人の心を開かれる神

「人の心を開かれる神」使徒の働き16章11節~15節

イエス様は群衆に神様のお話をされる時、例えを用いてお話をされました。当時、イエス様の周りに集まってきた人々は、漁師や農村で働く人々でした。また、彼らは旧約聖書を正式に学んだ人々ではありませんでした。それゆえ、イエス様は彼らにもわかるようにたとえを用いて神様のことを伝えようとされたのです。

イエス様のたとえ話の中で有名なお話に種まきのたとえがあります。マタイの福音書13章3節~8節ここでイエス様は四つの違う土地についてお話されました。(1)道ばた。(2)岩地。(3)いばらの中。(4)良い地です。イエス様は弟子たちにこのたとえの意味を19節~23節で説明しています。

  • 道ばたに蒔かれた種について。19節「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪っていきます。道ばたに蒔かれるとはこのような人のことです。」当時の農業はおおざっぱで、袋に穴をあけて種を入れ、馬に引かせて、種を蒔いたそうです。それゆえ、あちらこちらに種が蒔かれ、道ばたにも種が蒔かれることもありました。ここで「悪い者」とはマルコの福音書では「サタン」が来ると説明しています。道ばたに蒔かれるとは、明らかに、神様のことばを聴く準備のできていない人のことを指しています。神様に興味がない、神様を必要としていない人に、いくら聖書の話をしても信じることは出来ません。せっかくの神様のお話も、右の耳から入って左の耳から抜けていくからです。
  • 岩地に蒔かれた種について。20節21節「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると。すぐにつまずいてしまいます。」この人は、みことばを聞いて受け入れた人です。別の言葉でいえば、神様を信じた人です。しかし、何の目的で神様を信じたのかが大切です。ご利益を求めて、商売繁盛や病のいやし、問題を解決する目的で神様を信じたのであれば、それは、神様を利用する信仰で、そのような人は、困難や迫害があればすぐに身を引いてしまう人たちです。
  • いばらの中に蒔かれた種について。22節「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばないひとのことです。」この人も、神様を信じています。しかし、神様より、この世の知恵や富の方が大きく見えて、みことばを実行しない人です。聖書のことばは聖書の中の世界で、実際の自分の生活とは関係ありません。そうすると、みことばを知っていても実行しないので、その人の生活は以前のままです。実を結ぶような豊かな人生は生まれてきません。
  • 良い地に蒔かれた種について。23節「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」「悟る人」とは理解して実行する人のことを指しています。神様のことばを聞いて終わりではなく、自分の人生にあてはめ、実際に行動に移す人のことです。

では、実際にどのような人が、良い地に蒔かれた種となるのでしょうか。使徒の働き16章に紫布の商人ルデヤと言う女性が登場します。この場面は、パウロが第二回伝道旅行のおり、神様がマケドニヤに渡って伝道するように幻で示されたところから始まりました。パウロたちはトロアスから船に乗り、マケドニヤに渡り、ピリピへと旅を続けました。パウロは本来、伝道の始めに会堂にてユダヤ人たちに福音を宣べましたが、このピリピの町にはユダヤ人が少なく、ユダヤ人が礼拝する会堂がありませんでした。しかし、パウロは少数の女性たちが川岸で集まって祈っているのを知り、彼女たちの所に行って福音を語ったのです。その女性の中にルデヤがいました。ルデヤとはどのような女性でしょうか。聖書は彼女について詳しく説明していません。それゆえ、推測するしかありません。まず、ルデヤとは本名ではありません。ルデヤとはルデヤ地方の女性という意味です。小アジアにルデヤという町があります。この町は紫布の生産で有名な町でした。当時、紫布は高級品で、王様や貴族、お金持ちしか使用できないほどの高価な布でした。紫布を作るために当時は、アッキ貝から取れる特別な分泌物で紫色を染めていたそうです。それも、アッキ貝から取れる分泌物は量が少なく、大量のアッキ貝が必要でした。それゆえ、紫布は特別な代物となり、王様や貴族しか使用することができない高価な布とされていたのです。ルデヤはこのルデヤ地方から紫布を仕入れて、ピリピの町で販売していたのではないかと考えられています。しかし、それは、行商のようなものではなく、王様や貴族と商売をするわけですから、かなりの金持ちであったと考えられます。元々、ルデヤはユダヤ人ではありませんでした。ルデヤ地方でユダヤ教に接して、ユダヤ教に改宗した者と考えられています。その彼女が商売のために、ピリピに店を構え、安息日には、他のユダヤ人女性と共に神様を礼拝していたのではないでしょうか。今日、皆さんに目を留めていただきたい言葉は14節の言葉「主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」という個所です。この後、ルデヤはパウロたちを自宅に招いて接待をしました。そして、ルデヤの家を中心にピリピで伝道活動が行われ、キリスト教がこの町に広がったと言われています。ルデヤはピリピ教会の中心人物となり、経済的にもピリピ教会を助けたと言われています。

川岸で、パウロのお話を聞いたのは彼女だけではありませんでした。神様が特別に彼女の心を開いて、パウロの語る事を心に留めてくださったのです。そして、彼女はパウロたちを自宅に招きました。そして、彼女の家を中心にピリピの町でキリスト教が広がって行ったのです。確かに、彼女はユダヤ教に熱心で、安息日に共に集まって祈る人でした。しかし、彼女の心を変えたのは神様の力でした。私たちが神様のことばを心に留めるためには神様の働きが必要です。しかし、一方、彼女の心の備えも必要でした。彼女は素直に神様のことばに耳を傾ける人でした。そういう意味では、彼女の心は良い地の状態で、そこに御言葉の種が蒔かれたのです。そして彼女はすぐにパウロたちを招くという行動に出ました。ルデヤはみことばを聞くだけではなく、実行する人でした。まさに、良い地に種が蒔かれたように、彼女の人生は、100倍の実を結ぶ人生となったのです。