タラントとミナのたとえ

「タラントとミナのたとえ」マタイの福音書25章14節~30節

イエス様のたとえ話で、「貨幣」お金をたとえにしたお話が二つあります。一つは、マタイの福音書25章14節から30節の「タラントのたとえ話」とルカの福音書19章12節から27節の「ミナのたとえ話」この二つのたとえ話は、共通点がたくさんありますが、相違点も何カ所かあります。特に、著者のマタイが伝えようとする結論と、ルカが伝えようとする結論が違うため、聖書の中では、別のたとえ話として扱われています。

1.タラントのたとえ話の背景。マタイの福音書25章14節~30節

このたとえ話は、三つのたとえ話の中の一つとして、イエス様が話されたたとえ話です。
中心主題は、1節「天の御国」についてのたとえ話です。

1)花婿を迎える10人の娘のお話。(1節~13節)
五人は賢く、五人は愚かだった。結論、天の御国はいつ来るかわからないので、目を覚ましてその時を迎えなさい。

2)タラントのたとえ話。(14節~30節)
主人が帰る(再臨)までに、主人から預かったタラント(賜物)を用いなさい。イエス様の再臨までに神様から与えられた賜物を用いなさい。

3)羊と山羊に分けられるお話。(31節~46節)
このたとえ話は、人の子イエス様が地上に戻られた時に行われる裁きについて話されています。イエス様とは知らずに良いことをした人は、天の御国に迎え入れられ、何もしなかった人々は、永遠の刑罰に入れられる。

2.ミナのたとえ話の背景。(ルカの福音書19章12節~27節)

このたとえ話は、19章のザアカイお話の次に語られています。イエス様がこのたとえ話を語られたのは、ザアカイの家に集まっていた人々にです。また、その背景は、イエス様がエルサレムに入場する直前で、人々は、イエス様がエルサレムに入場し、ローマの兵隊を追い出し、ユダヤの国を再建するのではと群衆の期待がイエス様に集まっていた時です。(ルカ19章11節)しかし、イエス様の計画は、この後エルサレムで捕らえられ、十字架に付けられ罪人として殺されることでした。群衆との思いと大きくかけ離れていました。そこで、イエス様は、そのような群衆に対して、このミナのたとえ話をされたのです。

3.二つのたとえ話の共通点。

1)主人が僕に、お金を預けて遠い旅に出かけ、主人が戻って来た時に、しもべたちと預けたお金に対して精算を行った。

2)あるしもべは、主人から預かったお金を用いて、商売しお金を増やして主人に喜ばれた。

3)主人を恐れたしもべは、預かったお金を地に隠して、増やさずにそのままの金額を返し主人に叱られた。

4.二つのたとえ話の相違点。

1)しもべに預けられた金額の違い。
1タラントは6000日分の労働賃金に値する金額。(約6千万円)
1ミナは100日分の労働賃金に値する金額。(約100万円)
タラントは金額が大きすぎるため、一般の生活では用いられない貨幣。

2)マタイの福音書では、しもべの能力に応じて預けられたタラントに違いがある。
ルカの福音書では、10人しもべに同じ額が預けられた。

5.二つのたとえ話の結論について。

1)共通した結論。
二つのたとえ話に共通している結論は、主人が戻って来た時に、預けられた金額の精算が行われる。世の終わりの最後の審判を表しています。それゆえ、イエス様が再臨するまでに、預けられた、タラント、または、ミナを用いなさい。

2)二つの違った結論

・タラントのたとえ話
タラントは神様から与えられた賜物(才能)を表しています。神様は私たち一人一人に、ふさわしい賜物を与えてくださいました。賜物は、個人のためではなく、教会の徳を高めるためと教えられています。1タラントだけでも6千万円の価値がある素晴らしい賜物です。それを用いないことは、地上に1タラントを隠したしもべと同じです。そのしもべは、最後に主人に怒られてしまいました。また、さらにすぐれた賜物を求めなさいとも聖書にあります。求めなさいそうすれば与えられますとイエス様は言われました。結論は神様から預かった賜物を用いなさいということです。

・ミナのたとえ話
ルカの福音書では、主人はしもべの能力に関係なく、一人一人に1ミナづつを預けています。では、ミナとは何のことでしょうか。何を例えているのでしょうか。イエス様によって救われた者に共通に神様から与えられた物とは何でしょうか。色々なことが考えられます。例えば、信仰、聖霊など。ヨハネの福音書1章12節に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。「神の子どもとされる特権」とはどれほど大きな特権でしょうか。私たちはこの神の子どもとされる特権によって、(1)罪が赦されました。(2)永遠のいのちが与えられました。(3)神を父として祈る特権が与えられました。また、(4)神を礼拝する者とされました。私たちが「神の子どもとされる特権」を与えられたということは、これだけの恵みが与えられているとうことです。私たちはこの特権をどのように用いているでしょうか。家族への伝道は難しいと言われています。しかし、私たちの伝道はことばだけではありません。私たちの生き方それ自体がイエス様を証しする伝道です。良く聞かれることですが、キリスト教の葬儀の後、家族が礼拝に参加して、救われるケースが多くあります。もちろん生きている間に家族が救われることの方がベストですが、キリスト教の葬儀を通して故人の信仰が紹介され、改めて、家族は故人の信仰を見て信仰に入るケースがあります。それは、その人がキリスト者として生きた証が家族への伝道となるからです。私たちが神様を真剣に信じている姿を家族は見ています。私たちがキリスト者としてどう生きるかが、神様から預かった1ミナを用いるということではないでしょうか。