結婚と離婚について

マルコの福音書10章1節~16節

先週、イエスの時代、女性と子どもの価値が低い、また、男性に比べ女性や子どもの地位が低かったというお話をしました。結婚や離婚についても男性優位の社会において、女性は弱い立場に置かれていました。

1、結婚と離婚について(10章1節~12節)

2節「すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。」とあります。3節でイエスは「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」と答えられました。4節で彼らは「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」と答えました。イエスはそれに対してこのように言われました。5節「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなた方に書いたのです。」パリサイ人たちが持ち出した「離縁状」とは旧約聖書の申命記24章1節「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家からさらせ」とあります。この「離縁状」は、妻に「恥ずべきことを見つけた場合」という条件があります。「恥ずべきこと」とは、不貞などを指すと言われています。しかし当時、男性は自分の都合によって結婚し、都合が悪くなると一方的に離縁し女性を家から追い出していたようです。モーセはそのような状況を抑制するために、男性が女性を離縁する場合正当な理由がなければ離婚できないように「離縁状」を出すように定められたのです。イエスは続けて言われました。6節~9節「しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」イエスは創世記の2章24節のことばを引用され、結婚について、神が二人を一つ(一体)とされたものであり、人がそれを特別な理由がない限りは引き離してはいけないと言われたのです。キリスト教の結婚式で大切なのは、神の前で誓う「誓約」です。キリスト教では神の前でこのように誓います。「新郎に対して」○○兄弟、あなたは今、この女子と結婚しようとしています。あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか。あなたは神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、命の日の限りあなたの妻に対して堅く節操を守ることを約束しますか。新郎「神と人との前で約束いたします。」

「新婦に対して」○○姉妹、あなたは今、この男子と結婚し、妻となろうとしています。あなたはこの結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか。あなたは神の教えに従って、妻としての分を果たし、常に夫を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの夫に対して堅く節操を守ることを約束しますか。新婦「神と証人との前で約束いたします。」この誓約で大切なことは(1)神の前で誓約する。(2)この結婚が神のみ旨であること確信すること。(3)相手に対して堅く節操を守ることを約束するということです。結婚と言う制度は、人間が罪を犯す前に神が人間のために定められた聖なる制度です。イエスが言われるように、結婚とは二人が一つとなることで、神が二人を結び合わせたものです。それゆえ、人の勝手な都合によって引き離してはならないのです。

2、子どものように神の国を受け入れる者(マルコの福音書10章13節~16節)

 13節「さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。」とあります。弟子たちはイエスがお疲れなので子どもたちに煩わせないように、子どもたちを連れて来た親たちを叱ったのです。ここでも、弟子たち(一般の男性も含め)が子どもを邪魔者扱いする姿を見ます。イエスはそれを見て憤って弟子たちに言われました。14節15節「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことにあなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」イエスは弟子たちに対して憤ったとあります。前回、先頭に立ちたいものは、皆の後になり、皆に仕える者になりなさいと言われました。そして、子どもや女性など弱い立場の人を受け入れ仕えるようにお話になられたばかりです。弟子たちはそこから学ぶことなく、子どもたちがイエスのところに来るのを阻まれたのでイエスは弟子たちを憤ったのです。ここでイエスが言われた「子どものように神の国を受け入れる者」とはどのような者のことでしょうか。子どもには罪がないと強調して、子どものように罪がない者になることだと教える人もいます。しかし、実際には、子どもも嘘をつき物を盗みます。そういう意味では子どもには罪がないとはいえません。それでは、イエスが言われた「子どものように神の国を受け入れる者」とはどのような者でしょうか。これは私の解釈ですが、「疑わない(純粋・素直)」な点ではないでしょうか。私の先生の証ですが、先生が昔、韓国で生活していたころ、缶ジュースは硬いスチール缶しかありませんでした。ある時、先生がアルミ缶のジュースを買い、小さな自分の子供の前で、そのアルミ缶のジュースを飲み終わった後、それを片手で簡単につぶしたそうです。それを見た子どもが目を丸くして、お父さんは力持ちだと信じたということです。子どもは見たままを疑わずに信じる力があります。私が教会にきて初めて聖書を読んだ時が25歳でした。その時、処女降誕とイエスの復活を信じることができませんでした。マリヤは他の男性と関係して子を宿し、それを隠すために聖霊によって身ごもったとヨセフをだましたと考えました。また、復活についても、弟子たちがイエスの遺体を盗んでイエスが復活したと嘘を言いふらしたと考えていました。そのように、当時、聖書のことばをその通り信じることができませんでした。小さな子どもたちはどうでしょうか。クリスマスの話を聞いて素直に信じます。私のように疑る子どもはいません。それだけ私たち大人は余分な情報が多すぎて、聖書のことばを素直に受け入れることができない者ではないでしょうか。「子どものように神の国を受け入れる者」とは、神様のことばをその通りに受け入れる者のことではないでしょうか。それでも、私が処女降誕と復活を信じることができたのは、一つは聖霊の働きによります。(聖霊の働きとは神の助けと言う意味です)もう一つは、聖書の学びのおかげです。私は教会に通うようになりすぐに、聖書の学び会に参加するようになりました。聖書の学びを通して、マリヤが身ごもったのが他の男性との関係ではなく、聖霊によってマリヤが身ごもることによって、はじめて神の子であるイエス・キリストが誕生し、私たちの救いが完成されたことを学びました。また、復活についても、あの時の弟子たちには、兵隊を追い出してイエスの体を盗み出すことが不可能な状況であったことを学びました。また、キリスト教を迫害していたパウロがどうしてイエスを救い主と信じたのか。それは、聖書に記されているようにパウロが実際にイエスと出会ったからであり、それ以外にパウロの変化を説明できないからです。イエスを神の子救い主と信じるのは神の力なくしてありえません。子どもたちは余計な情報や疑いが少ないゆえに神の御業を素直に受け入れることができます。しかし、私たち大人は、この世の常識や経験が邪魔して素直に神のことばをそのまま信じることはできません。それゆえ、イエスは「子どものように神の国を受け入れる者でなければ決してそこに入ることはできません。」と言われたのです。