救い主の誕生をお祝いする

「救い主の誕生をお祝いする」マタイの福音書2章1節~12節

クリスマスが日本の年中行事として各家庭で祝われるようになったことは好ましいことです。しかし、その意味が抜けて、形だけが残り、サンタクロースやクリスマスのイルミネーションだけが強調されるのは残念なことです。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝うお祭りだということは多くの人々が知っています。では、なぜ、ユダヤの国のベツレヘムという小さな町で生まれた、しかも大工の息子として生まれたイエスという人の誕生を世界中でお祝いするのでしょうか。それを知るのは、日本では教会に通っているクリスチャンだけでしょう。

また、救い主であるイエス様がお生まれになったことを誰が喜んだでしょうか。マタイの福音書2章を見ると、東方の博士たちが不思議な星に導かれ、遠くイスラエルの国に導かれ、おさな子イエス様を礼拝し、黄金、乳香、没薬をささげたとあります。東方の博士たちがユダヤの王ヘロデに謁見し、ユダヤ人の王として生まれたおさな子について尋ねたとき、ヘロデは恐れ惑ったとあります。自分がユダヤの王であるにもかかわらず、自分の知らない所で新しいユダヤの王が生まれたことは、ヘロデにって脅威でした。それは、ヘロデ王が、自分の力でユダヤの王になったのではなく、ローマ政府の権限によって任命された王様であったからです。また、それは、いつ王位が奪われるか不安定な地位でした。それゆえ、ヘロデ王は自分の地位を奪い去る、新しいユダヤの王の誕生を恐れたのです。

神に仕える祭司たちは、ヘロデ王から、キリストはどこで生まれるのかを尋ねられた時、ユダヤのベツレヘムですと答えています。それは、旧約聖書のミカ書にユダの地、ベツレヘムにイスラエルを治める支配者が生まれることが預言されていたからです。しかし、祭司や民の長老たちは、ヘロデ王から新しいユダヤ人の王が生まれたことを聞いても、東方の博士たちと共に、そのおさな子を探しに行きませんでした。それは、彼らにって救い主の誕生は喜ばしい知らせではなかったからです。当時のユダヤの国は、ローマ政府に支配されていましたが、ローマ政府は各国の宗教には寛容で、その国の神々を自由に礼拝させていました。ユダヤの国においても、彼らは自由に神様を礼拝しその生活は安定していました。それどころか、ローマ政府は、ユダヤの国を自分たちに都合の良いようにコントロールするために、祭司やサドカイ人を優遇し、経済的な支援を行っていました。それゆえ、祭司たちは、経済的に恵まれ、ユダヤの国の中でも豊かに暮らしていたのです。

私は初めてこの個所を読んだ時、不思議に思いました。それは、どうして神様は、ご自分に仕える祭司や民の長老たちに救い主の誕生の知らせを伝えないで、異邦人である東方の博士たちに、救い主の誕生を知らせたのだろうかということです。これは推測ですが、当時豊かな生活を送る祭司や民の長老たちは、救いを必要としていなかったのではないか。また、現在の安定した生活に慣れすぎてしまい、救い主の誕生に興味がなかったのではないかと思います。

神様が私たちに与えてくだる救いの恵みは、私たちに強制的に与えられる恵みではありません。私たちが救いの恵みを求めたときに与えられる恵みです。パスポートの事を考えてみましょう。日本国籍であれば誰でも、申請すればパスポートを作ることができます。しかし、日本国籍を持っていても、外国に行かない人にとっては、パスポートは必要のない物で、現に、日本人でもパスポートを持っていない人がたくさんいます。日本で暮らしているうちは、パスポートが無くても何の問題もありません。しかし、外国に行こうとするなら、パスポートがぜひ、必要な物になります。

神様が私たちに与えてくださる救いの恵みも、私たちがこの地上で生活するだけなら、必ずしも必要な物ではありません。現に、日本のクリスチャンの人数は、人口の1%に満たない数だと言われています。それゆえ、日本人の99%はこの救いの恵みを持っていないことになります。それでも普通に生活しています。しかし、終わりの時が来たらどうでしょうか。この救いの恵みが無ければ、自分の犯した罪のために天の御国に入ることができなくなってしまいます。

バプテスマのヨハネが、イエス様より先に宣教の働きを始めました。その時、第一にバプテスマのヨハネが群衆に語った言葉が「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言うメッセージでした。イエス様が悪魔の誘惑を退けた後、宣教の働きを始められましたが、イエス様が最初に言われた言葉も「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という、バプテスマのヨハネと同じ言葉でした。

私たちが、神様から救いの恵みを頂くためにしなければならない、第一の事は自分の罪を認めて悔い改めることです。ユダヤ人の場合、自分たちはアブラハムの子孫であるから、我々は聖い民、罪はないとパリサイ人たちは、人々に教えていました。バプテスマのヨハネの教える悔い改めとは、その考えを捨てて、自分たちの罪を認め、神様に救いを求めなさいというメッセージでした。多くの群衆がバプテスマのヨハネのメッセージに心刺され、バプテスマのヨハネの所に集まり、彼から洗礼を受けました。ところが、パリサイ派の律法学者たちは、バプテスマのヨハネの教えを批判し、彼を正当な預言者と認めようともしませんでした。

私たちはどうでしょうか。日本人は死んだ人間はだれでも天国に行くと漠然と信じているので、罪について真剣に考えない人が多くいます。私自身も教会に来るまで自分の罪について考えたことがありませんでした。教会に来て、全ての人は罪を犯したので、天の御国に入ることができなと聞いた時に、はじめて、自分の罪について考えるようになりました。それでも、救い主イエス様が身代わりにならなければ、天国にはいることができないような罪が自分にあるとは思いませんでした。しかし、教会に通ううちに、聖書が教える罪が何であるのかがわかってくることによって、自分の罪の重さ、大きさがわかるようになりました。そして、自分の罪の問題を自分で解決することができないことがわかった時、初めて、神様の助が必要であることがわかったのです。

神様の救いの恵みはただで、だれでも受け取ることができます。しかし、本人が罪の自覚を持ち、神様に助けを求めない限り、誰も、この救いの恵みを自分の物にすることはできません。聖書の有名なことばに、マタイの福音書7章7節8節「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そすすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」とあります。

救い主の誕生を知らされた人々は、ユダヤ人から罪人扱いされていた、異邦人たちでした。また、ルカの福音書では、御使いが羊飼いに救い主の誕生を知らせたことが記されています。当時の羊飼いという仕事は、身分の低い人たちの仕事とされていました。そのような身分の引く人たちに救い主の誕生が知らされました。そして、彼らは御使いの知らせが本当か、調べに行き、飼葉桶に寝ておられる幼子を見つけたとあります。私たちは救い主の誕生を必要とする者でしょうか。それとも、自分とは関係ない、ただ二千年前に起きた出来事でしょうか。クリスマスが近づいた今、私たちは自分の罪についてもう一度考えてみましょう。