使徒信条(2)イエス・キリストを信ず

マタイの福音書1章19節~21節

先週から、使徒信条を通しての学びを始めました。1回目は「我は天地の造り主、全能の神を信ず」 大切なことは四つ。
1.使徒信条は私個人の信仰の告白であること。
2.私たちが信じる神様は天地全てを造られた造り主、主権者であること。
3.私たちの信じる神は全能であり、不可能の無いお方永遠に存在される方。
4.私たちは、イエス様を通して、創造主なる神と父と子の親しい関係を結ぶことができる。
今日は、続いて、「我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」から学びます。イエス・キリストという名前には特別な意味があります。

1.「イエス」の意味。
マタイの福音書1章を見ると、マリヤとヨセフは婚約の状態でした。(ユダヤ教の法律では、正式な夫婦でした。)ところが、ヨセフはマリヤが身重になったことに気がついたのです。二人は婚約状態ですから、夫婦の関係はまだ結んでいませんでした。ヨセフは信じたくありませんでしたが、マリヤの妊娠は姦淫の罪を犯したことになり、それは自分への裏切りでした。ユダヤの国では、姦淫の罪は重く、人々から石を投げられて殺されると言う死罪にあたる罪でした。マリヤを愛するヨセフは思い悩んで、婚約を解消し、密かにマリヤを離縁しようと考えていたのです。その時、主の使いが夢でヨセフに現れこのように言われました。マタイの福音書1章20節21節「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださる方です。」「イエス」と言う名はマリヤとヨセフが考えた名前ではありませんでした。神様が主の使いを通してヨセフに命じられた名です。人間でも、実の子に名を付ける時、その意味を考えて名づけます。まして、神様が名を付ける時、特別な意味があるのです。アブラハムの名の意味は、多くの国民の父という意味でした。「イエス」は「救い」と言う意味です。それも、ご自分の民を罪から救う救い主という意味だったのです。「イエス」はギリシャ語の読み方ですが、ヘブル語では「ヨシュア」いうことばになります。旧約聖書のヨシュア記と同じです。出エジプト記は、モーセによってイスラエルの民がエジプトから助け出され、神様がアブラハムに約束した地カナンを目指すお話ですが、モーセはカナンの地に入ることが許されませんでした。イスラエルの民をカナンの地に導いたのは、モーセの従者ヨシュアでした。モーセは旧約聖書の律法を代表する者です。モーセがカナンの地に入ることができなかったのは、律法による救いの完成がないことを表しています。神様の計画はヨシュア(救い)によって完成することでした。そして、その救いとはイエス様を指していたのです。

2.「キリスト」の意味。
「キリスト」と言うことばは、名前ではありません。職責、職務、称号を表すことばです。例えば、エジプトの王の称号は、「パロ」でした。代々エジプトの王をパロと呼んでエジプト人は称えてきました。キリストはギリシャ語の読み方ですが、ヘブル語では「メシヤ」と言うことばで表されます。「メシヤ」と言うことばの意味は「油注がれた者」と言う意味です。旧約聖書の時代、イスラエルの民は、祭司、王、預言者を任命する時、頭に油を注いで任命しました。その油は、聖霊を表していました。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、「天が開け、神の御霊が鳩のように(イエス様の上に)下った。」とあります。その時、イエス様は父なる神様から、メシヤとして油注がれたのです。ユダヤ人たちは、旧約聖書の預言のことばを通して、ダビデの子孫からメシヤ(救い主)が生まれると信じていました。バプテスマのヨハネが登場した時、人々は、バプテスマのヨハネがメシヤではないかと期待しました。バプテスマのヨハネは自分がメシヤではないことを公に証言しました。そして、自分はメシヤの前に道を整えるものであることを証言したのです。そのバプテスマのヨハネが、イエス・キリストこそ、旧約聖書で預言されたメシヤであることを証言したのです。イエス様が宣教の働きを始められた時代、人々はそのように旧約聖書に約束されたメシヤを待ち望んでいました。しかし、当時のユダヤ人が待ち望んだ救い主は、ローマの支配から助け出す、王としてのメシヤでした。しかし、イエス様は、イスラエルの民を罪から救うために、神様から遣わされた救い主でした。人々は、イエス様に、イスラエルの国をローマの国から独立させる王として期待しましたが、イエス様は一切そのような行動を行いませんでした。それゆえ、人々の期待はイエス様から離れてしまい、律法学者、祭司たちがイエス様を殺す機会を得ることになったのです。

3.結論。
私たちは、使徒信条で「我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」と告白します。ここで、私たちは二つの大切な真理を告白しているのです。
1.イエス・キリストは私たちを罪から救い出す救い主である。
2.イエス・キリストは旧約聖書に預言されたメシヤであり、父なる神から任命されたメシヤである。
ユダヤ教は、神様の戒め律法を完全に守ることによって救われると信じています。それゆえ、彼らは、熱心に旧約聖書を研究し学びました。後に、キリスト教の伝道者となるパウロもそのような人でした。しかし、自分はどんなにがんばっても律法を完全に守ることができなくて悩んでいたのです。そのパウロに復活したイエス様が現れて、イエス・キリストの十字架の死は、人々の身代わりの死で、イエス・キリストを信じることによって人は罪を赦され天国に迎えられることを教えられたのです。パウロはそのときから、キリスト教を世界中に伝える伝道者として変えられたのです。
私たちが「イエス・キリストを信ず」と告白する時、自分の力では罪の赦しが無い、イエス・キリストを通して以外、救いがないことを告白しているのです。日本人は罪の意識が低い国民だと思います。私自身、教会ではじめて、あなたは罪人ですと言われて、反発を感じました。しかし、それは、本当の罪が何であるか知らなかったからです。聖書で教える罪は、日本の法律で定められた以外に、神様の定めた戒めがあります。それゆえ、私たちは、その神様の基準を知らなければなりません。私たちの罪を裁くのは、日本の法律ではなく、神様です。私たちは、その神様の目に叶う罪の無い人になることができるでしょうか。聖書は誰もいないと教えています。それゆえ、イエス様は神の子であるのに、肉体を持ち死ぬために、人として生まれ、十字架に付けられて死んでくださいました。私たちは、そのキリストの十字架の死を通して救われることを信じる者です。「イエス・キリストを信ず」とはそれほど深い意味があるのです。