という神様の祝福は必要としていませんでした。それゆえ、神様はこの世の生活で満足している祭司たちではなく、貧しく、将来の希望のない羊飼いたちにこの喜びの知らせを伝えられたのです。イエス様が群衆にお話になられた時、たとえ話を多くお話になられました。そして、人々に聞く耳のある者は聞きなさいと言われました。誰でも、耳は持っていますが、相手の話を聞こうと真剣に耳を傾けなければ、相手の話を理解することはできません。祭司たちは神様のことばを聞こうとはしませんでした。それゆえ、神様は貧しい羊飼いたちを選ばれたのです。

マタイの福音書5章にイエス様が群衆に語られた有名なことばがあります。3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」ここでイエス様が言われた「心の貧しい」という意味は、心が空っぽの状態を言います。祭司たちは、この世の富で心の中がいっぱいでした。心の貧しい人々とは、この世の富や名声で心が満たされていない人のことを言います。学校の学びでもそうですが、興味を持って先生の話に耳を傾ける人は、どんどん吸収しますが、興味のない人は、何時間そこに座っていても、何も得ることができません。イエス様は、神様のことばに興味を持って耳を傾ける者は幸いであると言われたのです。なぜなら、その人こそ、天の御国を自分のものとすることができるからです。

私は今、毎週木曜日にお茶の水でカウンセリングを学んでいます。今、後期の授業で、心の問題について学んでします。最近「孤独」ということを学びました。そのことは、今日の夜、クリスマスイブ礼拝でお話する予定です。その授業で最初に学んだことは、「人間という者は、本来孤独な存在であって、それを隠蔽することは出来ても、生きている限りその感情に揺さぶられる者です。」ということでした。人は一人で生まれて、一人で死んでいかなければならない。親兄弟、お金、名声、愛する者も誰も、その人を死の苦しみから助けることはできません。お金や名声、異性の愛によって一時的には心を満たしたとしても、それは、自分を偽っているだけで、その人を孤独から解放することは出来ません。誰でも、最後は、自分の死を自分一人で受け止めなければなりません。

しかし、イエス・キリストだけが、私たちを死の苦しみから解放してくださるお方です。イエス・キリストは神の子であられるのに、人として生まれ、十字架に付けられて殺されました。聖書は、イエス・キリストの死は私たちの罪の身代わりの死だと教えています。世の終わりの時、全ての人は神様の前に立たされ、自分の行いによって裁かれるとあります。私たちは自分の罪の問題を自分の力で解決することはできません。それゆえ、神自ら人として生まれ、私たちの罪を全て背負って、十字架の上でご自分のいのちを犠牲にされたのです。聖書は私たちにこのように教えています。「イエス・キリストを神の御子、救い主と信じる者の罪は赦される。」なぜなら、イエスを神の御子と信じる者の罪は、すでにキリストの十字架の死によって贖われた(赦された)からです。死の恐怖は、(1)死んだ後、人はどうなるかわからないという恐怖。(2)死んだ後、人は神様によって裁かれ、地獄に落とされるという恐怖のどちらかです。死んだ後、天国で永遠に暮らすなら、死は恐怖ではなく、楽しみとなります。死は、誰にとっても恐怖ですが、その死についても、神様が共におられると聖書に約束されています。

聖書の人物の中で、「孤独な人」と言えば、ヨブ記に登場するヨブを思い出します。ヨブは、当時、誰よりもお金持ちで豊かな生活をしていましたが、突然、彼に不幸が訪れ、財産、家族を健康をも失ってしまいました。ヨブの不幸を知った友人たちは、ヨブを慰めに来ますが、彼らはヨブの罪を責め、さらにヨブを苦しめました。この苦しみの時、ヨブが求めたのは神様でした。ヨブはこの苦しみを通して、神が自分の苦しみを知っておられること、神が自分の近くにおられたことを知り、神様に対する信頼、信仰を深めることができました。孤独にも二種類あります。(1)ロンリネス(loneliness)(2)ソリチュード(solitude)ロンリネスは完全に他人との関係が切れた危険な状態を言います。ソリチュードは自ら一人となり、自分自身を見つめる時を言います。芸術的な活動をする人にはソリチュードが必要になります。また、私たちも、自分自身を見つめる時が必要ではないでしょうか。自分の過去の歩みを振り返り、自分自身の弱さに目を留める時、人は、自分の力を超えた神を求めます。私たちは、私たちの創り主、神と出会って、初めて自分の弱さを受け入れ、それでも、愛してくださる神様の愛に気付く時、心のむなしさが満たされ、心に平安を持つ者となるのです。