使徒信条(3)おとめマリヤから生まれたお方

「使徒信条(3)おとめマリヤから生まれたお方」ルカの福音書1章28節~35節

使徒信条は、私たちクリスチャンがどのような神を信じ、また、何を信じているかを短い文章で表したものです。このことばを毎週、唱えることによって、私たち一人一人は、自分が何をどのように信じているかを確認することができます。そのことは、日本のような、多神教の国では、特に大切な事です。今日は、三回目、「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ」から学びます。

キリスト教の教えの中で、絶対に取り除いてはならない教えが、二つあります。それは、処女降誕と死からの復活です。もし、この二つの教えのうち、一つでも取り除くなら、キリスト教がキリスト教でなくなってしまうほど、この二つの教えはキリスト教に不可欠な教えです。また、この二つの教え「処女降誕」と「死からの復活」は一つの繋がった教えであり、二つとも、イエス・キリストが神(神の子)であることを証明する出来事なのです。また、この二つの出来事は、神の奇跡であり、人間の常識や、科学で説明できない出来事です。それゆえ、私たちは、この二つの奇跡がどのようにしてできたのか、また、どのように可能なのかを説明することはできません。私たちは、この二つの奇跡を理解するものではなく、神の御業として信じる者(受け入れる者)です。神様は、この二つの奇跡を人間に理解させようとはなさいませんでした。私たちが見て理解できる物的証拠を残されませんでした。神様が私たちに求められたのは、この二つの奇跡を神の御業として信じるか信じないかです。また、神様は私たちが、神の御業をみて信じる為に神のことばである聖書を与えてくださったのです。

1.おとめマリヤから生まれ。

先週は、ヨセフを通して「イエス(救い)」の意味を学びました。今日は、ルカの福音書を通してマリヤから学びます。イエス様はおとめ(処女)マリヤからお生まれになられました。なぜ、神様は、私たちと同じように、イエス様をマリヤとヨセフが結婚をし、二人から誕生させなかったのでしょうか。ここに大切な教えが隠されています。もし、イエス様が、マリヤとヨセフが一緒になって生まれたならば、どのように、イエス様が神の子であることを証明できたでしょうか。イエス様はヨセフの力を借りることなく、マリヤという女性の体を通して、聖霊によって誕生されたのです。その意味は、イエス様が、人間ではなく、神(神の子)であることを表す奇跡でした。

神はなぜ、処女のマリヤを必要とされたのでしょうか。

(1)私たちと同じ体をもつことによって、人間の、痛み、苦しみ、悲しみを体験するため。

(2)死んでよみがえるため。(血を流すためです)

イエス様が、神の姿で地上に降りてこられたら、誰が、イエス様の姿を見ることができたでしょうか。私たちは、イエス様の栄光の姿をこの目で見ることはできません。また、イエス様が肉体を持って生まれたからこそ、イエス様は、私たちの苦しみ痛みを知り、私たちを完全に慰めることができたのです。また、イエス様が、神の姿で地上に来られても、神は死ぬことができないので、私たち罪の身代わりとなって死ぬことができませんでした。また、それゆえ、死からの復活もありませんでした。それゆえ、イエス様は、神の子であるのに、私たちと同じ、苦しみと痛みを持つ為に、肉体を持って幼子として誕生してくださったのです。また、イエス様の誕生は、十字架に付けられて殺される為の誕生でした。誰が、神が罪人の代わりに罰を受けて十字架で死なれたと信じることができるでしょうか。誰も、そんな神がおられるとは信じることができません。それゆえ、ユダヤ人は今でも、イエス・キリストを救い主(メシヤ)と信じることができないのです。

処女のマリヤから男の子が生まれることは不可能なことでしょうか。創世記に登場するアブラハムとサラは、アブラハムが百歳、サラが九十歳で男の子を産み、その子にイサクという名を付けました。アブラハムは75歳で神様と出会い、親族から離れ、神様の祝福された土地へ行くように命じられました。また、その約束に従うなら、大いなる国民の父としてアブラハムを祝福すると約束してくださいました。アブラハムはその約束を信じて、神のことばに従って出かけました。しかし、神様の約束された地カナンについても、二人には子どもが与えられませんでした。アブラハムが86歳の時、彼は、サラの女奴隷、エジプト人ハガルを通して男の子を得ました。そして、その子にイシュマエルと言う名を付けました。しかし、イシュマエルは神様の契約の子ではありませんでした。その後、アブラハムが99歳、サラ89歳の時に、御使いが現れ、来年の今頃、サラが男の子を産むと告げました。アブラハムもサラも人間的な思いでは神のことばを信じませんでしたが、二人は信仰によって、神様のことばを信じました。そして、翌年、神様の約束通り、百歳のアブラハム、九十歳のサラに男の子が生まれたのです。このことは私たちに何を教えているでしょうか。それは、神には不可能は無いということです。百歳のアブラハム、九十歳のサラが子を産むということと、処女のマリヤが子を産むとういうこととどれほどの違いがあるでしょうか。どちらも、人間の考え、常識では不可能なできごとです。しかし、神様の計画、神の力が働かれる時、人間の常識を超える出来事が現れます。なぜなら、神は全能のお方だからです。

2.聖霊によって生まれた方。

聖霊によってマリヤがみごもったということは、聖霊とマリヤの間に性的な関係があったということではありません。マリヤの体を通して、イエス様が人として(肉体を持って)生まれたと言うことです。イエス様が、マリヤとヨセフの夫婦関係で生まれなかった理由に罪の問題があります。私たち人間はすべて、アダムとエバの子孫として生まれた時、すべての人は原罪を持って生まれてきます。原罪とは、罪を犯しやすい性質をさします。それゆえ、聖書はすべての人が罪を犯した、罪人であると証言しています。私たち人間は、罪の無い者として生まれて、社会の悪に影響されて罪人になるのではありません。初めから、罪を犯しやすい者として生まれ、罪人として生活をしているのです。すべての人は、アダムの子孫としてこの原罪を持って生まれます。しかし、この原罪に影響されない人が一人だけ存在します。それが、イエス・キリストです。イエス様は、肉体を持って生まれましたが、神の本質を持って生まれました。それを、専門のことばで「二性一人格」と言うことばで表します。わかりやすく言えば、神が肉体を持って誕生されたと言う意味です。先程、イエス様は、私たちの罪の身代わりとして死ぬ為に生まれたと説明しました。もし、イエス様が私たちと同じ罪を持った人間であれば、死んで復活されることは無かったでしょう。イエス様は神であり、罪に支配されないお方だからこそ、死んで三日目に復活することができたのです。また、イエス様が私たちと同じ罪を持ったお方あるなら、私たちの罪の身代わりになることはできなかったでしょう。つまり、私たちの罪を取り除くことはできないということです。イエス様の十字架の苦しみと死は私たちの罪の結果でした。しかし、イエス様は神の子であるがゆえに、死を滅ぼし、復活して天に昇っていくことができたのです。

3.結論

もし、私たちがイエス様の「処女降誕」を信じないとしたら、どのようなことが起こるでしょうか。その人たちは、イエス様の十字架の死を悲しむかも知れません。愚かだと思う人もいるでしょう。尊い死とイエス様の死を賞賛する人もいるかもしれません。しかし、そのような人たちは同じように、イエス様の復活も信じない人々です。それでは、イエス様の復活を信じない人は、自分の罪の問題をどのように解決するのでしょうか。ユダヤ人は、神が人となり罪人のために十字架で死なれ、復活されたことを信じません。それゆえ、彼らは、神様の戒めを守ることによって、神様に近づこうと努力しています。皆さんはどうでしょうか。私が、調べた限りでは、神が罪人を救う為に、傷つけられ自ら死なれた神を見つけることができませんでした。お金儲けの神、病をいやす神、人を幸せにする神はたくさん存在しますが、私たちの罪の問題を解決し、私たちを天の御国に入れてくださる神はイエス・キリストだけです。それゆえ、私は、イエス・キリストを真の、唯一の神と信じました。皆さんはなぜ、イエス・キリストを真の神と信じたのでしょうか。